『読売新聞・歴史検証』(6-2)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 2

言論の封殺に走った後進資本主義国日本の悲劇の分岐点

 わたしはこの時期に、日本の近代史の悲劇的分岐点を見る。内務省警保局図書課などという、いかにもかびくさい名称の役所が拡張され、以後の日本の言論を封殺する最高権限を握ってしまったのだ。さらに軍閥が、内務省の背後から暴走を開始した。

 読売がたどった軌跡も、この悲劇の暴走のわだちに沿って理解すべきであろう。その意味で、当時の言論の自由と基本的な政治路線の関わりを、簡単に見てみよう。

 たとえば『近代日本の軌跡』(4)(吉川弘文館)には、「大正デモクラシーと知識人」という項目がある。

 そこではまず、この時期における知識階層の増大を指摘している。つぎには「出版ジャーナリズムの増大」という小見出しがある。「増大」を示す基本資料は、内務省作成の(秘)報告である。内務省警保局は『我国に於けるデモクラシーの思潮』という報告のなかで、「国民教育の普及と新聞雑誌の勢力の増大とに依り、所謂自由思想の如き漸次内発的のものになりつつあるを忘るべからず」と警告していた。当然すぎることながら、さらに注目しておくべきことは、つぎのような状況把握の作業が行われていたという、歴史的事実経過である。

「内務省警保局『(秘)最近出版物の傾向と取締状況』(一九二二年五月調べ)により、新聞(一月四回以上発行のもの)、雑誌(一月三回以下のもの)、単行本の統計をみると、つぎのような増加を見せているのである。

新聞 一九一五年(大4)・六〇〇種、一九一七年・六六六種、一九一八年・七八九種、一九二〇年・八四〇種、一九二二年三月現在・九〇八種。

雑誌 一九一五年(大4)・一〇四〇種、一九一八年・一四四二種、一九一九年・一七五一種、一九二〇年・一八六二種、一九二二年三月現在・二二三六種。

単行本(思想問題・労働問題を論じた主なもの) 一九一七年(大6)・二一種、一九一八年・四九種、一九一九年・一九〇種、一九二〇年・二二〇種」

 右に示された年度の数字のなかで、とくに注意しておきたいのは「一九一九年」である。すでに本稿では、元読売記者のプロレタリア作家、青野季吉の小説の題名として、この年度が登場していた。だが、ほかならぬ『大正デモクラシー』(松尾尊兌、岩波書店)という題名の概説書では、日本国内の「民本主義」の議論の重要な焦点として、「朝鮮問題」、つまりは植民地支配政策への関心の高揚の度合いを、つぎのように指摘しているのである。

「『大阪朝日新聞』の社説のうち、朝鮮問題を主題としたものは、一九一九(大正八)年のは一一、その翌年には八を数える。中国論はそれぞれ五四と五一であり、いぜんとして言論界の関心が主として中国に向けられていることがわかるが、これまでの六年間にわずか朝鮮論が六篇しかなかったことを思えば、朝鮮への関心が異常に強まったことがわかる。これはいうまでもなく、一九一九年三月に勃発した朝鮮独立闘争三・一運動により喚起されたものである。三・一運動こそが、『併合』いらいはじめて、朝鮮問題を国民的討論の場に上せたといって過言でない」

 いわゆる大正デモクラシーの時代の言論の主題は、その時代に応じた複雑さをはらんでいた。複雑さをもたらした最大の原因は、国際政治の状況変化にあった。一九一四年から一九一八年にかけての第一次世界大戦を契機として、国際政治の矛盾が一気に爆発していた。とりわけ重要な矛盾の焦点は、植民地の帝国主義支配政策にあった。

 一九一七年のロシア革命の結果、旧ロシア帝国の領域では、それまでの帝国主義支配がソヴィエト連邦という新しい枠組みに変化した。旧植民地は、連邦内の共和国という政治的形式を取ることになった。さまざまな問題点はあるが、いわゆる「社会主義」の歴史的評価までを本書で論ずるわけにはいかないので、この程度の表現にとどめておく。

 一九一八年のヴェルサイユ講和会議では、アメリカのウィルソン大統領が、「民族自決」の原則を提唱した。後発資本主義国のアメリカは、北アメリカ大陸の西部を制圧し、さらにメキシコやスペインから着々と新領土を奪い取っていた。そのアメリカが、今日の「自由化」にいたる「新植民地主義」または「経済侵略」の路線を敷くために、旧帝国主義列強にたいして植民地放棄、「民族自決」による独立承認、経済的相互乗り入れを迫りはじめたのである。

 かくして国際政治には、大きく分けて三つの岐路が生ずる。第一は、いわゆる社会主義、第二は、民族自決の承認、第三は、旧帝国主義支配の維持である。

 このような国際政治の状況のなかで、日本は、「欧州大戦」の呼び名もある第一次世界大戦で欧米列強が相争う最中の一九一五年に、火事場泥棒よろしく近隣のドイツ植民地を奪い、中国に対しては「二一ヵ条」の要求を突きつけた。一九一八年にはシベリアに出兵した。その一方の足元で、一九一九年に「三・一朝鮮独立運動」が起きたのである。

 日本の支配層の国際政治上での選択は、さきの第三の「旧帝国主義支配の維持」どころか、さらにそれを突き抜けていた。後発帝国主義国とはいえ、時代錯誤もはなはだしい侵略の拡大であった。

 当時の日本には、果たして、それ以外の選択の道が残されていなかったのだろうか。

 たとえば前出の『大正デモクラシー』でも、中野正剛や、大阪朝日の記者だった緒方竹虎、東洋経済新報の石橋湛山などの諸説を、比較しながら紹介している。朝鮮問題に関して要約すると、中野は「帝国憲法下の平等待遇」、緒方は「日本帝国主義の利益にそった形での朝鮮の独立」を主張し、石橋は「朝鮮放棄にふみ切った」のである。

 石橋、または東洋経済新報は、満州放棄、二一ヵ条要求反対、シベリア出兵反対に引きつづく「首尾一貫した朝鮮論」を展開していた。先の三つの岐路の選択でいうと、第二の「民族自決の承認」路線の選択であって、決して第一の「いわゆる社会主義」路線の選択ではない。アメリカと同様の、資本主義的かつ経済侵略的帝国主義の範囲内の思想である。しかも、当時の世界の大勢を見れば、最大の植民地支配国のイギリスですらが、自治から漸進的独立の許容へと支配政策の変更をせまられていた。石橋らの主張は、決して過激にすぎるものではなかったのである。そのことのなによりの証明は、植民地のない現在の日本の新植民地主義的、または経済侵略的な「大国」の状況にほかならない。

 内務省警保局図書課による民主的言論の封殺は、「反共」を旗印にかかげながら、実際には、日本の国内政治の議論だけではなく、あらゆる国際的な政治路線選択の議論をも、すべて不可能にしてしまった。その結果が、第三の路線すら突き抜ける決定的に愚かで、悲劇的な国際路線選択への暴走を招いたのである。

 このもっとも決定的な日本の近代史の悲劇的分岐点において、世論を左右する言論機関の役割は、ことさらに重要になっていた。その時に、言論統制の権限を一手に握る最高官庁の長たる内務大臣だったのが、後藤新平なのである。


(6-3)帝国主義政策のイデオローグだった初代台湾総督府民政長官