『読売新聞・歴史検証』(4-3)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第四章 神話を自分で信じこんだワンマン 3

社史に偽りのあるメディアに真実の報道を求め得るか

 人の評価は「棺を覆ってから定まる」というが、正力が死んでから七年後にでた『読売新聞百年史』でも、まだまだ、正力が読売の社長に「推薦」されたとか、「新聞経営の話に乗り気になった」とか、いかにも自然な成り行きに見せようとしている。この種の提灯持ち作文が、いつまで世間に通用するのだろうか。

 前章で紹介した『日本新聞百年史』での元報知記者、御手洗の次の文章を、もう一度、ここでも繰り返してみよう。

「この日、同業朝日の夕刊短評には『読売新聞遂に正力松太郎の手に落つ、烏呼[ああ]』と出ていた。それほど不人気、まさに四面楚歌である」

「それほど不人気」だった正力を、『読売新聞百年史』では、いかにも期待の救世主であったかのように描いている。これでは言論機関の社史としての評価には値しない。それとも現在の読売そのものが言論機関の名に値しないという方が適切なのだろうか。新聞は部数が増えれば、それで良いというものではない。歴史書として通用させたければ、たとえ相手が国家元首であろうとも、その国家拡大の業績如何にかかわりなく、事実を正確に記さなければならない。その意味では、正力の生存中に露骨な提灯持ちで編集された『読売新聞八十年史』も、正力の死後に編集された『読売新聞百年史』も、最新の『読売新聞百二十年史』も、まったくの「私史」、または古代中国流の「王朝史」としてしか評価できない。何時の日か、全面的に書き改められるべきである。

 正力の社長就任に話を戻すと、当時も現在も世間常識として、新聞経営の立て直しに最適な人物は、新聞人として実績が確かな人物である。むしろ、新聞業界には普通の業界よりも、そういう意見が通りやすい特殊性があるといった方が良いだろう。

 読売に限っての特殊事情があるわけでもない。読売自身の歴史に例を取ってみれば、本野家から買収したときの財界匿名組合が、朝日の元編集長、松山を社長にすえた経過が、その典型例である。

 務台自身は、正力の死後に、同じ副社長で正力の娘婿の小林与三次と対抗しながら、社長の地位を確保した。『読売新聞百年史』そのものを編集する以前に出た務台光雄社長自身の伝記、『闘魂の人』には、その時の事情説明が、「友人の助言」として、つぎのように記されている。

「小林さんは官界から新聞界に入ってまだ二、三年しか経っていないではないか」

 つまり務台は、「友人の助言」という形式で、経験豊な自分の方が、新聞社の社長として相応しかったと主張しているのである。

 のちに詳しく事情を紹介するが、正力は、戦後にA級戦犯の指名を受けて社長を辞任した。その後の公職追放以来の経過や放送法の建て前もあって、読売の社長の地位に戻るのは都合が悪かった。

 そこで、追放解除以後にも読売に社長を置かずに、自分は「社主」を称するという異例の人事によって、独裁権限をふるっていた。晩年には務台と、娘婿で元自治省事務次官の小林与三次を、同格の副社長に置いて互いに牽制し合わせ、拮抗関係を保たせるという、いかにも独裁者らしい人事配置をしていた。この拮抗関係を破って務台が読売社長、小林が日本テレビ社長という新しい勢力バランスを築くまでには、関係の財界人をまじえる七か月もの暗闘がつづいた。そのときに務台が決定的な武器としたのが、この「新聞界に入ってまだ二、三年」という小林の経歴の評価だったのである。

 以上のような関係資料の矛盾した状況は、正力自身が生存中にみずからの伝説作りに執念を燃したという特殊事情によって、ほかの人物の場合よりもさらに複雑になっている。なかでもとくに複雑怪奇なのが、読売に乗りこんだときの事情である。

 以下では、芥川龍之介の短編小説『藪の中』のように、語り手ごとに順序を追って、このときの事情を一つ一つ聞き直す形式で、その矛盾点を明らかにしていく。


第五章 新聞業界が驚倒した画期的異常事態
(5-1)第一声は「正力君、ここはポリのくるところじゃない」