わたしの雑記帳

2002/11/26 児童養護施設「生長の家 神の国寮」の裁判。原告青年の証言。



2002年11月21日、八王子地裁で、元園生のAさんが、児童養護施設「生長の家 神の国寮」の元職員と施設を訴えている民事裁判はじめての証人尋問を傍聴に行った。今回は原告青年Aさんの証言。主尋問、反対尋問あわせて3時間近かった。その間、裁判官は時間をせかしたりせずに、じっと原告青年の証言に耳を傾けていた。判決がどうでるかは別にしても、ひどい裁判官をたくさん見てきた私には、この裁判官(合田智子裁判長)の姿勢は原告青年にとってとてもありがたいものだと思った。

一般的に児童養護施設の出身者の多くはコミュニケーションが苦手だ。親から虐待を受けていたり、養育してもらえなかったことで、自分自身を価値のないものと思っている。自分に自信が持てない。加えて、閉鎖的な施設の生活のなかで、様々な人とのコミュニケーションに馴れていない。更に統制が強かったり、職員からの虐待があるような施設では、自分の意見を言ったり、主張することさえ体罰の対象となる。そんな場所で多感な時期を過ごした子どもたちが人間不信になったり、自分の意見を言うこと、相手に理解してもらうことへのあきらめから、人と話すことが苦手になるのは当然のことだろう。Aさんもシャイな雰囲気で朴訥としたところがある。

しかし、心配していたにもかかわらず、Aさんは落ち着いていた。緊張のため昼御飯を食べられなかったこともあって、声は小さく、たびたび原告弁護団や裁判官や書記に注意をされるという場面はあった(けっして高圧的ではない態度にほっとした)が、きちんと裁判長のほうを見て、一つひとつの質問に丁寧に答えていた。

まず、原告弁護団の質問に答える形で、1987年7月8日、当時小学校4年生(10歳)の記憶を辿る。
きっかけは、給食費がなくなったこと。場所は職員居室。夕食を食べ終わったあと、職員のMに呼びだされて、「お金がなくなったのはお前のせいだ」と言われ、殴られたり蹴られたりした。4畳半くらいの部屋にはMのほかにも3人の職員が出たり入ったりしていたという。
どのようにと問われて、「素手で、平手やグーもあった」「お前が盗ったんだろうと言われ、わけのわからないまま殴られていた」とAさんは答えた。「給食費を盗っていない。ほんとうは認めたくなかったが自分だと言わないと殴られ続けると思ったので認めた」「一人でやったんじゃねえだろう。共犯者がいるんだろう」と言われて、何か言わなければまた殴られると思い、仕方なく、当時職員から目をつけられていた3人の名前をあげた。

名前のあがった児童が一人ずつ呼びだされた。最初にYくん。「お前もこいつと一緒に盗ったんだろう」と怒鳴り散らされたが、Yくんは否定し続けた。時間にして4〜5分。Yくんが殴られていたかどうかは覚えていない。しかしYくんの言い分は認められた。Mは「こいつがお前のせいにしたので、殴っていいぞ」と言い、Yくんから平手で一発殴られた。MOくんも同じように追及されて否定し、Mから殴っていいぞ」と言われた。

そして最後にKくん。5〜10分間、Mはすごい口調で怒鳴り散らし暴力を振るった。Kくんは「盗っていない」とずっと叫んでいた。最初はKくんの言い分を認めなかったが、そのうち認めて、「こいつのせいでお前が殴られたんだ」と言い、Aさんを殴らせた。Kくんは怒っていたので蹴ったり、殴ったりしたという。職員はみな近くにいた。2〜3分でMが「もうそれくらいでいいだろう」と言って止めさせた。

その後、またMから殴ったり、蹴ったりされた。「何を他人のせいにしているんだ」「(盗った金を)何に使ったんだ」と言ってすごく強くやられた。「自分一人でやって、一人で使った」と言った。ずっと正座をさせられていたが、殴られたり蹴られたりしているうちに、倒れ込むこともあったり、無理矢理立たされたこともあった。途中、2階の部屋に移されて追及されて、夜中の3時頃まで全身に暴行が続いたという。

左手がすごく痛くて、Mと一緒に部屋にいた職員のO(Mの言うことならなんでもきく、Mの手下みたいな職員)に伝えたが、「朝になって痛むようなら言ってこい」と言われ、また殴られそうに思えたのであきらめて部屋に帰ったという。「全身が痛くて眠れなかった」「手の動きが硬直したようだった」「指先がしびれて手の感覚がなかった」とその時の様子を証言した。

翌朝、OがAさんを車で病院まで連れていった。職員に殴られたことは言うなと言われた。学校で教師にけがの理由を聞かれたときも、Aさんは、階段で転んだと答えたという。
反対尋問のなかで、なぜ本当のことを言わなかったのかと聞かれて、言っても信用してくれないと思ったとAさんは答えた。また、他の園生にも言えなかった理由として、職員にばれたらまた殴られると思ったと答えた。

その後、中2の冬までにAさんは3回の手術を受けることになる。別のところから筋肉を移植したりもしたが、大きな傷跡(法廷で上着を脱いでAさんは裁判官に傷跡をみせた。後ろからチラリと見ただけで筋肉をとった腕が大きく変形しているのがわかった)を残しただけで結局、腕はよくならなかった。ただ、病院に入院しているあいだは、殴られる心配もなく、看護婦さんがかまってくれることもあって、普段よりむしろ活き活きとしていたらしい。

Mなりに責任を感じていたのか、MがAさんのリハビリを行った。畳のうえに手を置いて、足で踏んづけられた。痛くて毎日大声で泣き喚いたという。しかし、痛いだけで効果はなかった。このリハビリと称されるものが、ほんとうに理学療法的根拠に基づいたものだったか非常に疑わしい。リハビリと言われ、お前のためだと言われれば、殴られることを恐れてのこともあり、Aさんはおとなしくされるままにならざるを得なかったが、単なる素人考えで治療とは関係なく、ただ激痛を与えるだけのものだったとしたら、虐待以外の何ものでもないと思われる

一方で、けがが原因で左手が使えないからと言って、日常的な配慮は一切されなかったという。至近距離からドッジボールやキャッチボールを強要されて、うまくとれず、「なんでされないんだ!」と取れるまで練習を続けさせられたりしたという。(神の国寮ではこのほかにもスポーツを隠れ蓑にしたシゴキ=虐待が行われていたという)仲間との思い出を別にすると、Aさんにとって神の国寮でのいい思い出は何もないという。児童を保護する施設でありながら、子どもが幸せを感じられる施設になっていない。まして家庭で虐待されたり、愛情を与えられなかった子どもたちならばなおさら、愛情たっぷりに育てられるべきだと思うが。経済的困難さゆえに設備が整わない海外のNGO施設でさえ、子どもたちを幸せにできる環境を努力してつくっているというのに。

その後、Aさんは高校卒業の前の年、障害者手帳を交付される。就職も障害者枠での採用だった。そのために仕事は印刷会社で段ボールを運ぶなどの単純作業だった。しかし、左手がうまく動かず、他人より仕事が遅い。給料も約束より安く拘束時間も長いので仕事を辞めた。その後は仕事を転々とする。手が不自由であることを黙って就職して、バレてクビになったこともある。今も一日中働いて、アパートには寝に帰るだけのきつい仕事をしているという。

裁判を起こした動機について聞かれて、佐々木朗さんの「自分が自分であるために」(文芸社)が大きなきっかけだったという。母親がAさんを探し出してくれて一緒に暮らすようになったき、けがのことを説明しても、友だち同士のけんかで不自由になったという職員の言葉のほうを信じて、福祉の職員がそんなことをするはずがないと信じてもらえなかった。それが佐々木さんの本が出て、ようやく信じてもらえた。それでも最初は、裁判を起こすことについても今さらと思っていた。しかし弁護士さんたちの協力や他の施設でも虐待があることを知って、施設内虐待をなくしたいと思い、裁判をやろうと決心したという。

被告側の弁護士は3人。かなり高圧的な態度だった。内1人は聞いていても腹が立った。まるで被疑者の取り調べかヤクザの脅し。口調も態度も「恫喝」(どうかつ)とはまさにこのことだと思わせるものだった。細かい部分を何度もくどく追及し、さらには法廷で、原告の人格を貶めるのが目的としか思えないような質問を次々と浴びせた。被告弁護士は、原告弁護士の「あなたがたがこのような質問をするのは、そのことによって職員の暴行を正当化しようという意図ですか」の質問に思わず「そうだ」と答えて、あわててうち消した。ちなみに、被告側は職員が原告青年に暴行を加えたことすら事実とは認めていないという。

もちろん、原告弁護団は何度も「待った!」をかけたが、「こちらの尋問の番だ。発言を慎め!」などと開き直った。聞いていて胸が悪くなるような質問にもAさんはよく耐えた。表情やモーションたっぷりに脅しにかかる被告弁護士を見ずにまっすぐ、穏やかな顔の女性裁判官の顔をみて、一つひとつの質問にカッカすることもなく答えていた。わからないこと、覚えていないこともごまかさずに、正直に答えていると傍聴人に感じさせた。

赤い羽根募金から100円をとってガチャ玉に使ってしまったなどという、ふつうに考えれば、どの家庭の子どもにでも充分にあり得る、むしろほほえましいくらいのエピソードでさえ、攻撃の手段として使ってきた。小学生のたった1500円のお小遣いですら、自分自身で好きに使うことが許されず、職員同伴で買い物に行かなければならなかったなどという、ノーマライゼーション(普通の生活)とはほど遠い生活を異常とも思わずに被告側弁護士が自ら披露し、水鉄砲やプラモデル、カメなど、当時流行のおもちゃを買えるはずがないのに持っていたのはなぜかと詰め寄る。金額的に大して値の張るものではないこれらの子どもなら誰でもほしいと思うおもちゃを買う自由がなかったこと、持ち物すべてを施設職員がこと細かく把握し記録までされている、つまりプライバシーが全く守られていなかったことを被告側は自ら暴露したことに気づかない。中学か高校の時にオキシドールで髪を脱色したこと、ボンタンズボンをはいていたこと、Mを呼び捨てにしたことなど、一般家庭なら問題にもならない、法廷であげつらねる必要がなさそうなことまでも、得意げに並べ立てた。

原告の名誉のために、ここではこれ以上、多くを触れない。しかし、いくら被告側が原告の悪い点を挙げ連ねて、自分たちの行為を正当化しようとすることが常套手段とはいえ、この場合、被告の神の国寮は青年にとっていわば親がわりに育ててきた施設だ(もちろん国からの措置費をたっぷりともらって)。自分たちの施設の子どもの問題行動は自分たちの子育ての失敗だとは思わないのだろうか。それを言うことは天にツバする行為だとは思わないのだろうか。何より、そこには自分たちが育てた子どもに対しての愛情がカケラも感じられない。そして、このようにいざ裁判になったときには、施設側が子どもに関するすべての書類、証拠、プライバシーを握っていることの問題を浮き彫りにする。

なぜ親と暮らさないのか、なぜ面会した親に当時、職員からの暴行を話さなかったのかと詰問する。二葉学園の元園生が体罰を行った職員を訴えた裁判でもそうだった。児童養護施設で暮らさなければならなかった子どもたちにとって、一番触れられたくない親のこと、親との関係について、事件とは全く関係がないにもかかわらず、わざと法廷の場でしゃべらせようとする。
どんな事情があるにせよ、長年子どもを施設に預けていた、ましてや神の国寮のようにひどい施設に預けていた。そのことで子どもが親を恨んで、成長してからもその関係がうまくいかなかったとしても、責任は子ども側にはない。これがもし、神の国寮が子どもにとって暖かな心安らぐ居場所であったなら、少し寂しい思いはあっても、親への信頼関係もまた変わっていたかもしれないとは思わないのだろうか。

毎日、殴られるのが当たり前の生活。何ひとつ自由にならない、思い通りにならない生活。職員の機嫌をうかがう毎日。愛されている実感などとうてい持てるはずのない生活。親から虐待されること、親元から離されることだけでも辛いのに、多感な時期にそんな生活を送らざるを得なかった子どもたちが、何の問題もなく、健やかに成長することができるだろうか。分たちには何ひとつ落ち度がなく、ただ両親に理由があって養育ができなかったというだけの幼い子どもたちにひたすらがまんだけの毎日を強いたことに、施設側は今だ何の反省もない。
この裁判ではあくまで一番わかりやすい左腕が障がいを負った事件だけを問題にしている。しかし、実際にはその陰に数え切れないほどの人権侵害があった。園に在籍した子どもたちが、国の措置費が支払われるなかで、職員から家畜のような扱いを受けてきた。虐待を行っていた職員は一人ではない。殊更ひどいのはMだったとしても、園そのものがそういう体質を持っていた。

千葉の恩寵園で、あれだけマスコミに騒がれて世間で取り沙汰された後も何年も虐待は続いていた。児童養護施設の持つ閉鎖性。私たちには、今も神の国寮で虐待が行われているかどうか知る術はない。少なくともMが今はその施設にいないことの確認だけはとれているが。Mはまだどこかの施設で懲りることなく同じ行為を繰り返しているかもしれない。また、Mが去ったあと、第二、第三のMがいたかもしれない(実際にMの前にも虐待職員は神の国寮にいた。虐待は繰り返されてきた)。
閉鎖性をうち破るためには、過去の問題からまずは明らかにしていかなければ、今も起き続けているかもしれない問題にメスを入れることはできない。

次回、2003年2月20日(木)、14時から16時の予定で、八王子地裁401号法廷にて、元園生の勇気ある証言が得られる予定。Aさんと仲間でありながら、Aさんを殴らざるを得なかった。無実でありながらAさんにお金を盗った仲間と名指しされた彼もまたMの被害者だ。

余談だが、今回から体育の授業中の事故で亡くなった戸塚大地くんの裁判を担当した坪井節子弁護士が新たに弁護団に加わった。(購入したのは1年くらい前で最近になってようやく読んだ「養護施設の児童虐待 たちあがった子どもたち」/恩寵園の子どもたちを支える会編/明石書店で、恩寵園の裁判にもこの裁判の原告弁護士の平湯真人弁護士や坪井弁護士がかかわっていたことを知った)

なお、神の国寮の裁判については雑記帳のバックナンバー(me010511 me020628)を参照してください。

HOME 検 索 BACK わたしの雑記帳・新