『読売新聞・歴史検証』(5-6)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第五章 新聞業界が驚倒した画期的異常事態 6

CIA長官に匹敵!?「総監の幕僚長」お得意の「汚れ役」

 正力が、以上のような財界のリーダーたちと知り合ったのは、警視庁の官房主事兼高等課長という職責にあった時代である。官房主事という官職には、重要な陰の部分の任務があった。まずは正力自身の『悪戦苦闘』における自慢話から紹介しよう。

「僕が警視庁の官房主事時代の[中略]仕事はもっぱら政党と貴族院を操縦することだった。だから大いに待合政治をやったんだ。[中略]あの時の機密費は三千円だった。ハドソンの車を一台持っておるし、大したものだよ」

 機密費や専用車は別としても、「もっぱら政党と貴族院を操縦する」とは、いかにも話が大きすぎる。一応、眉にツバをつけておこう。御手洗辰雄の『伝記正力松太郎』の方では、正力が貴族院議員の組織、「研究会」で重宝がられたとし、つぎのように記している。

「研究会幹部の相談相手のようになり、少数の幹部の時には会議の席に出て意見を述べるようなことさえあるようになった」

 御手洗はさらに、官房主事の立場を、つぎのようにくわしく描きだしている。

「官房主事は総監の幕僚長として、あらゆる機密に参画するが、それよりもこの地位は政治警察の中心として、すこぶる重要な役割をもっていた。政治情報の収集はもとより、思想関係・労働関係・朝鮮関係・外事係などから直接政治家の操縦もやり、重要法案の難航する時など、反対派の説得までやるのである。高等警察というのがそれで、特高というのはその中の思想や文化関係を担当する、特別高等係のことである。総監のすることは何でも知っておらねばならず、また政府の政策遂行をよく心得て、内閣書記官長・内務大臣・警保局長と直接連絡し、与党の幹事長ともむろん密接につながっていなければならない。官等や地位は低いが、仕事そのものは内閣の政策や運命に関与する大事なことばかりである。当時官房主事の機密費は月三千円、ハドソンの専用車一台をもち、その点では大臣待遇だった。議員の歳費が二千円、内閣の機密費が十万円の時代だから、どれ程重視されておったか分かる」

 この御手洗の本を、本書ではすでに「正力講談」に分類している。そのまますべて鵜呑みにするわけにはいかない。だが、『日本の政治警察』(新日本新書)の著者、大野達三も、政治警察と天皇周辺との間にいくつかの直接ルートがあったとした上で、つぎのように記している。

「絶対主義的天皇制が確立して以後になると、政治警察活動はもう一段、総理大臣をとびこえて枢密院議長あるいは元老と直結し、天皇の組閣下命に重要な役割を果すようになった」

 こちらの説明の方が、「総理大臣をとびこえて枢密院議長あるいは元老と直結し」、その上には「天皇」しかないところまで権力中枢に近づくのだから、正力講談よりも機密の程度が高い。ただし、この場合の「政治警察」は、御手洗がいう「内閣書記官長・内務大臣・警保局長」クラスの位置づけである。官房主事は、それ以下の事務局または実働部隊の長である。

「直結」とか「直接ルート」とかいう機密情報の収集方法は、江戸時代の「お庭番」制度と同様である。重要情報の独占は、伝統的な最高権力者の知恵である。官僚機構の上下関係を十二分に活用しながらも、同時に、官僚の裏切りを防ぎ、支配の根幹をにぎりつづけるためには、直属の情報組織を維持しなければならないのだ。「情報は力」である。実際の「お庭番」として、天皇または側近に直接上奏したのは、「内閣書記官長・内務大臣」あたりであろう。その中間には「宮相」もいたはずである。

 官房主事の立場から、逆にこの「直接ルート」を上にたどると、「警視総監・警保局長・内務大臣」になる。

 正力が官房主事として関東大震災に直面したとき、震災の翌日の九月二日から内務大臣に再任したのが、後藤新平である。正力の弁によると、「後藤の大風呂敷がきらいで地方転出を願い出た」そうだが、結局は親しくなっている。「直接ルート」の関係だったようだ。その後の状況は、正力自身が『悪戦苦闘』で語るところによれば、つぎのようである。

「そこで、僕は警務部長になった。これがまた不思議なことに、後藤さんという人は官制なんてまったく眼中にないから、警務部長の俺を呼びつけて、政治関係のことをやらせる。『それは権限が違います。警務部長の仕事ではありません』といっても、受付けてくれん。そうこうしているうちに、後藤という人は、俺が考えておるのと違うなと判ってきた。判ってきたから、こっちは本気になっちゃったし、ますます後藤さんの信用を受けるようになった」

 つまり、正力は、官房主事から警務部長の時代を通じて、後藤と「直接ルート」でつながっていたらしいのだ。ただし、そのつながり方には、いささかニュアンスの違う別の裏話の証言も残されている。

 正力の富山四高時代からの友人に、品川主計がいる。読売の仕事まで手伝った仲だ。長期の友人関係というものは、どちらかが馬鹿になれないと続かないといわれるが、品川は正力とは対照的な実直型の性格だったようである。上司への売りこみも下手だったのだろう。いったん内務省から外に出たこともある。内務省内の昇級では正力に追い抜かれ、三代あとの官房主事になった。品川は回想録『叛骨の人生』(恒文社)の中で、つぎのように語っている。

「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった。何故かというと、彼は貴族院の操縦がうまかった。貴族院の操縦がうまいということは、貴族院の有力な誰かと手を握るということです。私が官房主事になってみると、すぐ、水野直さんという子爵から『ちょっと来てくれないか』と言われて行ったことがあります。その時、水野さんは、病床に寝ていました。そして『ひとつ君に頼みがある。近衛公爵の私行を調べて呉れ』との話でした。私は、『犯罪ならばだが私行の類を調べることは、私には出来ません』と言ってことわった。それでそれっきり水野さんとはお別れになりましたがね。

 これで初めて判ったんです。正力君は水野さんのそうした類の頼みを受けてやっていたから、貴族院操縦の腕を揮うことができた。水野さんという人は研究会を動かしていた人です。だから、貴族院を操縦するためには、そういう依頼も引受けてやっていなければ出来ないのですね。私の行き方は、少し違う訳で、どっちが良いかは判りませんが、私としては無能と言われても自分のやり方に満足しているのです」

 つまり、実直な品川は、本来の職務にはずれた水野の頼みを拒否した。結果は「水野さんとはお別れ」だけで、どこからも別に咎められてはいない。引き受けなくても、職務怠慢を問われる性質の仕事ではなかったからであろう。

 後藤が正力を「非常に信用」したという実績の中身は、簡単にいうと、官僚としての一種の背任行為である。警察官の職務を外れ、違法にも配下の警察機構を私立探偵並の「素行調査」に無断使用し、有力者の党利党略または私利私略に奉仕したのだ。いわゆる「汚れ役」、ダーティーワーク以外のなにものでもない。「操縦」とはいっても、自分の方が、たとえば水野の要請に応えて下働きをしていただけで、実際には自分が水野に操縦される「汚れ役の手先」だったのである。

 経歴の表面だけから見れば、品川主計は、正力と同郷・同学・同業の女房役、まさに終生の友の典型である。その品川が、こういう裏話を残すというところに、正力の「人徳」評価への最後の本音があるのではないだろうか。

 御手洗によれば、正力は「財界」との交渉窓口の役割も果たしていた。相手の団体の名称は「公正会」であった。御手洗は、つぎのように記している。

「公正会とも近付いたが、ここでは郷が一人ズバ抜けた存在で、正力は郷だけを相手にし、郷もまた正力が決して嘘をいわず、政府のため忠実に働いているのを見て、信頼して何事も打ち明けた」

 形容詞の評価は別として、正力はすでにここで、財界の中心人物、郷と親しくなっている。その時の郷は、すでに、松山経営の読売に出資する匿名組合の中心人物でもあった。

 以上のような各界の「操縦」に当たって、正力は、警察機構の情報収集能力をも十二分に活用したにちがいない。しかも、それとは別に「機密費は月三千円」もあったが、この金額は、もっと多かったという可能性もある。

 というのは、さきの品川主計が警視庁警視の頃に当たるが、『日本の暗黒/実録・特別高等警察』(3)(新日本出版社)の中での回想によると、品川は、関東大震災直後の「治安対策上の緊急出費」として、大蔵大臣から直接「ポンと一万二千円の機密費」を受け取っている。東京府の予算からも「年間五万」の機密費が出ていたが、前任者が「五万の借金まで作っていた」ので、「翌年の府会予算で倍額の十万円の機密費を取った」。「共産党対策に必要だということを口実」にして「各所におねだり」した機密費で、「赤坂から芸者を引き、囲い者にする」官房主事もいたという。品川自身は、機密費として受けとった「四千円のうち二千円は、私の使い走りをやってくれる人間や、庁内に出入りする情報運びの浪人連中にわたした」と語っている。

 正力の場合には、いわば「仕事の鬼」の出世主義的性格が強かったから、機密費は主としてスパイの確保に使用されていたのではないだろうか。警視庁時代には、別に浮いた話はないようである。

 以上が正力の陰の人脈の秘密であるが、その中心には、正力が「千古の美談」を語り、その死後に社長室に遺影を掲げた主の、元内務大臣、後藤新平がいた。

 正力は、後藤の人脈の末席に連なっていたにすぎない。副首相格の内務大臣と警視庁官房主事、またはその後の警務部長という立場とでは、かなりの距離がある。後藤の生前には、正力を後藤の人脈に数える論評はなかったようである。数多い後藤の伝記類にも、正力の名は出てこないし、『吾等が知れる後藤新平伯』(東洋協会、29刊)という題の、親しい知人、友人、後輩の回想集にも、正力は登場しない。正力の読売「乗りこみ」から数えて、ちょうど一一年後に出た『経済往来』(37・3)の記事、「正力松太郎と読売新聞」では、郷誠之助らを正力の「資金網」と指摘したのち、つぎのような皮肉を飛ばしていた。

「読売新聞社長室には一枚の人物写真が掲げてある、これ郷誠之助かと思いのほか、後藤新平子[子爵]の肖像だ。正力は後藤内相の下に警視庁警務部長であった。虎の門事件で懲戒免官となり内相も共に野に下ったとは言え、後藤系の人物として正力を数える人は稀(まれ)である。しかも永田秀次郎、松木幹一郎、前田多門、岩永祐吉、鶴見祐輔など、いわゆる後藤系の人達に共通なある特徴が、正力にはまるで欠けている。第一、文化人でない。第二、八方美人でない。第三、インテリ型でない。第四、闘争心が余りに強すぎる。第五、線が太すぎる。数えて行けば、違ったところがあり過ぎるどころか、一から十まで違っているのだ」

 だが、以上のような強烈な皮肉とともに、この記事では、つぎのような後藤の元秘書、佐藤安之助の秘話をも記してる。

「後藤が北京の旅舎にあったとき、東京の秘書役、松本幹一郎に暗号電報を打つことを命じた。電文は『いま帰るべきか否か、正力に聞け』という内容なので、佐藤はこれを見て始めて正力の怪物なるに驚いたという」

 この話は、正力が読売社長になってから三年後、一九二七年(昭2)のことである。後藤は、正力の最前線情報を珍重していたのであろう。こうした極秘の関係をも含めて、正力の読売「乗りこみ」の背後に後藤の黒い影がちらつくのは、まぎれもない事実なのである。

 正力による「千古の美談」宣伝は、もとより、読売の社長室に後藤の遺影を飾るだけでは終わらなかった。正力は、あらゆる手段で、死人に口なしの後藤の威光を独占しようと努めた。『読売新聞八十年史』の写真版頁には、後藤の写真と、正力の肖像画の写真とが、左右に向き合うように並べられており、その上の、「美談に芽生え感謝に実を結んだ『大読売』」と題する一文が、以後の区分、自称『大読売』時代への導入部となっている。この一文によれば、正力は、「故伯の生地岩手県水沢に後藤伯記念公民館を建設寄贈してその厚恩にむくいた」のである。面白いことに、ここでは、「相識ることいまだ日の浅かった正力のために伯が」、「千古の美談」の「十万円」を都合したという文脈になっている。さきのような、「後藤系の人物として正力を数える人は稀である」などという皮肉が、少しは通じて、物語の修正を迫られていたのではないだろうか。

 この二人の肖像写真は、版権のトラブルを避けるために、位置関係をそのままにして縮尺した絵とし、若干の説明を付した上で、本書の第二部の内扉に配しておいた。

 面白いことに、『読売新聞八十年史』の本文には、「千古の美談」の苦心の筋書きを裏切る部分がある。正力を持ち上げるために、重要な黒幕の一人、藤原銀次郎の「後藤伯[伯爵]追慕講演会」での発言を引用しているのだが、つぎの文脈は、「千古の美談」の順序とは真反対の、ことの発端の事実関係の証明になってしまっている。

「後藤伯は、新聞事業の経営等に適当な人がどこにいるか誰にも判らない際に、官僚畑の中から正力社長の如き千里の馬を見い出した。後藤伯の非常に偉い識見であります」

 藤原は後藤を、古代中国、周王朝時代の馬の鑑定の名人、「伯楽」にたとえている。この「千古のお世辞」への感激があまりにも強かったために、正力は、自作の「千古の美談」との矛盾に気付かず、『読売新聞八十年史』への収録を命令してしまったのではないだろうか。

 とにもかくにも、「千古の美談」の主、後藤新平その人の正体の解明こそが、まずは、世紀の謎を解く最初の鍵である。


第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配
(6-1)思想取締りを目的に内務省警保局図書課を拡張した大臣