『亜空間通信』776号(2004/05/25) 阿修羅投稿を再録

ブッシュの悪魔テロリストと『正義の人々』(アルベール・カミュ)の歴史はフランス革命に遡る

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『亜空間通信』776号(2004/05/25)
【ブッシュの悪魔テロリストと『正義の人々』(アルベール・カミュ)の歴史はフランス革命に遡る】

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 転送、転載、引用、訳出、大歓迎!

 テロという言葉の近代の語源は、フランス革命の際の和名「恐怖政治」であり、これをやったのは、当時の共和派であり、王政に対する反対派であるから、今の右か左かの区分で言うと、左の仕業である。

 アメリカのユダヤ人の「生成文法」などというイカサマ言語学者、チョムスキーが、アメリカをテロリスト国家と呼ぶものだから、チョムスキー追っ掛け大好きの日本のミーハー偽善系左翼のド阿呆どもの低脳の頭は、今や完全に混乱の極に達している。

 このところ、ブッシュの悪魔としての相手に対する表現、テロリストを、「いや、あれはレジスタンス」と言うのが、自称平和主義者の常となっているが、これも低脳向きの言葉の遊びでしかない。

 フランスのレジスタンスも共産党の末端軍事組織のテロリストの一種で、しかも、党派としてはソ連寄りなのに、実際には、アメリカ軍の下請けだったのだから、この美化も、決定的な間違いである。

 これらのカタコト使いの混乱状況も、日本の「左翼」の知的水準の低さ、怠け癖の象徴である。特に、暴力主義の最低、半気違いの赤軍派のシンパ(江戸時代の親藩の「ん」抜け、腑抜けか)が、実に酷い低脳振りを発揮している。いわゆる虎馬とかで、もともと悪い頭が、プラスチック・ヘルメットを被ってのゲバ棒の殴り合い以来、いかれたままの連中が多いのである。

 いかれているのは、何も、三菱自動車の欠陥車両だけではない。欠陥車両のせいで死ぬのは、それほど大人数ではないが、欠陥頭脳の自称人間、裸の猿を放置すると、大量殺人の戦争になるから、こちらの方が危険である。

 私は、9.11事件の前に、「テロリスト」に関する以下の2つの電網記事を発表していた。

 自分の電網宝庫の中を探すのが面倒だから、「正義の人々」と「テロリスト」の2つの鍵言葉で電網検索したら、すぐに出てきたから、そういう言葉の結びつきで、何かを論じている人は、非常に少ないのであろう。

 正義の人々、カミュ、テロリスト の検索結果 約 19 件中 1 - 17 件目

 わが旧稿の2つ以外に14あったが、そのほとんどは、単純な論及のみであって、唯一、少し面白そうなのが、以下の1つだけであった。多分、どこかの大学の若手の教員の電網宝庫であろう。

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正義の人々、カミュ、テロリスト、フランシス・ジャンソン の検索結果 1 件中 1 - 1 件目

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/newpage37.html
黒猫講堂(別館)
 この部屋は黒猫館館長が皆さんに語りかける部屋です。
哲学のお話  
ニヒリズムを超えて(はらぴょん様ご寄稿)

http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/newpage165.html
ニヒリズムを超えて
はらぴょん
(講演日2003年8月15日)

(6)戦後フランス思想の再検討 その3

カミュの『反抗的人間』(新潮社版カミュ全集参照)は、サルトルおよびフランシス・ジャンソンとの間に、激烈な論争を引き起こした。(『革命か、反抗か』新潮文庫参照)

この『反抗的人間』の位置づけを見るために、サルトルの政治的変遷の歴史を振り返ってみることにする。

まず、『実存主義はヒューマニズムである』の頃のサルトルは、アクション誌などでマルクス主義に叩かれ、サルトルのマルクス主義の評価も否定的であった。また、マルクス主義陣営の方も、ルカーチが『實存主義か、マルクス主義か』(岩波書店)を刊行して、実存主義を衰退しゆく資本主義の没落を象徴するイデオロギーで、その危機意識の現れとするなど、最悪の評価であった。サルトルの「唯物論と革命」も、現代のマルクス主義が機械論的唯物論と化しているとした辛らつな評価であった。

サルトルの転機は、モーリス・メルロ=ポンティが、『ヒューマニズムとテロル』(現代思潮社)を刊行して、モスクワ裁判をめぐって、精錬されたスターリン主義護教論をみせ、さらにデュクロ事件が起き、警察による不当な共産主義者の弾圧が起きてからである。これにより、サルトルは急激に左傾化し、中道的な第三の道をさぐる革命的民主連合の道を捨て、「共産主義者と平和」を発表する。これは、ソ連側は平和勢力なのだが、資本主義による攻撃から防衛するために、仕方なしに軍事拡張をせざるをえないという論旨のものだった。(現在の観点からすると、全く間違った見解である。)

この後に刊行されたのがカミュの『反抗的人間』であり、これは、革命ではなく、反抗を選ぶというもので、未来の幸福のために、今日の何千、何万の人の命を奪ってもいいとする理論的殺人を拒否するというものであった。マルクス主義者は、歴史を神格化しており、歴史のために殺人を肯定するが、それは人間の道(正午の思想、中庸の思想)に反するのであり、仮にひとりを殺したならば、自死するようなロシアの(マルクス主義以前の)心優しきテロリストの方が倫理的だというのである。

この『反抗的人間』は、「現代(ル・タン・モデルヌ)」を主催するサルトル陣営の怒りを買い、まず、フランシス・ジャンソンがカミュを酷評し、それに応戦したカミュを、それは歴史を否定する態度であるとサルトルとジャンソンで追い落とすという論戦となった。

この論争後、メルロ=ポンティは『弁証法の冒険』(みすず書房)を刊行し、サルトルとスターリン体制下のソ連をともに弁証法を喪ったウルトラ・ボルシェヴィズムとして批判し、自身は非共産主義左翼に転向するという事件が起きる。

サルトルが『方法の問題』と『弁証法的理性批判』(ともに人文書院版サルトル全集)を書いたのは、メルロ=ポンティの批判があったからである。ここで、サルトルは彼なりの仕方で弁証法を展開する。諸個人のプラクシス(実践作用)で作り出した状況が、実践的惰性態という疎外態となるとき、再び諸個人のプラクシスで、状況を改変できると。

だが、ここでストップがかかる。クロード・レヴィ=ストロースが「メルロ=ポンティに捧ぐ」として『野生の思考(パンセ・ソヴァージュ)』(みすず書房、なお、パンセ・ソヴァージュには野生の三色すみれの意味もある。)を書き、サルトルのコギトの地域的限界と、彼の進歩史観の自民族中心主義を暴露し、西欧とは違う意味での高度な野生の思考をみせる民族の存在を明らかにしたのだ。(例えば複雑な婚姻システムや、トーテミズム、植物の分類の体系など。)ここで、実存主義の凋落と構造主義の勃興が起きる。サルトルは完全に過去の人となったのだ。

サルトルは、その後五月革命の頃、マオ派(毛沢東派)のピエール・ヴィクトールという青年に出会う。(『反逆は正しい[造反有理]』人文書院参照)そして、「赤色救援」とか、共産党のさらに左の運動にコミットし、彼らの出す機関紙の編集責任者として名前を貸す。こうして、逮捕と、有名人ゆえの釈放の繰り返しになる。これには、カストール(ボーヴォワール)(『別れの儀式』人文書院参照)や、かつての友人レイモン・アロンも、サルトルらしい思考は見失われたと嘆く。これがサルトルの晩年である。
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 以下が、わが旧稿の2つである。

1)------------------------------------------------------------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/turedure-0-6-1.html
「編集長日記風」
木村愛二の生活と意見
2000年6月分
6.17(土) 1960年安保論議から『正義の人々』(アルベール・カミュ)再読に至る

 さる6.15.ロフトプラスワンの出し物、「1960年安保闘争40周年記念/『右』も『左』も掛かって来い/激論!『国士』総結集!21世紀の日本を語る」の企画と主役の出演で、不眠不休とまではいかないが、前日から徹夜で自作のヴィデオを仕上げるなど、ついつい悪乗りで、無理を重ねてしまった。日記どころではなかった。その件はまた詳しく記すが、昨日、武蔵野市立中央図書館から『カミュ全集5.』を借り出した。

 なぜかというと、ロフトプラスワンの「激論」で、「暴力」の是非が問題となったからである。私の微かな記憶では、学生演劇でカミュがロシアのテロリストを題材とした戯曲、『正義の人々』を上演(東大の学部、本郷での5月祭での劇団駒場の企画)したのは、1960年安保(闘争の山場の6.15.)の前だった。『正義の人々』のキーワードで検索すると、図書館の地下の「書庫」に入っている『カミュ全集5.』が出てきた。注文し、しばし待ち、受け取って、めくって目次を見ると、確かに『正義の人々』が入っていた。

 自宅に戻ってから、今度は、押し入れの中の「古い物」とマジックで大書したダンボール箱をひっくり返すと、『正義の人々』のプログラムがあった。やはり、1958年の五月祭での上演だった。私の名前は、「スタッフ」の中の「舞台美術」の2番目に記されているが、詳しくは「大道具」だった。

『正義の人々』の原題は、Les Justesである。私は、もっと素朴に「正しい人々」と訳したい。実録に依拠した戯曲なのだが、時代は第一次ロシア革命の1905年、革命社会党の行動隊の物語である。周到に計画したセルゲイ大公の馬車に爆弾を投ずる暗殺予定の当日、「詩人」の渾名の学生、カリャーエフは、大公の隣に子供がいるのを見て、爆弾を投げることができなくなった。その後の激論の末、再び志願したカリャーエフは、今度は独りで馬車に乗っていた大公の暗殺に成功する。カリャーエフは逮捕され、死刑となる。

 この実在の歴史的人物、カリャーエフを主役とする「心優しき殺人者」たちの矛盾に満ちた物語を、カミュは、当時流行りの「不条理」のドラマに仕立て上げた。「正しい」とは何か。今の私にとっては、易しいようでいて、「とかく世間は住みにくい」現実の社会生活の場では、ますます難しさを増す問題なのだが、ともかく、自分たちの「存在」に気付いてしまった人類集団にとって、いわば永遠の矛盾の課題の中心であろう。

 私は、すでに、暴力には絶対反対、若者を煽っては、その命を危険に晒す左も右も同じ「指導者」こと、悪賢い年長者には要注意として、他人ではなく自分の命を賭ける「塾年・非武装・無抵抗・平和部隊」を提唱している。その私から見れば、ロフトプラスワンに招いた自称「左翼」の若衆親分たちの立論は、未熟もいいところだった。それでも、人前で、あまり露骨に批判するのは逆効果と考え、いささか遠慮し、遠回しの発言に止めた。ここでも、あまりドギツイことは言わない。私も、少しは狡くなったのである。

「塾年・非武装・無抵抗・平和部隊」について、まだの方には、ぜひとも「木村愛二の政策提言」(以下のURL)を見て頂きたいと願う。

<http://www.jca.apc.org/~altmedka/hibusou.html>

 明日の18日には、またまた、カンダパンセなどと「長崎ちゃゃんぽんカタカナ語」に変名した神田神保町の元「労音会館」で行われる社労党とやらが主催の「樺美智子追悼集会」に参加して、さらに悪乗り取材を続ける。これも宿命である。その想いを入れ込んだ自作ヴィデオも、改訂増補して、台本を入力し、ネット販売の予定である。今からmailの予約注文を受け付けることにする。
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2)------------------------------------------------------------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/d-1-7-20.html
電子手紙の送信日付け順・注釈付き一般公開文書館
7.20.(金)フランス革命以前には「なかった」概念を振り回す『人権の人々』を思ったロフトの夜7.18.
送信日時:2001年7月20日 金曜日 0:18 AM
件名 :[pmn 15599]『人権の人々』を思ったロフトの夜7.18.

 昨晩、新宿歌舞伎町の連日討論酒場、ロフトプラスワンにて、「人権って何?/大阪児童殺傷事件でも問題になった人権派や精神科医らの発言を検証する」、出演は「西岡昌紀(医師)他」の「他」の末席として短時間、舞台の上で生麦酒を無料で呑 んできました。

「他」の出席者は、日垣隆(文芸春秋刊、『偽善系』著者)さんだったのですが、出席の確認が遅れたために、『創』、『噂の真相』、ともに10日発売予定の8月号の一頁広告には、締め切りに間に合わず、名前が入れられなかったとのことでした。その件も含めて、ロフトプラスワンの店長、加藤梅造さんには、他の雑誌とか、広告作戦を刷新するよう進言して置きました。

「ガス室の嘘」の件は、私が客席から質問を受ける後半の幕間のような時間に舞台に登ったので、こちらから言う前に質問が出て、軽く語って置きましたが、それよりも、日垣さんの「偽善系」批判の方が議論が沸騰して重要なので、その核心に触れる部分だけを、今晩から始めて少しずつ報告し、意見を述べます。席亭と自称する経営者の平野さんは、客席が非常に熱心に聞いていたと評していましたが、私も、そう感じました。

 慢性左翼病の偽善系は、人権を楯に取るのですが、「人権」について、全共闘世代の呉智英(文字が正確かどうか自信ないのですが、同期生が「ゴチエイ」と呼ぶこと は間違いありません)さんが、フランス革命以前には「なかった」という主旨の皮肉 を発して波紋を呼んだことがあります。裸の猿の社会的な概念は、すべて裸の猿の発明ですから、もともとはすべてなかったのです。

 この呉さんの発言を入れ込んでみたかったのですが、その時間はありませんでした。日垣さんは、「少年にも死刑を」と主張しているのですが、この点でも、これはまた聞きですが、呉さんは、最近、死刑を廃止して仇討ちを復活せよと皮肉っているそうです。これも、日垣さんの主張と共通するところがあります。

 で、私は、帰宅の途中、帝政ロシアのテロリストたちを主人公にしたカミュの『正義の人々』を思い出しました。今や、「正義の御旗」の怪しさは知れ渡っています。そこで、正義が人権に変わり、「人権の御旗」を振り回す「人権の人々」のテロが横行しているのだと考えると、非常に分かりやすくなります。

 同種の新語には「人道に対する罪」があります。司法試験は受けなかったものの東北大学の法学部に学んだ日垣さんが、壇上で何度も強調した「罪刑法定主義」の原則から言えば、それ以前に存在しなかった即席法で、ドイツが犯したと称する「人道に対する罪」を裁いたのは、それ自体、違法行為の極なのですが、法律を学んだと称する偽善系の人々は、この点を論じません。

 日垣さんは、批判対象の「日弁連」のことを、やや遠慮して「職能団体」と呼びましたが、私は「職益団体」と呼びます。法律を学んだから、一般人よりも法網を潜る術を知っているのだと考えると、これまた非常に理解し易くなるのです。

 いずれにしても、あちらは芝居だからでしょうか、『正義の人々』と比べると、最近の赤軍派支持者の『人権の人々』なんてのは、実に愚露(「グロ」の変換の間違いなのか、それとも愚鈍だったのか、まるで記憶無し)で、とても見られたのものではありません。
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 以上のわが旧稿の2つは、ともに、私がまだ、pmnメーリングリスト(民衆のメディア連絡会の電子手紙広場)に参加していた頃の文章である。この電子手紙広場には、その当時、非常に間抜けな「赤軍派支持者」が何人かいて、その連中が管理人の地位を実質的に乗っ取ってしまったので、私は、時間の無駄として、さっさと退会した。

 そんな実に下司で間抜けな連中が、平和なんて言ったって、誰も信用しないから、米=日=強姦コンビの元首が、勝手放題の不気味な世の中になってしまったのである。

 ああ、げに恐ろしきは「偽の友」なり。

 以上。


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