『読売新聞・歴史検証』(3-4)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」 4

朝日が権力に救命を懇願した日本版「カノッサの屈辱」誓約

 さて、話は少し前に戻るが、判決を直前に控えて大阪朝日は紙面(18・12・1)で、「本紙の違反事件を報じ、併せて本社の本領を宣明す」と題する長文の宣言を発表していた。これを原敬は日記の中で、「紙上に全く方針を一変する旨並に改革の次第も記載して世上に告白した」ものと評価している。ありていにいえば、畳に額をこすりつけて許しを乞うたわけである。

 この詫び状を象徴する用語、「不偏不党」が、これまた「朝日エセ紳士」の姿勢を典型的に示している。さらには、さきの中西の言葉通りに、現在に至るまでの日本のメディアの基本姿勢を決定づけてしまった。具体的には事件後の十一月十五日にさだめた「大阪朝日・東京朝日新聞に共通すべき編輯綱領」「四則」の内、三項の書きだし部分である。前段をなす「四則」の一項には「皇基を護り」とうたわれていた。「不偏不党」に始まる第三項の全文は、つぎのようなものである。

「不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し、正義人道に本(ママ)きて、評論の穏健妥当、報道の確実敏速を期する事」

 つまり、文脈全体としての意味は、「穏健妥当」な報道の約束でもあった。しかも、「本紙の違反事件を報じ、併せて本社の本領を宣明す」という宣言のなかでは、「この綱領四則は、今日新たに制定せし者に非ず。……先輩等の語り継ぎ言い伝えつつ実行し来れる不文律」とし、「是れ我社が従来の不文律を明文に著はして、以て永遠の実行を期する所以なり」としたのである。実際には「不文律」どころか、『朝日新聞の九十年』によれば、執筆者の西村天囚が直後に「先輩」たちから「さんざんにつるしあげられ」ている。いわば言葉巧みに自社の歴史まで曲げる「詫状」の作文であった。

「不偏不党」の「詫状」への批判の声は、もちろん、朝日の関係者以外からも挙がった。ただし、この経過は、「不偏不党」の四文字の字句だけの解釈では理解しがたい。

 日本という国家は「ことだまのさきはうくに」である。用語いじりと、意味のすりかえは日常茶飯事である。もともと、「不偏不党」という言葉自体には、時の権力への屈服という意味はない。むしろ逆の意味で使われていた場合もあった。

『萬朝報』(よろずちょうほう)を創立した黒岩涙香(本名は周六)が唱えた「不偏不党主義」の場合には、明治中期に大新聞が一斉に政党機関紙化したのに対抗して、「鶏口たるも牛後たるなかれ」の精神を唱え、独立独歩を宣言したものである。反政府的言動において、黒岩は、一歩もゆずることはなかった。

 その一方で、「不偏不党」という用語が、何かにつけて新聞への政治的圧力として投げ掛けられる傾向もあった。明治の新聞先覚者の一人で、政友会の代議士から『福岡日日』(現西日本新聞)の社長に転じて中興の祖となった征矢野半弥の場合には、政治的圧力としての「不偏不党」への批判を明確にしており、みずから「偏理偏党」を唱えていた。

 ただし、黒岩涙香の没年は一九二〇年(大9)であり、「白虹事件」が起きた一九一八年にはまだ存命中であったが、病没の直前でもあり、すでに新聞人としての活躍は終わっていた。征矢野の没年は一九一二年(明45)であるから、「白虹事件」が起きたときには、もうこの世にいなかった。

「白虹事件」の時代的背景をのべればきりがないが、シベリア出兵の契機は一九一七年のロシア革命である。日本の国内にも急速に革命的な気分がひろがっていた。朝日新聞だけではなく、自由主義的ないしは社会主義的な論調があふれ、のちに「大正デモクラシー」とよばれる世相が見られた。シベリア出兵には反対の論調をはる新聞が多く、大阪朝日はその急先鋒であった。政府は、発売禁止で対抗し、出兵がせまった七月三十日には全国で六十もの新聞が発売禁止となっていたのである。

 一方にはその逆に、シベリア出兵につづいて大陸侵略を拡大しようとする流れも強まっていた。村山社長をおそった暴漢が所属する黒龍会は、「黒龍江」(アムール)にちなむ命名からもあきらかなように、中国大陸侵略の先兵をもって自認する右翼暴力団体であった。朝日新聞への一斉攻撃には、かねてからの狙いが潜んでいたに違いない。

 こうした事実経過からみると、朝日の綱領が採用した「不偏不党」の場合には、征矢野半弥が批判したような「政治的圧力」に屈するニュアンスが濃厚である。存亡の危機に直面した新聞社がひざを屈して、政府批判を控えるからと誓い、救命を哀願した詫び状以外のなにものでもなかった。ヨーロッパでは「カノッサの屈辱」が、ローマ教会と王権の争いを象徴する歴史的事件として語りつがれているが、それに匹敵する日本の大手メディア「痛恨の屈辱」事件だったのである。

 以後の経過から見ても日本の大手メディアは、軍国主義、侵略戦争への協力になだれを打って馳せ参じている。「不偏不党」を誓約した朝日を先頭とする大手新聞社は、以後、それに類する「公正中立」だの、「客観報道」だの、「現実主義」だのという自己弁護、自己欺瞞の言葉いじりによって、報道姿勢を歪め、結局は読者をだまし続けてきた。

 ところが戦後になって再び、この「不偏不党」が吟味不十分なまま、新しい「朝日新聞綱領」に盛りこまれてしまった。なぜだろうか。『朝日新聞社史』(大正・昭和・戦前編)によれば、起草者の一人、笠信太郎は、つぎのように回想している。

「あれこれと書いては消し、消しては書いて、頭をひねくり回したあげくの果てに、文句までも同じの『不偏不党の地に立って』ということに帰ってしまった」

 つまり善意に解釈しても、新聞記者流のいわゆる美文調の言葉えらびの結果にすぎず、理論的な厳密さなどを期待するのが無理だといわざるをえない代物なのだ。「新」朝日新聞綱領は短いので、まずはその全文を紹介しておこう。

一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。

一、正義人道に基いて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。

一、真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す。

一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風をたっとぶ。

 さて、一番決定的なのは、この「新」綱領がつくられた一九五二年(昭27)という時期の問題である。本書でも、のちに読売争議からレッド・パージにいたる状況を紹介するが、この時期すでに日本の歴史は、戦後反動期に入っていたのである。

 それどころか「新」綱領起草の中心となった笠信太郎は、戦前のいわゆる昭和維新に際して、国家総動員を準備した革新官僚らと呼応し、経済評論で名を売った記者であり、まさに戦争犯罪人の一人として裁かれてしかるべき人物だった。笠信太郎の第一線への復活は、それ自体がレッド・パージによるドンデン返し、「逆コース」の象徴であった。そのころには同時に、「国民と共に起たん」(45・11・7)の宣言で「罪を天下に謝せんがため」に「総辞職」したはずの「村山社長」らの公職追放さえ解除されていた。『朝日新聞の九十年』によれば、会長として復帰した村山は、この「新」綱領について、「あくまでも旧綱領に盛られた朝日新聞の伝統的精神を生かしたもの」とか、「強調したもの」と語っていたのである。

 現在の朝日新聞綱領は、「新」どころか「旧」そのままであり、「戦後反動」または当時の流行語でいえば「複古調」にほかならなかった。

 なお、笠信太郎は、一九六〇年に日米安全保障条約改訂が強行された時期に、論説主幹の地位にあった。六月一五日の流血の惨事に際してだされた在京七社名義の「共同宣言/暴力を排し、議会主義を守れ」は、地方紙を含めて四八社が掲載するところとなった。この宣言は、「そのよってきたるゆえんは別として」というレトリックで、議会外の大衆行動を「暴力」として印象づけ、五百名の警官隊を議会内に導入した岸内閣の強行採決の方は、免罪にする役割を果たした。朝日・毎日・読売の三社首脳が起草したものであって、その中心にも「美文家」の笠信太郎がいた。


(3-5)大正日日の非喜劇を彩ったメディア梁山泊的人間関係