『電波メディアの神話』(03-3)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

序章 電波メディア再発見に千載一遇のチャンス 3

国会喚問は日本版マッカーシズム「召喚」だ

 業界内部の非公開の場での発言のテープが暴露されたり、国会喚問にまでいたった経過には、重大な疑問がある。言論の自由だけではなく、プライヴァシーなどの市民的自由の基本を破壊する事態である。

 言論の自由を語る時に絶対かかせないのは、「きみの考えには反対だが、きみの発言の自由は守り抜く」(ヴォルテール)という原則である。先人が血を流してきりひらいた原則を無視するのは、天にむかってツバをはく行為である。

 放送法による規制は、実際に放送された内容によって判断すべきであって、非公開の場での個人の発言を暴露して問題にしたり、ましてや心の内までを問いただすべきではない。国政調査権に根拠をもとめる弁明もあったが、これもやがては国会の多数派の独裁をゆるす結果をまねく。戦後のアメリカで荒れ狂ったマッカーシズムは、まさに「喚問」の乱用による市民権破壊の極致ではなかっただろうか。マッカーシズム下の映画人を描くアメリカ映画『真実の瞬間』では「アイ・アム・サピーンド」というあえぐような低いささやきが緊迫感をつくりだしていた。

 法律専門用語の「サピーン」の日本語訳は「召喚」で、「喚問」の英語訳は「サモン」、「査問」の英語訳は「インクワィアリー」だが、実際に行われることはほぼおなじである。しかも、本来ならば、イの一番に国政調査権によって国会に喚問されるべきゼネコン収賄事件の財界人や政治家が、まったく放置されていた最中のできごとである。時の首相、細川は、佐川急便からの一億円の説明で秘書の国会喚問を拒絶し、あげくのはてに別件の違法な株取り引きの追及をおそれてか突如辞任した。だから椿の喚問は、ダブル・スタンダードもはなはだしい弱いものいじめにほかならなかった。

 表面に現れた限りの事実経過を見ると、業界内部の非公開の場での発言メモを、なにものかが自民党総務会長の、佐藤孝行(ロッキード事件で有罪確定の黒色高官)におくりつけた。産経新聞が最初に不正確な暴露をし、読売新聞が連続バッシングで急追した。だが、自民・産経・読売のリレーは、密告犯人をかくすお芝居で、本当の順序は逆だったのかもしれない。電波独占仲間の裏切り行為をあえておかしたのは、一体誰か。民間放送の業界団体、民放連の関係者は、いまや疑心暗鬼、相互不信の渦中にある。

 要約すると、産経・読売のタカ派連合と、次期政権交替要員の自民党郵政族は、電波独占仲間を裏切った。だが、産経・読売・自民のタカ派トリオが振り回す「正義の旗」からは、湾岸戦争の際のブッシュ大統領の「アメリカの正義」とソックリの腐臭がただよう。彼らの真のねらいはいったい何だったのだろうか。

 発言内容からみても、みじめな全面謝罪の姿勢からみても、椿自身は確信犯ではない。いま真に重要なのは、仲間を血祭りにあげたタカ派の謀略のねらいを見ぬき、さらには現在の放送制度の二重底、三重底にひそむ言論支配のカラクリをあばきだすことである。歴史的にしくまれた二重、三重のカラクリを知ることなしには、椿舌禍事件そのものも真に理解できないし、ましてや今後に予想される事態にそなえることは不可能である。


(03-4)椿舌禍事件の複雑な構造の裏に隠れた真の狙い