『読売新聞・歴史検証』(7-3)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第七章 メディア支配の斬りこみ隊長 3

第一次共産党検挙の手柄をあせった特高の親玉の独裁性

 以上のような「人となり」に関する情報を念頭においた上で、米騒動以後の正力の経歴を見直し、正力の性格を再度検討してみよう。ただし本書の主題は正力個人ではないから、検討の範囲は、以後の正力の読売「乗りこみ」と、新聞経営の特徴を理解しやすくするための、ごく一部の事例紹介にとどめざるをえない。

 すでに記したように、わたし自身が直接経験した日本テレビ時代の正力の社内での呼び名は「ワンマン」であった。戦前からの読売経営についても、正力の「独裁」という理解が定式化している。一応、戦前の同時代資料としてタブロイド新聞の『現代新聞批判』を参照すると、この理解は完全に一致している。同紙の一九三五年(昭10)一一月一日号では、関西進出に関する「読売恐るべし」という記事で、正力の経営を「独裁主義」と表現している。同じく一九三七年(昭12)二月一五日号では、二・二六事件直後の後継内閣誤報号外に関する「政変と読売号外問題」という記事で、「正力独裁機構」とか「正力独裁社長」と表現している。

 本人自身も、「読売を築き上げるまで」という『日本評論』(36・1)への寄稿の中で、つぎのように明言していた。

「私が新聞社に対して独裁主義を採っていることは、今更いうまでもなく御存じのことであろう。独裁主義を採る以上はその弊害もすでに覚悟している。独断専行がともすればやり過ぎにならぬとも限らぬ。しかし、凡そ伸びゆくものにとって、新聞と何たるの区別を問わず、独裁主義の適用は当然のことではないか」

 ここまで明言されてしまえば、最早、何をかいわんやである。およそ、言論の自由とはほど遠い発想の持ち主だったのである。

 このような正力の「独裁」的性格は、餓鬼大将時代を下敷きにしながら、社会人になって以後の警視庁時代に、ますます強化されたにちがいない。日本の警察機構の上意下達型の特徴については、とくに論ずるまでもないことであろう。ドイツのゲシュタポ、ソ連のゲ・ペ・ウーに勝るとも劣らぬ日本の戦前の警察は、単に独裁型だけでだけはでなく、暴力支配型の人材によって支えられていた。

 この日本の戦前の警察機構のなかでは、米騒動で発揮した正力の「蛮勇」ぶりこそが、まさに「勲章もの」であった。米騒動の鎮圧活動で「功績抜群」と評価された正力は、天皇の名において勲六等の叙勲を受け、瑞宝章を授けられた。このとき三三歳である。そのときの得意ぶりたるや想像を絶する。

 それまでの経歴は、一八八五年(明18)生まれで、東京帝国大学法科大学独語科卒業が一九一一年(明44)である。二六歳の大卒だから、落第の多い方だ。しかも、卒業年度までには高等文官試験に合格できていない。翌年に内閣統計局にもぐりこみ、やっと高等文官試験に合格してから、一九一三年(大2)六月に警視庁に入っている。

 そこからは戦前の高級官僚コースだから、普通の昇進順序でも出世は早い。ただちに警部となり、翌年には警視、日本橋堀留署長となる。一九一七年には第一方面監察官となり、この立場で一九一八年の米騒動を迎えた。

 米騒動で勲章をもらった以後は、さらに昇進の速度が早まる。

 翌年、一九一九年には刑事課長である。この立場で、一九二〇年の普通選挙大会の取締り、東京市電ストの鎮圧などに当たっている。その翌年の一九二一年には、警視庁でナンバー・ツーの位置とされる官房主事になり、高等課長を兼任した。まだ三六歳である。本人自身が『週刊文春』(65・4・19)で、その出世の早さを、「わたしほど進級の早いのはいません」と自慢している。

 一九二三年(大12)、官房主事になってから二年目の六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。総合的な指揮を取ったのは正力であった。配下の主力部隊は、正力が課長を兼務する高等課所属の特高係刑事である。『伝記正力松太郎』などでは、正力が、いかにも手際良くスパイを放ち、押収した証拠書類を吟味し、機敏な一斉検挙を遂行したかのように描き出している。

 だが、この件でも、実務を担当した検事の証言、『塩見李彦回想録』が残されている。

 塩見の回想によると、正力がスパイ工作で、日本共産党の規約と創立大会の議事録を入手し、おりから腰痛で自宅静養中の塩野に、その内容を読んで起訴ができるかどうかを判断してほしいと頼みこんだのである。塩野は、それを精読して、治安警察法の条項にふれると判断した。当時はまだ治安維持法は成立していなかったが、治安警察法によっても、秘密結社の結成には六か月から一年の禁固刑が課せられるのであった。塩野は、つぎのように回想している。

「早速正力官房主事へ電話で、見込みありと通知したので、正力主事は車を飛ばし余丁町の私宅に来た。余は起訴可能であり、当然起訴すべきものだと説明したので正力主事は大喜びで、直ちに警保局長の官舎に行って説明して貰いたいと言う。病中ゆえ背負われ家を出で一緒に自動車で局長官舎にゆき、これを報告した」

 さらに検事局に二人で行って検事正らに検討させ、翌朝六時に一斉検挙の方針を決めた。ところが、「絶対秘密を厳命して置いたにも拘わらず。翌朝暁新聞号外が出たのは意外だった」。なぜかというと、帰宅途上の新聞記者が警視庁の近くを通ったところ、「窓々に煌々(こうこう)と電灯がついているので、何事かと警視庁に行って見ると自動車の勢揃い、家宅捜査だと言う話で、自ら漏洩(ろうえい)して仕舞ったのであった」。

 いかにも正力らしい乱暴さである。そのため塩野によれば、「被告の中には寝床でこの号外を見た者もあったろう」という状況で、「逃亡した幹部もあった。慶応大学の野坂参三、早稲田大学の大山郁夫は、この検挙を巧みにのがれて、その後まもなく亡命」するという結果を招いた。

 もちろん、いかに乱暴ではあっても、この一斉検挙の強行には絶大な効果があった。共産党ばかりではなく、多くの反体制的な組織が活動困難に追いこまれた。正力の杜撰ながら強引きわまりない特高戦法は、実質的な思想犯逮捕を実現しており、いわば治安維持法の先取りをなしている。

 共産党一斉検挙は、歴史的には大逆事件の系譜である。明治の大逆事件、大正の共産党一斉検挙は、昭和のファッシズムへの序曲であった。その意味では、正力は、ファッシズムの推進の先頭に立って、「独裁」的な「蛮勇」をふるったのである。


第八章 関東大震災に便乗した治安対策
(8-1)陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒