『読売新聞・歴史検証』(5-2)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第五章 新聞業界が驚倒した画期的異常事態 2

「千古の美談」に祭り上げられた「軍資金」調達への疑問

 さて、疑いもなく正力は、「資本家御殿」で財界人の友人たちの見送りを受けたのち、「いざ鬼が島へ」とばかりに、東京駅をはさんで反対側の銀座にある読売を目指して出立したのである。

「資本家御殿」が持つ最大の力、または武器は、「カネ」にほかならない。軍事用語になおせば「軍資金」であり、その供給場所こそが「資本家御殿」だったのである。では、そのときの正力の懐には、どれほどの「軍資金」が供給されていたのだろうか。

 数ある正力講談のなかでも、もっとも複雑なのが、この「軍資金」、または普通の経済用語でいえば「経営立て直し資金」の、金額と供給源の問題である。

 資金を大別すると、当面の経営権買取りなどの手当をするための短期資金と、その後の設備更新、新規投資などの長期資金とがある。総額を一時に供給する必要はないから、乗りこみ当初に正力が懐にしていた金額は、短期資金の範囲内であろう。

 ところがまず正力講談では、その短期と長期の「軍資金」の区分を明確にしない。または、わざと単純化して、「桃太郎の吉備団子」めかした物語の粉飾の小道具にしてしまっている。ただし、そのやり方は、素人だましの口先のごまかしでしかない。

 読売はいまでも同業他社と比較して、経理内容が未公開、不明確な点で際立っているが、当時のこととなるとなおさらで、まったく公開の経理資料がない。そこにつけこんで正力自身が、針小棒大のデッチ上げ「美談」を吹きまくった。さらに、その裏を取ろうともしない読売という「新聞社」を先頭とする大手メディアが、つぎつぎに、それを忠実になぞるデマ宣伝をくり広げてきた。メディア業界には、この種の現象を「活字の独り歩き」と呼ぶ習慣があるが、この表現には責任逃れのごまかしが潜んでいる。活字が勝手に歩くわけはないのだ。

 第一の責任は、最初の嘘の裏を取って論破する努力を放棄した大手メディアにある。読売のように、メディア自身が嘘を製造している場合には、無責任というよりも犯罪だというべきであろう。第二に、そのつぎとか、つぎのつぎとかの大手メディアも、何々によればという注釈すらつけない。まさに、「講釈師見てきたような嘘を言い」つづけるのだ。最大手出版社の講談社が発行した『伝記正力松太郎』の正力講談などは、そのひとつの典型である。

 旧著の『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』を準備した際には、自力で可能なかぎりの資料を収集したが、そのなかで資金問題にふれていたものは、ほんのわずかだった。すでに紹介したような社史や年鑑だけである。その後に出版され、わたしの旧著以上に資料収集の手間をかけたと思われる『巨怪伝』ですらも、旧著の範囲内の資料で論じている。おそらく、これ以上の資料の発見を期待するのは無理なのではないだろうか。

 しかし、それらのわずかな資料によるだけでも、正力講談などの矛盾点は明確に立証できる。政界を背景とした財界資金の投入の状況も、かなりの程度、裏づけがえられるのである。以下では、わかりやすくするために、いちばん金額がすくない『伝記正力松太郎』の正力講談から出発する。そこから徐々に矛盾点をあきらかにし、「藪の中」の真相にせまっていく。

 正力自身の発言は、戦中戦後に万能評論家として著名だった大宅壮一が編集した『悪戦苦闘』と題する談話集のなかに収められている。そこで正力は、当座の資金一〇万円のみを後藤新平[前内務大臣]から借りたとし、これを「千古の美談」だと語っている。「千古」などという、こけおどしの漢語で人を威圧するのも、正力の得意の戦法のひとつであるが、「千古」には、「おおむかし」の原意から「永遠」の意味までがある。つまり、「永遠の美談」として自分の死後にも伝わることを、ひそかに期待していたのであろう。

『悪戦苦闘』の発行は一九五二年である。三年後の一九五五年に発行された『伝記正力松太郎』では、講釈師の御手洗が、これをさらに大袈裟に脚色する。まず、ゴシック文字の小見出しが「経営資金三万四千円也」となっている。いかにもすべての「立て直し資金」のようである。その計算がつぎのように劇的に示される。

「正力は組合の指図通り、十万円のなかから松山に退職金五万円、退職社員の慰労金として一万六千円を渡し、二人は引継ぎの契約書に調印した。正力の手に残った金は、三万四千円也である。これで半潰れの読売新聞に乗込もうというのだから、大胆であった。大胆というより、正力の心中はむしろ悲愴であった」

 パ、パン、パン、パン、と扇子の音が響きそうな名調子だが、これが元報知社会部長の評論家、御手洗の文章である。御手洗は正力の同時代人だから、歴史学などでは「業界の、ジャーナリストの、同時代人の証言」などとして二重にも三重にも貴重視されそうである。ところが、同じ御手洗は三〇年ほど前のこと、現職の報知社会部長の肩書きで、すでに何度か引用した『日本新聞年鑑』(24年版)に「震災後の記録的奮闘」という記事を執筆していた。その同じ年鑑にはすでに、正力が乗りこんだ当時の読売の資金問題について、つぎのように記されていたのだ。

「正力は東株[現在の東京証券取引所]の理事河合良成と親友であり、河合氏の口添えによって、東株理事長郷誠之介を通じ、郷氏の義兄川崎八郎右衛門君より十七万円、岳父安楽兼道[元警視総監]氏を通じて不動貯金の牧野元次郎氏から数万円、旧出資者たる中島久万吉氏等より数万円、合わせて最低三十万円をつくり、これをたずさえて入社したと、新聞研究所報は伝えている」

 続いて翌年の同年鑑にも、「読売の資本系統」という記事があり、そこにはつぎのように記されている。

「従来百万円の資本金であった読売も、正力社長の就任後、実業家方面から約七十万円の出費あり、同社の事業に好意と同情をよする人びとのなかには、安楽兼道氏をはじめ、牧野元一(ママ)郎、神戸蜂一、小池国三、藤原銀次郎、伊東米次郎、郷誠之介の諸氏に、三井三菱の諸系統が数えられるから、資力に心配はないらしい」

 しかも、「経営ぶりは、正力新社長の入社以来、一変して派手になった」とある。

 奇妙な点は、金額の相違だけではない。同時代の客観的な物的証拠として、もっとも価値の高い同年鑑には、正力自身が、その主の死後、社長室に遺影まで掲げて語りはじめたという、一〇万円の「千古の美談」で名高い「後藤新平」の名は、まったく現われないのである。

 はてさて、『伝記正力松太郎』と『日本新聞年鑑』(24、25年版)の、どちらを取るべきであろうか。ところが、この選択に迷う必要はまったくないのである。『伝記正力松太郎』と同じ年のすこしあとに出た『読売新聞八十年史』には、すでに、つぎのように記されていたのである。

「正力社長は本社譲り受けの際、後藤新平から融通を受けた十万円のうち五万円を松山前社長個人に、一万六千円を松山とともに退社する一三人に退職手当として支給し、残金わずか三万四千円をもって本社の経営に乗出した。もちろんこれだけの金で足りるわけはなく、財界有力者が改めて匿名組合をつくり、約六十万円の資金を供出した。

 出資者は、正力自身の四口をはじめとして、三井七万五千円、三菱五万円、安田四万円、小倉正恒(住友)、藤原銀次郎、川崎八郎右衛門、根津嘉一郎、浅野総一郎、山口喜一郎、松永安左衛門、益田次郎、原邦造、大谷光明などで、一口二万五千円であった」

「正力自身の四口」は「一口二万五〇〇〇円」で計算すると、ちょうど一〇万円になる。どうやら正力は、この四口分の一〇万円を後藤新平から借りたと称していたようである。

 だがなぜか正力は、のちに「千古の美談」として大袈裟すぎるほどに語るこの貸し主の名を、最初は秘密にしていたらしい。秘密にしていたのでなければ、『日本新聞年鑑』(24、25年版)の読売に関する記事にも、かならず載っていたはずなのである。後藤新平の名は、いささかでも、もれ聞こえていれば、無視されるはずはなかった。のちにくわしく紹介するが、ともかく前内務大臣であった。すでに紹介したように『日本新聞年鑑』(24年版)の記事、「やまとの新背景」でも、「田中君背後の出資者を、あるいは後藤子爵なりと推し」という具合に、疑惑の背景人物のトップに挙げられていたのである。

「千古の美談」の真相追及は、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』で、初めて詳しく行なった。最大の特徴は、すべての情報の最後の出口が、正力の口以外にないという点である。嘘でも本当でも、「美談」とやらを都合が悪い時は秘密にしたり、状況が変わると大声で宣伝したりするという、そのエゲツなさにこそ、この「美談」の特徴を見るべきであろう。


(5-3)最近なら「金丸システム」だった「番町会」への「食い込み」