わたしの雑記帳

2004/5/23 虐待の心理。アイヒマン実験」と「監獄実験」から。


米軍のイラク兵の虐待発覚を機に、虐待者の心理についていろいろ語られている。
そのなかで、特に私が注目したのは2つの実験結果だった。

ひとつは「アイヒマン実験」
1960年から1963年、アメリカのイェール大学で心理学教授をしていたスタンレー・ミルグラム博士が行った実験。ナチスで600万人ものユダヤ人を虐殺したアドルフ・アイヒマンの名前に由来しているという。
「記憶研究のための実験」と称して集めた人々に、「教師」と「生徒」という役割を与える。
生徒役の被験者が質問に答えられないと、教師役が電気ショックを与える(実は生徒役は助手で、電気ショックの痛みに苦しむ演技をしていた)。実験を続けるうちに教師役は躊躇なく電圧を上げていく。
教師役と生徒役は別の部屋で、スピーカーを通して苦しむ声を聞かせた場合、40人中31人(約8割)が300ボルト以上の電気ショックを生徒役に与え、最高値の450ボルトに達したのが25人(約6割以上。)
教師役と生徒役を同じ部屋にした場合にも、40人中25人が300ボルト以上の電気ショックを与え、最高値まで実験を続けた者が16人もいたという。

もうひとつは「監獄実験
1971年、アメリカのスタンフォード大学心理学部で心理学者フィリップ・ジンバルド教授が似たような実験を行なった。
新聞広告で集めた人々を「看守役」と「囚人役」とに分け、模擬刑務所を演じさせる。すると、看守役はどんどん残酷になり、その行為を楽しむようになった。囚人役は無気力になっていったという。
2週間の予定ではじまった実験は、結局1週間程度で中止せざるを得ないほど、残虐行為はエスカレートしていったという。

この2つの実験結果から、私が思い描いたのは、体罰に走る教師の姿と、児童養護施設内での虐待問題だった。
大儀や役割を与えられると、平凡な人びとが変わっていく。それは、戦争という非常事態においてのみ起こることではないということ。人びとは洗脳されやすく、そして虐待者に罪悪感が少ないか、ないに等しいということ。

北海道の児童養護施設で、職員の子どもへの暴力事件発覚をきっかけとして、調査を行ったところ、24施設の内8施設で、職員が子どもに体罰を加えたり暴言を吐いていたことが判明したという(2004/5/13朝日新聞)。
けがなどの報告はなかったというが、その信憑性は疑わしいと私自身は考えている。短期間のしかも役所の人間による調査に対して、施設職員や児童が、安心、信頼して、本当のことを告げられるとは思えない。氷山の一角であると考える。

そしてこの北海道の児童養護施設というのは、たしか(私の記憶違いでなければ)、他県に先駆けて体罰全面禁止をうたった、先進的な地域であるはずだ。そこでさえ、この状況ということは、全国ではどうなっているのか。
児童養護施設は、親に何らかの事情があって養育ができない子どもたちが暮らしている施設であって、何か悪いことをして入所させられた矯正教育が必要な子どもたちではない。
さらに、昨今の家庭内の児童虐待の増加により、虐待の心の傷を持つ子どもたちは決して少なくない。そうでないとしても、親との死別や親の病気、離婚などで、心に傷を受けている子どもたちが非常に多い。
そういう子どもたちの養育にはたいへん労力がいることは確かだろう。しかし、心の傷の上に再び傷を重ねて、子どもたちから幸せ感や他者への信頼感を奪っている現実をみるとなんのための専門職なのか、施設なのかと思う。

子どもが好きで、あるいは福祉の仕事をしたくて、この仕事についたのではないのか。なぜ、虐待してしまうのか。虐待する親と同じことを施設の職員がするのか。言い分まで、虐待する親と同じく、子どものしつけのためという大儀名文を吐く。このことの疑問が、少し解けてきた気がした。

また、ある児童養護施設出身者から聞いた話では、実習で施設に来た学生が、虐待があることを知って、子どもたちを守るためにと、その施設に就職した。しかし、そのひともまた、古参の職員と同じように、虐待者となっていったという。自分たちを助けてくれると思っていた人間に裏切られた。その心の傷は深い。もう、誰も信じられないと思ったという。手を差し伸べてくれる人すら、コイツもいつかと思うという。

そのひとがなぜ、簡単に変わってしまったのか、不思議だった。理想と現実とのギャップに、体罰がなければやっていけないと思ったのか、職場で自分の待遇に直接影響を及ぼす職員に媚びざるを得なくなったのか。自らの保身のために。そう思っていた。しかし、「支配するもの」と「されるもの」というはっきりとした役割意識、そして施設という閉じられた空間のなかで、人は洗脳されやすいのかもしれない。

しかし、だからと言って虐待者の罪が軽減されるとは思えない。
ただ、施設を運営管理するものは、このことをよく心得ていて、虐待が起こらないように、常に気を配らなければいけないと思う。放っておけば虐待はむしろ起こり得るものだということ。そのためには職員の意識を高める努力が必要だ。常に反省し、教育を繰り返すことが必要だろう。虐待に気づかせてくれる外部の目も必要だ。

人が集団で暮らす場所、支配するもの、されるもの、力関係がはっきり出やすい場所、外部の目が行き届きにくい閉鎖された場所。学校、寮、クラブ、児童養護施設、老人ホーム、障がい者施設、作業所、軍隊。虐待の芽はあらゆるところに潜んでいる。

来月、6月17日(木)、八王子地裁401号法廷で10時から、児童養護施設「生長の家・神の国寮」の民事裁判が行われる。施設内虐待を著書で告発した佐々木朗(あきら)さんの証人尋問が行われる。
(今までの経緯等については雑記帳のバックナンバー me010511 me020424 me020628 me021126 me030223 me030411 me030612 me030904 を参照)

虐待した側は、あれは虐待ではない、しつけだと言う。しかし、それで体に一生残る障がいを負わされた子どもは、毎日、殴られ続けた子どもの心の傷は、取り返しがつかないほど深い。
それを放置した大人たちの責任は、被害者の声に耳を傾けること、虐待の事実をきちんと認めて、被害にあった子どもたちに謝罪することではないか。そして、二度と再び同じことを繰り返さないように、システムを根本から変えていくことではないか。責任は施設職員ばかりが負うものではなく、私たち社会が子どもたちに対して負うべき責任であると思う。




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