ユーゴ人道介入の口実「虐殺」デッチ上げ(その3)

ユーゴ戦争:報道批判特集《特別緊急連載》

野次馬ジャーナリズムの方がメディアの正統派

1999.7.30

 私は、最近、「ザル法」をもじって、「国際ザル報道」と洒落ているが、そう言いたくなるほど重要な情報が欠け落ちている例が多い。「ザル度」と言う造語も提案するが、国内問題よりも国際問題での報道の方が「ザル度」は高い。宅配の1紙だけだと、ますます受け手の「ザル度」が上昇するのだが、かといって数紙を取る人はほとんどいない。

 しかし、仮にも国際問題を論ずるのが商売ならば、それでは済まされないはずだが、それもまた、なかなかどころか、とてもとてもの実情である。国際報道の場合にも、前回述べた「情報収集の基本」原則は、当然、同じである。むしろ、国内情報の場合以上に、情報源の選り好みをせず、あらゆる手段を尽くすべきであるし、どんな粗末な情報にでも一応は目を通す必要がある。ところが、そこまでの苦労をする商売人は、非常にまれなのである。私は、決して威張るわけではなくて、商売人ではない。最低の食い扶持だけは別途確保した物好きの遊び人だから、いつでも採算を度外視して、虱潰しに調べまくるのである。商売人にとっては迷惑な存在であろう。

 今回のラチャク村「虐殺」事件報道では、『潮』と『読売新聞』の記事が、私の資料探索にとっての決定的な手掛かりとなった。特に『読売新聞』には、私自身の湾岸戦争報道、カンプチアPKO報道などを通じての経験から見て、この種の、こぼれネタ報道の例が多い。あれ、またかいな、と思わず膝を叩きたくなるような、最早、法則的と言えるほどの状況なのである。

『読売新聞』は、私の厳しい批判の対象である。しかし、その批判と、「情報収集」の窓口としてのメディアの役割の評価とは、まったく性格を異にする問題である。この事件報道では、そのことの意味が、顕著に、しかも、典型的に現れたのだと思うのである。

 では、どうして、このように典型的で、法則的とも言えるほどの情報伝達上の現象が、『読売新聞』に見られたのであろうか。詳しくは拙著『読売新聞・歴史検証』を御参照頂きたいが、警視庁の鬼警務部長、第1次共産党検挙などの先頭に立った「特高の親玉」こと正力松太郎が乗り込んで以後の『読売新聞』は、いわゆるイエロー・ジャーナリズムの典型となった。その伝統は、少し良く言えば「野次馬ジャーナリズム」とでも言うべき社会部に流れた。「読売社会部帝国」と言われた時代もある。これをまた簡単に言うと、『読売新聞』の報道には、後先構わずに扇情主義で読者を煽る無原則なところがあるのである。この「無原則」報道が、今度の場合にも、最初は、ラチャク村「虐殺」事件の一番派手な写真入り報道になり、次には一転して、それを否定する「疑惑報道」となったのである。物事には常に裏表があるのである。

 この場合は、論じやすいので、ラテン語に由来する「メディア」によって、その意味を考えてみる。メディアの語源のmediumの訳語例は、研究社版の『羅和辞典』で、「1中心、中点、中央、2媒質、3社会、公衆、世間、4公安、公益」であり、「in medio ponere.各人に示す、公示する」などの文例が挙げられている。そのまた語源とされるmediusには「中間の、介在している」などの訳語例がある。つまり、出来事と世間との間に「介在」して、情報の「媒質」の役割を果たすのが、メディアの基本なのである。この基本的性格は、洋の東西を問わない。

 本来は中間の媒質であるべきものが、何を勘違いしたものか、偉そうに世間を睥睨し、指導的位置に立っていると錯覚する時に、恣意的な情報操作が容易にまかり通るようになる。余計な社説とか論説とかを気取る前に、世間に溢れている情報を、そのまま、こぼさずに伝える努力をすべきなのである。先行の報道と矛盾していても構わない。判断は、読者が下せば良いのである。

 この点はすでに、本誌のユーゴ特集でも日刊紙の『朝日新聞』や月刊誌の『世界』の具体例を挙げて指摘した。むしろ、いわゆる「名門」の取り澄ましたメディアの方が、手前勝手な選択的、または自己弁護的「ザル」構造に陥っており、名門特有のエリート記者や編集者の目が「節穴」「平目」の場合が多い。そう思って、眉に唾をたっぷり擦り込んで読む方が、判断を間違わずに済むくらいなのである。

 ただし、いささか矛盾するようだが、上記の「こぼさずに伝える努力」だけでは、やはり不十分である。国際情報については情報量が多すぎるから、それを「こぼさずに伝える」ための公平かつ虚心坦懐な情報選択も必要であり、そのためには、予備知識が問われざるを得ない。その点について、戦前にも厳しい批判があったことを知り、それを拙著『読売新聞・歴史検証』(1996.3.6.汐文社、p.270)では、つぎのように紹介した。

 新聞ばかりではなくて、いわゆるメディアの仕事というものは、世間一般の認識以上に手工業的な個人作業に頼っている。新聞の場合には、記者個人の思想、教養、体力、技術などが重要な構成要素になっている。

『現代新聞批判』の連載記事、「読売新聞論(三)」(34.9.1)]では、「読売新聞には穴が多いが政治部と匹敵する大穴は外報部だ」としている。その「大穴」の外報に例を取って、記者の資質の問題を考えてみよう。つぎのような同論評の読売の外報にたいする歯切れのいい批判は、現在にも通用するものである。

「外報は筆先の小器用だけではつとまらない。少しばかり語学が達者な位ではつとまるものではない。国際政治に対する細緻な頭の働きと透徹した批判力とがなければならない。ひとり読売に限らず、日本の新聞が国際問題となるとボロを出すのは、頭の記者がいないからだ。『新聞記者は足で書く』ということをよく言うが、頭のない記者が足をすりこ木にして飛びまわっても何もなるものではない。日本の新聞が、この言葉を文字通りに解釈して、記者をやたら飛びまわらせることばかりを考え、頭の養生をさせないのは非常な誤りだ」

 さて、このような批判を戦前にも浴び、それをさらに65年後になってからも、物好きな遊び人によって、またぞろほじくり返されている『読売新聞』のパリ支局員が、数ある他社の「語学が達者な」エリート記者たちを尻目に、『ル・フィガロ』『ル・モンド』『リベラシオン』の3紙に目を通して、短い疑惑記事にまとめ、それが採算度外視の私の目に止まったからこそ、しかも、その他の資料をも揃えて私自身が無い袖を振り、きたる7月31日には、ニューヨークのNATO告発・国際戦争犯罪法廷に出掛けて、ブロークン・ジャパングリッシュで吠え立てるからこそ………、ウムウムとなれば、御喝采。

以上で(その3)終り。次回に続く。


ユーゴ連載(その4)情報収集と分析に当たっては「味方」をも疑え
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