『読売新聞・歴史検証』(6-4)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 4

問答無用の裁判で「約一万二千人を『土匪』として殺した」

 これまでに流布されている説によると、一八九五年に終わった日清戦争後、陸軍の帰還兵士約二三万人の検疫事務を、内務省衛生局長として担当した際、後藤が時の陸軍次官、児玉源太郎から、その行政的手腕を見込まれたということになっている。しかし、のちほど示すように後藤自身が同時に、別ルートで台湾問題の「意見書」売りこみを図っている。それはともかく、台湾総督になった児玉は一八九八年、弱冠四二歳の後藤を台湾総督府民政局長に抜擢した。のち改制で同長官となる。

 日清戦争で勝利した日本は、一八九五年に清国から台湾を「割譲」で獲得した。

 児玉の台湾総督は第四代目で、後藤が民政長官になったのは、「割譲」から数えて三年目のことである。だが、最初の三年間の台湾支配は、激しい武力抵抗との戦いだけに明け暮れ、出費がかさむばかりなので、日本の帝国議会内でも「売却論」が出る状況だった。

 実際には条約締結以後に、台湾占領の植民地戦争が始まったのである。台湾の住民は「割譲」を認めず、アジアで最初の共和国とされる「台湾民主国」の樹立を宣言して、日本の支配に抵抗した。同共和国の崩壊後にも各地でゲリラ的抗戦がつづいた。「割譲」後の三年間で三代の総督が交替したことだけを見ても、その戦いの激しさがわかるであろう。三代目の総督は乃木希典であった。乃木の戦略は失敗つづきだった。乃木は、その後にも日露戦争の二〇三高地攻めで失敗につぐ失敗を重ね、児玉源太郎に後始末を付けてもらっている。台湾でも同じ経過をたどっていたのだ。児玉総督と後藤民政長官のコンビによる約八年間の植民地統治と経営は、実質的に初代の作業だったといって差し支えない。民政長官の職制に関するかぎりでは、途中で改制されたため、名実ともに後藤が初代である。

 後藤の台湾支配の実態については、『世界大百科事典』(平凡社)でも執筆者の戴国煇(非表示の場合:火偏に軍)らが、「あめとむちを併用した辣腕(らつわん政治」だったという厳しい批判を加えている。後藤は、地主などの上流層を宴会政治で籠絡(ろうらく)した。その一方で抗日ゲリラを、問答無用の「判決による死刑」に追いこむ政策を取った。裁判の管轄区域と無関係に「臨時法院」を設置できる「匪徒刑罰例」を行使したのである。この条例は後藤が着任する以前の一九八六年に制定されたものであるが、第一審だけで終審となってしまう。形式的な手続きだけで合法性を装うという、ない方がましな完全なごまかしの法律であった。『台湾支配と日本人/日清戦争一〇〇年』(又吉盛清、同時代社)によると、後藤は「警察権力の拡大強化」をはかっている。「後藤が民政長官に就任した一八九八年からの「四年間の鎮圧で、わかっているだけでも一万一千九百五十人の台湾人が葬り去られた」のである。警察の実態は軍隊と同様であった。「民政」は「警察軍支配」と同義語である。

『岩波講座/近代日本と植民地』(4)によると、後藤自身が「五年間に約一万二〇〇〇人を『土匪』として殺した」と語っていたそうである。この数字は前書とほぼ一致している、同書(2)によれば、「ゲリラ的抵抗を、『招降』の式場でだまし討ちにするなどあらゆる術策を用いて、ほぼ鎮圧し終えたのが一九〇二年(明治三五)であった」というのである。「辣腕」を通り越す「悪辣(あくらつ)さ」なのである。

「成功」と評価されている経済政策は、殖産局長に、現在の五千円札に刷り込まれている農業経済学および植民地経済学者の新渡戸稲造(一八六二~一九三三)を迎えて、砂糖、樟脳、茶、米、木材などの産業開発を振興した結果である。『岩波講座/近代日本と植民地』(4)でも、新渡戸を「帝国主義擁護者」と評している。『日本植民地研究史論』(浅田喬二、未来社)には、さらに詳しい「新渡戸稲造の植民論」の章がある。


(6-5)「王道の旗を以て覇術を行う」インフラの「文装的武備」