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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』序章6

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(序章6) ファラオの人種壁画

 人類学者の寺田和夫は、また、古代エジプト人の人種観について、絵画(下図)を示し、つぎのように書いている。


メレネプタ王墓の四大人種壁画

 「やがて、古代国家が成立するに及んで、われわれは、……人類学的知識の増大を、具体的に知ることができる。エジプトの絵画、とくに第19王朝のメレンプタ王(紀元前1212~1181)の王墓の絵画は4人種の特徴を巧みに伝えているものとして、しばしば引用される。ホルス《エジプトのファラオの氏族神である鷹神》に導かれて歩む十数人は4群からなり、第1群はエジプト人で、赤い皮膚、鼻筋は真っ直ぐか、わずかに鷲鼻で、黒髪をもち、優雅な姿勢をしている。第2群はアジア人かアッシリア、ユダヤ、ペルシャ人であろう。黄色い皮膚、短頭、隆鼻、黒髪、低身長である。第3群は黒人で、髪は縮れ、広鼻、厚唇、突顎を示す。第4群はリビア人と思われるが、白い皮膚、ブロンド、赤ひげ、狭い鷲鼻、青い眼で、活動的にみえる」(『人種とは何か』、p.61-62)

 たしかに、これに類する文章は、人類学、人種理論開係の本には、しばしば登場する。寺田和夫もヨーロッパ人学者の記述をそのまま訳したのであろう。ところが、この記述の仕方には、いくつかの重大な疑問がある。

 まず最初に、このメレネプタの時代は、統一エジプト帝国成立以来からしても、約2000年以後である。2000年といえば、日本の歴史がまるまる収まってしまうほどの、広大な時空をへだてている。しかも、それより800年前、紀元前1000年頃のエジプトの絵画では、褐色のエジプト人と、黄色のオリエント(アジア)人が書きわけられており、この区別を先に論ずる必要があろう。古代エジプト人は、まず、自分達とオリエント人の肌色の相違を明確にしている。

 第2に、王墓に描かれた人物像は、各国の王族であって、平民ではない。

 第3に、2群と3群とされるものの順序が、実際の絵の順序と、いれかわっている。「黒人」とされるものの方が、第2群であった。

 第4に、各群の特徴に関する記述が、ヨーロッパ人好みの表現に変更されている。

 メレネプタ王墓を最初に調査したのは、ヒエログリフの解読で有名なフランス人学者、シャンポリオンである。彼は沢山の手紙を書いた。ディオプは、1839年出版の叢書、『世界』に所収されたシャンポリオンの書簡集を引用して、いくつかの指摘をしている。

 まず、シャンポリオン自身の手紙から、メレネプタ王墓の描写を抜き出してみたい。少し長文になるが、前記の引用と読みくらべていただきたい。シャンポリオンはこう書いている。

 「第1群……神に最も隣接しており、暗色の赤い肌色、よく均勢のとれた身体つき、優雅な顔立ち、鼻は、わずかに鷲鼻、長い編み毛、……ロト・エン・ネ・ロメ、ひとの人種、もっともすぐれたひと、すなわちエジプト人。

 そのあとに現われる人種については、いかなる不確かさもない、……それはネグルの人種に属し、ネヘシという一般的名称で示されている。そのあとにつきしたがうものは、非常に異なった容貌を示している。黄色もしくは日焼けした顔色の上に、わずかに肉色が引かれており、鼻は強い鷲鼻、黒いひげ……ナムウとよばれる。

 そして最後に来るのが、われわれが肉色と名づける皮膚の色合い、またはより微妙なニュアンスの、白い皮膚の持ち主である。鼻は真っ直ぐか、またはアーチ型で、眼は青、ひげはブロンドか赤毛、身長は高く、またはすらりと伸びた姿勢であり、まだ毛のついた牛の皮を着て、身体のあちこちに入れ墨をしており、まぎれもない野蛮人。タンフウとよばれる。

 わたしは、これと共通する絵を、他の王墓でさがすのがいやになった。それらの中に、いくつかの変形をみることはできるにしても、それらはわたしに、エジプトの旧来の秩序にもとづいて、世界の4つの部分の住民を描く目的に立つものであることを、明白に確信させるものであった。……2群……アフリカ本来の住民、黒色人[ネグル]、……最後の(わたしはこれをいうのが恥かしい。なぜなら、われわれの人種は最後であり、序列のなかでも、もっとも野蛮なものだからだ)ヨーロッパ人は、この時代には末席にあり、それは正当な扱いであり、世間的には見よい姿をしていたとはいえない。ここでは、ブロンド人種で白い肌の民族が、その出発点においては、ヨーロッパだけでなく、アジアにもいた、と考えなくてはならない。……他の墓でも、同し一般的名称が使われ、つねに同じ順序である。また、エジプト人とアフリカ人は、同じ手法によって表現されており、この手法には変更はありえない、しかし、ナムウ(アジア人)とタンフウ(ヨーロッパ諸人種)については、重要かつ興味深い異種を書き分けてある」(『黒色人国家と文化』、p.52-54)

 シャンポリオンの記述こそは、メレネプタ王墓の人種壁画の描写に関する原典とされなければならない。しかし、さきに示した寺田和夫の例文とは、相当にちがっている。

 第1群について、シャンポリオンが「暗色の赤」と書いていたものが、寺田和夫の例文では単に「赤」となっている。「長い編み毛」(マサイ民族は縮れ毛を編んで垂らしている)とされていたものが、単に「黒髪」となっている。

 第2群と第3群の、順序のいれかえは、明らかにヨーロッパ人学者による意図的な工作にちがいない。古代エジプト人にとって、エジプトの王族につぐ地位をしめるものは、スーダンのクシュ帝国の王族に他ならなかった。古代エジプトとクシュとは、のちにのべるように、同盟的間係にあった。

 第3群とされるべきアジア人について、「ユダヤ人、ペルシャ人」を登場させているのは、どういうわけであろうか。ユダヤの建国は前10世紀頃であり、メレネプタの時代には、王族としての存在どころか、単一民族、人種としての類別は成立しない。ペルシャの名が部族名としてアッシリアの記録にあらわれるのも、前9世紀である。シャンポリオンは、「メデス人またはペルシャの何処かのもとの住民」(同前、p.54)としており、ペルシャを便宜的な地方名として使っていたにすぎない。

 第4群を「リビア人」とするのは、また、大変なまちがいである。

 シャンポリオンが[ヨーロッパだけでなく、アジアと]書いているように、「タンフウ」は、ヨーロッパとオリエント北部の境界近辺にしかいなかった。へロドトスは、ファラオ・セソトリスの軍勢が、草原の遊牧民スキティア人をも征服したといっており、おそらく「タンフウ」は、南ロシアあたりでエジプト人と接触したものと考えられる。

 アフリカ大陸の現在のリビアあたりの住民は、エジプト人によって、レブとよばれていた。へ口ドトスの時代には、このレブが、アフリカ大陸全体を指す、リビアという名称になった。つまり、ギリシャ人は、リビア人すなわちアフリカ人、いいかえれば、黒色人と考えていた。このあたりに、ブロンド人種がいたという証拠は何もない。現在、わずかに金髪青眼の人々がいるにしても、これは、後代の混血の結果にすぎない。

 このように、ヨーロッパ系の学者によってはじめられたエジプト古記録の解釈は、誤解と曲解にみちている。しかも、その背景には、人類史、文化史のすべてにわたる複雑な仮説的主張が、はりめぐらされている。デヴィドソンは、アフリカ文明を紹介するにあたって、ある法律家が使った「わけのわからぬ大前提」、という表現を引用している。そこでわたしは、なぜ、「わけのわからぬ」仮説が通用してきたのか、という埋由を考えてみた。

 「わけ」とか、「わかる」とかいう単語は、「わける」に由来する。つまり、簡単な部分、原理に分解しなければ、ことの真相はわからない。学者は、複雑に、抽象的に表現したがる。そこに、独断的な仮説が通用する弱点がある。

 だからわたしは、以下、すこしまわり道のようだが、アフリカ大陸の歴史をめぐる問題点を、ひとつづつ追求したい。そのどれもこれもが、大変な仕掛けになっているのだ。

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