わたしの雑記帳

2003/6/12 平成13年ワ 第990号 児童養護施設・生長の家「神の国寮」裁判傍聴報告

6月5日(木)、午後1時30分から八王子地裁401号法廷にて、生長の家「神の国寮」裁判が行われた。
今回からまた裁判官が変わった。松嶋敏明・谷口豊・山田直之裁判官。
今回は、M職員の証言。傍聴席は7〜8割方埋まっていた。人数をかぞえたひとの話では54名とのこと。教授につれられて大学生が多く傍聴に訪れていた。彼らの目には裁判はどのように映っただろう?

●被告弁護士からの質問に答える形での供述。
Q.当時の神の国寮について
A:当時、寮生は50名弱。対して職員は約20名。施設は非常に荒れていた。ほとんどの子どもが万引きをし、いじめも横行していた。まさか、この子がという子までが万引きしていた。なかにはやっていない子もいるが、下は小1から、上はほとんど。また、学校に行かずにサボったりする子どももおり、学校に行って授業を受けるように言っても、言うことをきかなかった。小学生は一応言うことをきいていた。女性職員の言うこともきいていた。しかし、中学生以上は言うことをきかなかった。
Q:体罰について
A:最初は口で叱っていたが、やむを得ず、自分としては教育配慮のつもりで手をあげたこともある(M職員は尋問のなかで、この言葉を何度も口にした)。

Q:事件当日のできごとについて
A:事件のあった昭和62年7月8日。当時小学生4年生のAくんが万引きして注意されているところに居合わせた。店のひとに謝ってAくんを寮に連れ帰った。Aくんの担当のO職員が、Aくんに事情を尋ねた。結果、Aくんは万引き以外に職員のサイフから1万6000円をとったと白状した。(当時、職員のサイフから金がなくなるようなことはよくあった)
Aくんは、Aくんより年上のKくん、MOくん、Yくんの4人で盗ったと話した。そこで、4人を別々に取り調べをした。3人は絶対に盗っていないと言った。もう一度Aくんに問いただすと、Kくんに命令されたと言った。最初はKくんが金を全部とったと言い、次に5000円だけもらったと言った。最後に1人でやったと認めた。
Q:取り調べのとき、Aくんも、Kくんも、M氏に殴られたと言っているが?
A:2人とも殴っていない。
Kくんに問いただしたが、Kくんは涙ぐんで「絶対とっていない」と言った。ふだんは、やったときにはすぐに認める。泣いてまで言うのはちがうんじゃないかと。
Q:Aくんは盗みを働いたとき、3人に命令されてやったと何故ウソをついたのか?
A:命令されてやったと言えば、罪が軽くなると思ったのだろう。1人で全部かぶるよりは他の生徒も共犯に仕立てたほうが、叱られ方が分散すると思ったようだ。
Q:AくんとKくんを引き合わせたときの状況について
A:Aくんに謝らせるためと、供述の再確認のため合わせた。(あとのMOくん、Yくんは合わせていない)
保育学習室で、Aくんから他の職員が事情聴取していた。部屋には他に2、3人の職員がいた。Aくんに「謝れ!」というとAくんは謝った。しかし、憤懣やるかたないKくんは、私たちがちょっと目を離したすきに、10秒から20秒の間、Aくんを蹴った。あまりに早かったので止められなかった。気づいてすぐに、自分はKくんに「もうかんべんしてやれよ」と言って、ひきとめた。Aくんは倒れて泣いていた。

Q:事件後について
A:Aくんを開放した時間についてはよく覚えていない。盗んだ金の使い道については、調べに参加しなかったのでわからないが、子どもの所持品検査をしているなかで、持っているはずのないものが出てきた。
その日は特に変化がなかったが、次の日にAくんから腕が痛いと申し出があって、O職員が病院に連れていった。Aくんの腕が動かなくなったことについては、自分の家に連れ帰って、一緒に風呂に入ったり、腕を揉んだりするなどリハビリをして、動くように努力した。

●原告弁護士による反対尋問
弁護団のひとり坪井節子弁護士は、戸塚大地くんの弁護や他の講演でも知っている。いつも穏和な彼女のこれほど厳しい尋問姿勢をはじめてみた。

Q:職歴について
A:K学院商学部を卒業後、公務員試験を受けて、S刑務所で看守の仕事についた。その年(昭和53年)の6月に辞めた。その後、いなかに帰って、スーパーやガソリンスタンドなど、いろいろなアルバイトをした。昭和59年11月から神の国寮の青少年教化部で、1年半、信徒の方の会費集金、布教の事務をしていた。
Q:児童福祉や児童心理の勉強について
A:自分で本を読んで勉強した。3教科とれば取れる社会福祉主事の認容資格をとった。
Q:児童養護施設に入ってくる子どもたちがどんな問題を抱えているか知っているか?
A:本では知っていた。孤児院から立ち上がったこと。親から見放されたり、片親で育てきれない子どもが入ってくる施設。自分が勤めた頃は、両親がいても施設に入ってくる子どもが多かった。文書のうえでは知っていたが、職員の苦労について入るまでは知らなかった。あそこまで悪いとは思わなかった。
Q:子どもたちが何故荒れるのか、考えたことはあるか?
A:考えた。親に捨てられたのが原因。
Q:職員の責務は何だと思うか?
A:子どもたちを非行から立ち直らせるのが職員の責務。原因に目を向ける余裕はなかった。施設自体が荒れていたので、普通の家庭のように、子どもたちが育ってくれればと思った。体罰もやむを得ない。
Q:見捨てられた子どもたちが、職員から殴られるとき、どういう感情を持つか考えたことがあるか?
A:あると思う。

(施設での体罰禁止や事故防止についての通達等を見せながら、次々と読んだ覚えがあるかどうか質問。M氏は見た覚えがない、もしくは見たと思うが内容が同じようなものが入っているのでわからないなどと言葉を濁し、はっきりと認識しているものはなかった。また、児童養護施設職員なら必読書である「荒廃のカルテ」<=横川和夫著、女子大生を暴行しようとして殺害し無期懲役刑を宣告された少年が、幼児期から預けられていた児童養護施設内で職員や園生から受けた様々なリンチや虐待が犯行の要因のひとつになっているのではないかと検証したルポルタージュ>についても知らないと答えた。)

Q:自分がしていることが問題だと感じたことは?
A:通達などに書いてあるのは理想。どうしても施設のなかでは、理想だけでは対応しきれない。体罰は仕方がない。
Q:Aくんは事件当時小学校4年生だった。特に問題があったのか?思春期の子どもの反抗期もあるだろうが、小学生と中学生の指導の違いは?本当のことを話させるにはどういう手法が必要だと思うか?
A:小学生でも、万引きやいじめは施設内にあった。一応、ちょっと話してきかせていたが、それ以上は対応できない。追求するしかない。しかし、そればかりじゃない。施設の子どもたちを家に連れて帰り、一緒に遊んだりした。一応、私としては、子どもたちに厳しくもしたが、遊んだり、家に連れ帰ったり、心を開くようにした。

ここからほかの原告代理人弁護士
Q:育成記録や観察記録について
A:監察記録は毎日記載する。育成記録は、実際にあったことを書くが、全てを書くわけではない。必要ないと思った文書はとばす。
Q:今でもAくんが犯人だと思っているのか?その根拠は?
A:思っている。盗った金で買い揃えたものがあった。
Q:そのリストがここにあるが、合計しても1000円ちょっとにしかならないと思うが。
A:そのリストに書いているもののうち、同じものが何個かあった。また、そういうことが多々あった。しかし、だいたいは盗んでいないと言う。自分で盗ったということは珍しい。本人がこれとこれは盗ったと認めた。

Q:病院に連れていったのは次の日だが、骨が折れていたのなら、相当痛いのではないか?
A:骨が折れているようなそういう痛がり方はしなかった。Aくんは表現しない子どもだった。いじめられても泣き叫んだりしないで、がまんしていた。
Q:リハビリについて、医者から曲がっている腕をのばすようにとか、具体的な指示はあったのか?Aくんはリハビリがとても痛くて辛かったと書いているが。
A:えこひいきしていると言われないように、他の児童も3人交替で自宅に連れて帰った。医者からはなるべく腕を動かすようにと言われた。痛いのはがまんしてくれればと思った。

Q:暴力によって寮生はいうことをきくようになったのか?
A:暴力とは認識していない。教育的指導だ。ある程度いうことをきくようになった。私が入った昭和59年頃は荒れていたが、昭和62年頃は比較すれば少なくなっていたとは思う。少なくとも職員の前では。
普通の感覚では対応しきれないような、なんでこんなところで逆らうのかというところで反抗してくる。愛情が足りないからだと思い、自分の家に連れていくなど手段を講じた。
Q:寮では主任をしていたようだが?
A:最初は資格がなかった。まとめ役はしていた。主任の役職はもらっていた。
Q:主任という立場なら、寮生の起こした事件は全て把握していると思うが、本当に1万6千円は職員のサイフから盗まれたものだったのか?誰が盗られたのか判明したのか?
A:よく盗まれるのでわからない。
Q:KくんはAくんの5歳年上だが、供述は不自然だとは思わなかったのか?
A:縦系列がはっきりしていた。上のものの言うことは絶対で、下のものが従うのは当たり前だった。
Q:翌日、全員の前で事件を公表したというが、記録にはない。名前を公表することは残酷なことだとは思わなかったのか?
A:いつもは犯人が特定できなかった。今後しないように、みんなに話した。

Q:ケツバットや野球のノックを素手でとらされたとあるが?
A:(長い沈黙。何かを考えている様子)ケツバットはあると思う。野球の練習で失敗したとき。野球のノックで素手でとらせたことはない。あったとしても、きっちりゴロをとらせるための練習だ。
Q:ドッジボールをバスケットポールを使ってやらせて、Oくんが小指を痛めたというが?
A:記憶にない。

Q:Aくん以外の子どもたちにしたことをきく。佐々木朗(あきら)くんに暴力を奮ったことはあるか?
A:あることはあるが、暴力だとは思っていない。朝、マラソンをするときに子どもを先導していて、やめて欲しかったので、平手でたたいた。縦系列の力関係で、上がこうしろ、おかしなことをしろというと、下がいうことをきく。教育上の指導だった。
Q:これは佐々木朗くんが寮を卒業するときの色紙だが、この字はM氏の文字に間違いないか?「朗をなぐってから手が痛くなった。もう手が使えないのは残念だ。」などと書いてあるが。
A:私の字だと思う。
(尋問の最中に突如、証拠提出された色紙について、被告側弁護団から激しく異議の声があがる。事前に知らせておかないことはルール違反ではないかと。対して原告弁護団はこの色紙は前日、佐々木氏の押入のなかから出てきたこと、反対尋問の内容に対するM氏の答えに異議をとなえる形で証拠提出した旨の説明がある)

●報告会にて

今回は、原告のAさんをはじめ佐々木さん、ほかの寮生も裁判傍聴に来ていた。
Aさん、佐々木さんは、大人になった今も、M氏を見ると体が硬直するという。睨みつけてやりたいと思いつつ、目を合わせることすらできなかった。佐々木さんは、毎日のようにM氏から殴られて、その恐怖を克服するためにも強くなりたいとボクシングをはじめた。強くなったはずなのに、子どもの時の恐怖心を拭いきれない。

M職員が寮に来た当時、たしかに寮は荒れていた。しかし、ずっと以前はそんなことはなかったという。佐々木朗さんの「自分が自分であるために」(文芸社)にも書かれているW職員が寮にきて、やりたい放題、子どもたちを虐待して寮を去っていった後、子どもたちはひどく荒れたという。(千葉恩寵園でも事件発覚後、子どもたちはそれまで理不尽に押さえつけられていたものを吐き出すかのように、激しく荒れた)
そのW職員も軍隊か自衛隊に所属していたという噂があった。そしてM職員は鑑別所。

児童養護施設は、親が面倒を見られない子どもたちを保護する施設であって、非行少年等の更正施設ではない(現実に誤解しているひとも多いらしい)。本来、家庭で愛情に包まれながら成長するべき子どもたちが、その家庭環境を奪われ、やむなく、国の措置制度として、施設で暮らしている。施設は本来、彼らの家庭の代わりとなるべきものだ。まして今、ネグレストを含む虐待を受けて入所する子どもたちが圧倒的に多い。心に深い傷を抱えている。何かの本で読んだところによると、ひとの心の傷というのは年齢が小さいほど深く、その後の人生に影響を与えやすいという。当然、問題行動も出てくるだろう。それを保護養育するのがプロとしての職員の務めではないのか。

しかし、その生活を佐々木さんは「果てしない暴力、虐待、一切の自由が認められない毎日。僕たちはスナック菓子でさえ満足に食べたことがない。何かの方法で手に入れることができても、深夜職員の見回りが終わった時間を見計らい布団にもぐって食べるしかなかった」「一切自由に使えるお金は渡されることはなく、万引きという非常手段に訴えて欲しいモノを手にするという寮生も少なからずいたようだ。万引きを肯定するつもりは毛頭ない。しかし、誰しも切羽詰まった状況に陥れば、悪いこととは知りつつ、つい魔が差してしまうということもあるのではないか。僕たちは小さな頃からはやりのゲームなどしたこともなかったし、満足に本さえ読んだことがない。何もかも奪われ、与えられず、その上、アルバイトさえも禁止されている。僕たちは一体どうすれば良かったのだろうか?」と書いている。

もちろん、全ての児童養護施設がこのような施設であるわけではない。たまたま措置されたのが、ひどい施設だった。しかし、子どもたちには一切、選択権がない。そこで、乳幼児期から青年に至るまでの、大切な子ども時代を10年15年と過ごす。ひとを殺しても少年の場合、多くは2年内に出てこられる。しかも実状はどうかはわからないが、厚生施設でも当然、体罰は禁止されているはずだ。自分の罪に対する罰という意識もあるだろう。
しかし、自分自身は何も悪くない子どもたちが、まるで罰を受けるているかのような扱いをされている。M氏はたびたび「教育的指導」であって「暴力」ではないと言った。虐待する親も子どもを殴るのは「しつけ」であって、「暴力」ではないと言い張る。自分を正当化して力で子どもを支配する。まるで同じだ。自らの人生が思うようにはいかなかったことのうさ晴らしを子どもたちでしているのではないかと思える。

また、M氏は何度も子どもたちに愛情を注いだことを立証するために、子どもたちと遊んでやった、家に連れてきたと話していたが、職員のいう子どもたちのためのリクリエーションすら、虐待の温床になっていた。強制される参加。肉体疲労。至近距離からのノックやキャッチボール。安全を無視し、子どもたちを傷つけるために行われているのではないかと疑いたくなるようなシゴキとも言うべき練習。ミスをすると罵声を浴びたり、体罰を受ける。
そして、自宅に誘われれば、どんなにイヤでも、子どもたちは断れない。職員はそれでいて、恩を売る。施設の子どもには平気で手をあげるM氏が自分の子どもには手をあげないという。奥さんが「施設の子どもを殴るくらいなら、自分の子どもを殴りなさい」とまで言ったという。
知識も専門性もない人間が権力を持ち、自分の意のままに子どもたちを扱う。理事は雇われで、次々と代わる。誰からも批判を受けない。へつらう職員ばかりが残り、心ある職員はみな耐えきれず辞めていく。子どもたちだけが、その地獄のような施設から逃れることができない。

このサイトで、子どもたちの万引きを取り上げることの是非について考えないではなかった。施設出身者への差別と偏見を助長することにはなりはしないか。原告のAさんがそんな目にさらされることにはなりはしないか。
しかし、児童養護施設のかかえる問題を明らかにするためにも、必要なことだと思われた。
一般家庭でも、小さな消しゴム、文房具のたぐい、アメひとつまで入れたら、多くの子どもたちが万引き体験者であると思う。好きなものは何でも買えて、ものにあふれていても、スリルから、ふとしたでき心から、罪の意識もなく万引きしてしまう。まして、もののあふれる時代、誰もが当たり前のように流行のものを持っていて、それを持たないことだけでいじめの理由になる時代に、目の前にほしいものがあり、同年代の子どもたちのほとんどが持っているのに、自分には買えない。みんなが我慢している時代とは違う。自分たちだけが、何もかも我慢を強いられる。国からは園生に小遣いが支給されている。しかし、その管理は児童養護施設ごとにまちまちで、全部、自分の好きに使えるところもあれば、強制的に貯金として取り上げられ、必要なものは職員同行のうえで買い物する、年中、持ち物検査があるという神の国寮のようなところも今だたくさんある。(職員が横領着服していることもあるが、それを子どもたちは告発できない)

この裁判はあくまで、Aさんが小学校4年生の時に、職員の、あるいは職員に命じられた園生の暴行により身体障害者となったことへの損害賠償を目的としている。しかし、今も放置されたままになっている、そこで多くの子どもたちが暮らしている、児童養護施設全体がかかえる問題点にも注目してほしい。原告にとっても、弁護団や裁判を応援する人びとにとっても、それを期待しての裁判でもある。
虐待問題が世の中を騒がしている。しかし、児童養護施設に入れさえすれば、解決したと思っている。深く傷つけられた心は癒されることなく、さらなる仕打ちが待っている。
住む場所さえ与えられ、食事や着るものが満足いくように与えられさえすれば、子どもたちは幸せになれるのか?
海外の貧しいNGOが運営する施設に比べてなんて恵まれているのだろうと言うひとはいる。裕福でも愛情のない家庭に育つより、貧しくても愛情ある家庭に育つほうが子どもたちにとって幸せであるように、どれだけ最低基準が満たされていても、愛情が満たされていなければ、子どもたちは幸せにはなれない。大人たちから支配され続けるなかで、親から奪われた自尊感情が取り戻せるとは思えない。
少子化と言いながら、この国には、本気で子どもたちを慈しもうという意思が見えない。長い間、子どもたちのSOSにし蓋がされてきた。今もまだ、真剣に耳を傾けようとはしない。


次回は、M氏は熱心な指導員で、佐々木さんは暴行を受けたことがないとの申述書を提出したK職員の証言。
間に裁判所の夏休みを挟むので、2003年9月4日(木)、午前10時から11時半。八王子地裁401号法廷にて

なお、これまでの傍聴記録や経緯については、当サイト内検索・索引のなかの「生長の家・神の国寮」で検索できます。




HOME 検 索 BACK わたしの雑記帳・新