『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』序章4

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近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

ネヘシの黒い霧

 オリエントとは反対の側、つまり、エジプトの南方、現在のスーダンには、クシュ帝国があった。この国は、いろいろなニュアンスがあるにしても、あらゆる学者によって、黒色人の帝国として認められている。歴史の細部はのちに考えるが、この帝国は、エジプトから現在のウガンダにいたる領土を支配し、古代エジプト第25王朝(前751-656)をも開いた。

 しかし、それより1000年以上も前から、クシュ帝国とエジプト帝国との国境地帯、フィラエ(ヘー)には、城砦がきずかれ、石碑が建てられていた。この石碑はドイツ人学者に発見され、ベルリンにもち帰られた。

 人類学者の寺田和夫は、その碑文の内容解釈も含めて、つぎのように書いている。

 「最古の黒人に対する差別の例としてエジプトのセソトリス3世(前1818-1849)の命令でつくられた、第2爆布近くの石碑があげられることがある。

 『南の国境。上下エジプトの王たるセソトリス3世――生命の永らえんことを――の御世8年にこれを建てる。輸入のためか、または交易所で物を購入する目的のある場合を除き、黒人が水路・陸路を舟をもって、あるいは家畜を連れてこの国境を越えてはならない。前記の目的で越境する黒人は歓迎されるが、ヘーの地点より下流に舟で進むことは永久に禁止する』」(『人種とは何か』、p.146-148)

 文中、「黒人」にあたる古代エジプト語は、ネヘシであるという。ほとんどの学者は、これを黒人とか、黒色人とか訳している。フランス人のコルヌヴァソも、「ネグル」(ニグロ)としている。

 ところが、セネガル人のディオプは、この訳語は間違いであるだけではなく、曲解だとし、きびしい批判をしている。その理由は、1955年出版の『黒色人国家と文化』(p.306-309)でも、くわしくのべられている。だがここでは、それよりも論旨明解で、ヒエログリフまで描出してある、1967年出版の『黒色人文明の先行性』の方から、訳出しておきたい。ディオプは、アフリカの諸言語(セム系諸語も含む)では、ケム、カム、ハムなどが、「黒い」という語根をなすことをくわしく説明し、つぎのようにいう。

 「古代エジプト語では、ケムが黒の意味を持っていた。……特筆すべきことには、エジプト人は彼ら以外の黒色人《ディオプは古代エジプト黒色人説》を区別するために、皮膚の色を指し示すような人種用語を使ったことはない。……エジプト人は、《クシュ人のことを》、彼らの家族の末席につらなるものとみなしており、つぎのように呼んだ。クシュの性悪息子たち、クシュの横着息子たち、やくざものたち、である。彼らを指示する民族名は、ネヘス、ネヘシィ(複数)であった。注目すべきことには、この言葉はウォロフ語にも存在しており、古代エジプト語の俗化した意味を保っている。すなわち、ウォロフ語では、ナハス=やくざもの、三下奴、ナハス・イ=やくざものたち(複数)である。

 《ネヘス》を、黒人[ネグル]と訳した人々は、意図的に(なぜなら、彼らはそういうことを知っていたのだから)、不当な曲解を行ったのである。これは、色彩を表現する用語ではないのだ」(『黒色人文明の先行性』、p.54-56)

 ヒエログリフの描出は省いた。専門家にしかわからない問題であろう。しかし、さいわいなことに、エジプト史学者の鈴木八司は、つぎのように書いていた。重複するので、碑文の訳出個所は省くが、彼は、ネヘシに「南方人」という訳語を当てている。

 「エジプト人はこれらクシュより南方の住民を総称して『ネヘシ』と呼んだ。従って、このネヘシという言葉を『黒人[ニグロ]』と訳すことは必ずしも妥当ではない」(『ナイルに沈む歴史』、p.170)

 ネヘシの語源は、いずれ明らかにされるであろう。ディオプの本では、大変な数の古代エジプト語とウォロフ語の比較が行なわれている。単語だけではなく、文法構造の共通性も指摘されている。そして、何人かのヨーロッパ系学者の発言は、ディオプの言語学上の主張の正しさを、「間接的」に認めている。なぜ「間接的」かといえば、彼らは決して、「アフリカの黒色人学者ディオプ氏の説にしたがえば、……」という姿勢は示さないからである。

 ヨーロッパ系学者のこのような姿勢の背景にはもちろん、長期にわたる人種差別の歴史がある。その上に、ディオプの本も、ヨーロッパ系学者への大変痛烈な批判に満ちており、またまた新しい拒絶反応をつくりだしているかのようである。

 それはともかく、以上のことから考えると、ネヘシはおそらく、古代エジプト人の「中華思想」にもとづく、「南蛮人」というほどの意味である。絶対に、肌色を示す人種用語ではないだろう。

 問題は、「黒人[ニグロ]」と訳しつづけたヨーロッパ系学者の意図にある。最初の訳出者がなにを考えたかは問題ではない。それは結果として、つぎの三段論法をみちびきだしたといえる。

 1、スーダンは「黒人[ニグロ]」の領域である。
 2、隣人を「黒人[ニグロ]」とよんだ古代エジプト人自身は「黒人[ニグロ]」ではない。彼らは自分たちを、「黒人[ニグロ]」から区別していた。
 3、エジプト人は「白人[コーカソイド]」(ハム系とされてきた)である。

 この誤解、またはディオプによれば曲解と、つぎに示す、古代エジプトの国名、ケメト(ケメット)の解釈とは、まさに表裏一体の関係にあるようだ。

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