『読売新聞・歴史検証』(6-10)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 10

「大調査機関設立の議」の建白から東京放送局初代総裁まで

 一九一九年(大8)、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅にでた。訪問先は、アメリカ、イギリス、フランス、スイス、オランダであった。

 シベリア出兵を強行した寺内内閣は総辞職したが、この時期にはまだ、問題のシベリア出兵そのものは泥沼の継続戦のままだった。その最中に、「前外相」の後藤が、シベリアでは日本軍とともに「連合出兵」の戦線を形成してきた欧米諸国を「視察」したのである。

 翌々年の一九二一年にもまだシベリア出兵は泥沼の継続戦だったが、日本工業倶楽部を中心とする「英米視察実業団」二四名が組織された。後藤の個人的な欧米視察は、この実業団に先駆けるものであった。両者の関係は定かではない。だが、国際および国内の状況からして、かれらの念頭にあった緊急の課題が、ロシア革命とシベリア出兵、さらにはそれ以後の政策展開に関わるものであったことは、想像に難くない。

『後藤新平』(4)によると、後藤は、欧米視察から帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」の建白書を一気に書き上げ、政府に提出した。

「調査の範囲」の第6項には「労働問題」、第7項には「危険思想、各種の社会思想、国家観念ならびにこれに対する国家の対策」が挙げられている。

 この後藤の「大風呂敷」は、すぐには実現しなかった。現在の実例で示せば、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想である。その後の日本で実現したのは、後藤自身が創設した満鉄調査部の機能拡充と、一九三一年(昭6)の外務省・陸軍省・海軍省の三省連絡会、ついで内閣情報委員会、情報部、情報省である。

 アメリカを相手取った戦争で「日本は情報戦に敗れた」という議論がある。もちろん、敗因はそれだけではなくて、戦争計画そのものが無謀この上なかったからなのだが、後藤が戦後まで生きていれば、「あの構想がすぐに採用されていれば……」と語ったのではないだろうか。

 情報戦にはもうひとつ、組織以上に重要な電波技術の問題がある。電波技術の発達と関連機器の生産、普及に決定的な役割を果たしたのは、戦前にはラディオ、戦後にはテレヴィであった。

 後藤は、ラディオ放送についても、逓信大臣、内務大臣、東京市長と、さまざまな部署でかかわりを持ち、日本最初の放送局、「社団法人東京放送局」の初代総裁に就任していた。この件では、後藤と正力松太郎との協力関係も確かめられており、もしかすると正力の読売乗りこみの強引さの裏には、新聞=ラディオの両メディア支配の企みが、合わせ隠されていたのではないか、という疑いさえあるのである。

 正力とラディオの関係は、旧著『読売新聞・日本テレビグループ研究』で詳しく論証した。近著の『電波メディアの神話』にも記した。「番町会」グループの利権などもからむ複雑な経過である。

 とりあえず指摘しておきたいことは、当時、ラディオの発足が既存の新聞社の利権争いとなり、政治問題化していたことである。日本の場合、ラディオ免許出願が始まったのは一九二二年であり、各種利権の調整を経て社団法人東京放送局への一本化が決定したのは一九二四年の年末である。正力の読売乗りこみは、利権調整が山場を迎えていた一九二四年の二月であった。

 後藤はまず、逓信省電気試験所で無線電話(ラジオ放送)の実験がはじまった翌年の一九〇八年に逓信大臣兼鉄道院総裁に就任している。外務大臣と内務大臣をへたのち、東京市長となるが、『電気研究所四十年史』(東京都電気研究所編)によると、後藤は、そこで一九二一年には財界から百万円の寄附をえて、電気研究所と付属の電気博物館、電気図書館を建設した。電気研究所には、アメリカのジェネラル・エレクトリック社製の「放送機」を購入して設置した。この「放送機」こそが、日本最初のラディオ試験放送電波を発射したのである。一九五一年版の『日本放送史』では訳語が異なるが、社団法人東京放送局の理事会は、「東京市所有の無線電信電話機」の「臨時借用」方針を決定し、これを実施している。

 とりあえず、以上のような新聞、情報の世界との関係だけを考えても、後藤新平の「如何なる機略によれるものかは、今にいたって分明でない」というたぐいの動きが、正力の読売乗りこみの背後になかったと想像するのは非常に困難であり、「生物学」的に観察すると、なおさらに不自然である。

 しかも、もう一人、時の首相さえもが、内務大臣経験者であり、意外にも、奥深い権謀術数をよくする人物であった。


(6-11)明治維新の元勲、山県有朋の直系で、仏門出身の儒学者