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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第4章1

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第4章1) 現代の神話

 ザイール(コンゴ)盆地の広大な熱帯降雨林の中心部にいるバトワ民族(ピグミー)は、彼らの一族のなかに鉄鍛冶師がいたという伝説を語りつたえている。鍛冶師の氏族は、アコアとよばれていた。

 「彼らは、だれよりもさきに、鉄の矢と槍と斧と刀をつくった。その仕事場を覗くことは、職人以外には禁止されていた。ある日、1人の男が、その仕事場を見おろす木の上にしのびこんだ。

 職長は鍛冶仕事をはじめた。彼は火をいれ、鉄を鍛えた。彼は斧をつくろうとした。しかし、いつものようにはいかなかった。彼はだれかに見られていることを感じ、木を見上げた。彼は見知らぬ男をそこに認めた。そのとき、アコア族は、まるで妖精のように、直ちに消え去った。」(『ビグミーの世界』、p.103)

 そして、秘密を盗んだ男が、鉄のつくり方をひろめたというのである。

 伝説があるぐらいだから、当然、バトワ民族は鉄器を使用している。鉄のヤジリ、ホコサキ、ナタ、包丁、山刀、鉄の火打石を使っている。また、同じ狩猟民のサン民族(ブッシュマン)も、鉄のヤジリ、ホコサキをつかっている。以上の鉄器の使用状況は、わたしが、本やフィルムでたしかめえたものだけだから、ほかの種類の鉄器を使っている可能性もある。

 ところが、ほとんどの本では、バトワ民族やサン民族は、石器時代そのままであるとか、土器を使っていないから、旧石器時代にちかいという説明がなされている。なぜかというと、彼らが鉄を、他のバントゥ系の民族から、物々交換で手にいれているからだというのである。この説明は果して正しいのであろうか。

 古典時代のギリシャ人は、やはり、鉄を物々交換で手にいれていた。鉄は、彼らにとって、どこからともなく運ばれてくる金属であった。彼らは、鉄鉱石の存在すら知らなかったのである。また、アッシリア人は、やはり鉄鉱石のない平野部にいたから、物々交換で鉄を手にいれていた。しかし、ョーロッパ系の学者は、ギリシャ人もアッシリア人も、鉄器時代に区分している。

 バトワ民族もサン民族も、鉄器を使用しているだけではない。鉄の棒を手にいれて、自分達の手で、火を使って加工している。つまり、製鉄所からきた鉄塊を使って製品をつくる町の鉄工場のような仕事をしている。日本でも、「村の鍛冶屋」とよばれた人々は、自分の手で鉱石を掘りだしたり、それを溶解して鉄をとりだしたりする作業をやってはいなかった。しかも、それ以外の人々は、出来上った製品を使用しただけである。

 だから当然、アフリカの狩猟民族を、石器時代に区分するのは、大変なまちがいである。彼らは、ヨーロッパ人がアフリカにやってくるよりずっと前から、鉄器を使っていた。実際、アフリカ人で鉄器を使用しない民族は、どこにもいなかった。それどころか、アフリカ東海岸を通して、アラブ、インド方面に、大量の鉄が輸出されていた。すくなくとも中世期のアフリカは、むしろ製鉄業の中心地であった。そして、わたしの考えでは、古代においても、たしかにそうだったにちがいない。

 また、土器を使用していないと旧石器時代とか、中石器時代に区分するのも、大変なまちがいである。世界中どこにいっても、狩猟民族というものは、大体、土器は使用していない。理由は簡単である。土器は重くて、しかも割れやすい。高級な土器、つまり陶器や磁器であっても、この性質は変わらない。だから、移動する必要のある民族は、土器を使わない。遊牧民族であっても、この事情はほとんど同じである。そのかわりに、ヒョータンでつくった食器とか、皮の袋とかをつかう。山登りにセトモノのドビンを持っていく人がいたら、相当のシロウトか気取り屋だと思われるにちがいない。それと同じ理屈が、どうして考古学者や歴史学者にわからなかったのだろうか。それとも、わからない振りをしていたのだろうか。

 このこたえは、わざわざ出すまでもない。ともかく、先入観というものはおそろしいもので、専門家でさえ、一度つくられた印象に支配されてしまう。

 たとえば、のちに紹介するような古代アフリカの遺跡の数々を、熱心に調査したイギリス人のジャーナリスト、デヴィドソンは、いかにアフリカ文明が誤解につつまれていたかという具体例を、つぎのように書いている。

 「1958年になってからですら、ロンドン駐在の英領東アフリカ弁務官サー・アーサー・カービーは……『過去60年間、つまりこの部屋にお集まりのみなさんが生きてこられた年月とちょっとの間に、東アフリカは完全に原始的な国、多くの点で石器時代よりもおくれた状態から発展してきたのです』といったほどである」(『古代アフリカの発見』、p.2)

 このカービーは、「サー」、つまり貴族である。そして、ロンドン駐在の弁務官というのは、かりに、ひとつの植民地を独立国にたとえると、そこからイギリスに派遣された外務大臣級の大使だ。そういう地位の人物が、つい最近まで、このような講演をやっているわけだから、なかなか反対できるものではない。

 だが、アフリカの製鉄の歴史は、意外に早くから、ヨーロッパ系の学者にも知られていた。現在のスーダンには、メロエ(のちに紹介)という古都があったのだが、そこには、約10メートルもの高さの2つのボタ山があった。調べてみると、これは鉄をとりだしたあとの鉱石のカス(鉱滓、カナクソ)であった。しかも、どうおそく見積っても、このメロエの製鉄業は、紀元前6世紀ごろにははじめられていた。イギリスの考古学者はびっくりして、これはアフリカのバーミンガム(イギリスの製鉄業の中心地)であるといった。しかし、歴史の順序から考えると、バーミンガムの方が、イギリスのメロエなのである。

 また、製鉄の技術史を研究した冶金学者は、すでに1880年代から、アフリカ大陸こそ鉄の発明が行なわれたところにちがいないという考えを発表していた。わたしも以下に紹介するような事実からして、その考えに賛成である。

 しかし、考吉学者も歴史学者も、なかなか冶金学者、つまり鉄鍛冶師の末裔の意見には賛成しなかった。それはなぜだろうか。

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