『読売新聞・歴史検証』(2-7)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第二章 武家の商法による創業者時代の終り 7

財閥による買収、全員解雇、「離散」の人間ドラマ

 陸軍が去ったあとに現われたのは財界であった。

 読売の持ち主の本野子爵家は、この争議ののちに、読売の経営権を工業倶楽部の財界人による匿名組合に売り渡したのである。本野家の二代目の二人の兄弟が相次いで亡くなったのちのことで、売り主は、若い当主で二代目社主の本野盛一だった。

 新社長には元東京朝日編集長、松山忠二郎が決まっていた。

 この当時の経営権売り渡しは、労働組合を持たない従業員にとって、いったん「全員解雇」を意味していた。松山忠二郎が新社長になる際にも、そのつぎに正力松太郎が新社長になる際にも、ことは同様であった。新社長は、旧従業員の再雇用と不採用を独断で決定できる力関係にあった。

 青野は『一九一九年』のなかで記者仲間の報告として、つぎのように記している。

「手廻しがいいじゃないか。A[朝日]新聞の主筆のあのK[松山]という『名士』が主筆で乗込んで来ることに、ほぼ確定しているそうだよ。K[松山]は札つきの財閥の御用記者で、社員の酷使と、専断と、買収で『名士』になっているんだからね。今度こそ、僕等はヒドイ目を見るだろうって、今からみんな縮み上っているよ。何でもこれは進藤の口から出たってことだが、K[松山]がやって来たら最後、こないだのストライキの加盟者と、凱旋行列の油虫組をキレイさっぱり掃き出すことに定っているというんだ」

「凱旋行列の油虫組」とは、伊達が連れこんだ記者たちのことである。喧嘩両成敗とでもいおうか、面倒な連中はすべてお払い箱という処置である。『読売新聞八十年史』では、「この変転に際し、読売調が深く身にしみていた古い社員の多くは離散していった」などと、いかにも当人たちが自由意思で退社したかのような記述をしている。これでは、きれいごとにすぎる。

『読売新聞百年史』の方では、つぎのように若干くわしくなっている。

「三階の本野子爵の油絵のかかった広間に集まった社員は、石黒[理事]から『手をつくしたが一応社は解散する。軽少だが手当にできるかぎりのことをした』とのあいさつを受けて、給料一か月分と三か月ほどの退職金を渡されて、本野家経営の読売との別れとなった」

 要するに、いったん会社を解散するということにして、会社解散全員解雇の形式を取ったのである。労働契約自体が、まだあいまいな時代であるから、そのあとで、再雇用されるか否かは新社長のオボシメシ次第となる。

 上司小剣の『U新聞社年代記』の筆運びは、この終末にいたって、さらに突きはなした冷静さをたたえる。

「U社[読売]が次の持ち主へ、本野家の後室と若年の若主人とから売り渡された時、丁度妓楼の売買に際する遊女の地位にあるような社員たちが、だいぶ騒いだそうだが、作者はもう罷めた積もりで、出社しなかったので、何も知らぬ。騒ぎのあったという翌日、馴染みの深い銀座一丁目の角屋敷の三階に、『前U社残務取扱室』の札を貼った扉をノックし、旧理事石黒から退職手当を貰った」

 上司は、そこまできたついでに文芸部ものぞいてみるが、「周囲には知った顔と知らぬ顔の交錯」という状況であった。この上司の一見突きはなしたような描写の中に、「騒ぎ」という言葉がある。上司は、この「騒ぎ」を聞きつけて心配し、様子を見に行ったのではないだろうか。「騒ぎ」の実情を知る手掛かりは、今のところこれ以外にはない。

 青野や市川は、もちろんのこと、再雇用のあてのない組に属していた。青野は『サラリーマン恐怖時代』のなかで、「その後私は、やはりサラリーマンとしての生活を送らざるを得なかった」と記している。

 事実、青野は市川とともに、国際通信社の記者となった。国際通信社は、明治の財界の巨頭として名高い渋谷栄一が中心となって、一九一四年(大3)に創立したものであるから、当時はまだ発足以来五年目である。青野は『文芸』(55・11)の対談で、つぎのように追想している。

「進んで堺さんたちの中にはいって社会運動をする、ということも考えない。市川は市川で、これもボンヤリしてるんだ。[中略]その時分にスタンダールの『赤と黒』を読んでいた。あれはフランス語もできるんだ」

 しかし、ひとたび資本の刃で無慈悲に解雇されるという異常な人生の経験の傷を受けたからには、いやでも体内に発酵する新しい衝動を覚えざるをえない。青野も市川も、そのまま国際通信社での、サラリーマン生活に甘んずる人生を送ることはできなかった。『読売新聞八十年史』で至極簡単に「ストライキ計画の失敗後、青野はプロ文学運動に、市川は共産主義運動に走った」と記していた経過の裏には、さらに複雑で生臭い人間ドラマが展開されていたのである。

 市川は、その後、創立されたばかりの日本共産党(当初はコミンテルン日本支部)の中央委員となり、コミンテルン第六回大会に代表として派遣された。一九二九年(昭4)の通称四・一六事件で一斉検挙にかかり、獄中一六年、敗戦直前に宮城刑務所で病死した。

 市川の公判法廷での陳述は、そのまま『日本共産党闘争小史』として古典になっている。推理作家として知られる三好徹は、やはり元読売記者であるが、推理小説ではない異色作『日本の赤い星』のなかで、市川の獄中記を描いている。市川は、紙も筆も与えられない獄中で、ひとり脳裏に文章をまとめ、うす暗い刑事法廷でたんたんと陳述したようだ。

 市川はまた、日本共産党の歴史の中で、宮本顕二現議長とともに「獄中非転向」の闘士として偶像視されてきた。ところが最近になって、日本共産党の中央機関紙『赤旗』の敏腕記者、下里正樹が突如として除名処分になるという事件をきっかけに、市川の獄中供述のガリ版刷り「聴取書」の存在が広く世間に知れ渡った。『諸君』(95・10)の下里の文章によると、市川は、ベテラン特高刑事の厳しい拷問に耐えかねて、コミンテルンとの秘密の連絡ルートなどを、詳しく供述していたようである。日本共産党の内部事情もあって、この「聴取書」は長らく埋もれていた。下里は、自分が苦労して入手していた「聴取書」を材料に、文学同人誌『弘前民主文学』に一文を寄稿し、日本共産党の中央委員会から「規律違反」に問われた。査問を受けた下里によれば、その際、日本共産党の中央委員会は、この「聴取書」が「ニセモノ」だと主張していたという。市川の人生最後の悲劇の周辺には、まだまだ深い霧が立ちこめているようだ。

 さて、話を読売に戻すと、面白いことに、青野の筆では友人の記者が「札つきの財閥の御用記者」と報告するほどの前評判だった松山忠二郎も、読売の立て直しに成功はするものの、やがては財界の期待を裏切るのである。

 なぜかといえば、それはまず、世相の反映であろう。読売のお家騒動ドラマのつぎの一幕は、その前に、すでにふれた「米騒動」報道と「白虹事件」などの、当時の日本の新聞界をめぐるより壮大なドラマを要約紹介することによって、より分かりやすくなるであろう。この章で垣間見た読売の社内紛争も、当然といえば当然のことながら、その大規模な日本の近代史とメディアの世界全体の、画期的な動乱の一部として展開されていたのである。


第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」
(3-1)絵入り小新聞だった朝日が議会傍聴筆記を付録に部数増大