『読売新聞・歴史検証』(2-2)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第二章 武家の商法による創業者時代の終り 2

「多数の新聞を操縦する事を得べし」と考えていた内務大臣

 シベリア出兵問題は、しかも、本野子爵家の二人の兄弟の間の思想的相剋にとどまらなかった。本野家の「遺業」としての読売そのものも、日露戦争から第一次大戦、シベリア出兵などをめぐる世論の荒波にもまれ抜いていた。それも紙面作りの問題だけではなくて、経営本体の買収さわぎという、致命的な暴風雨に相次いで見舞われていたのである。

 読売が長年の積もる財政危機を抱えていることは、世間周知の事実だった。加えて、日露戦争から第一次世界大戦、ロシア革命、それに対する日本のシベリア出兵、などなどをめぐる国際的および国内的な世論の激動期の到来である。読売には権力筋の買収さわぎがつづいた。それも当時の最高権力が直々の動きを見せたのだ。

 最初の買収話には、当時の内務大臣、のちの首相の原敬が加わっており、『原敬日記』にもことの次第が記されている。海軍出身の首相、山本権兵衛が読売買収の意欲を見せたのだ。『読売新聞百年史』では、本野子爵家時代の最後に長男の一郎が経営困難に陥った読売の買収交渉を行った経過を、つぎのように記している。

「山本権兵衛首相の本社買収話が出たのも、このような本社の内部事情を反映してのことだった。『原敬日記』(5)内相篇 大正二[一九一三]年十月六日の項につぎのようにある。

『山本(権兵衛首相)の内話に、松方より読売新聞を買収しては如何(価格十万円)、而して金は差向き或る実業家に云い付け出金せしめ、跡にて如何にかせば可ならんとの相談を受けたるに付、勘考すべしと云い置きたるが如何すべきやとの相談に付、余は夫れは不可なり、読売新聞を中央新聞位になすにも尚ほ二、三十万を要すべし、無益の事なり、二、三十万あらば多数の新聞を操縦する事を得べしと云えり。然るに山本はタイムスの如き大新聞を作るが為めに百万円以上も資金を作るを要す。松方に聞けば宮中にても出し得ると云ふに付試に渡辺宮相に話せしに、渡辺は例の通のお世辞にて夫れは国家の為め必要とあらば如何様にもなし得べしと返答せしが、渡辺の言には注意を要する次第なりとて未決の様なりしも、考案中にてもあらんかと思ふ』

[中略]しかし、結局、原内相の反対、渡辺宮相の態度の微妙さ、新聞社としての立地条件などで話はまとまらなかったのである」

 文中の「松方」は、薩摩出身の明治維新の元勲、松方正義(一八三五~一九二四)のことである。大蔵大臣の経歴が抜群に長い。首相にも二度なっているが、その際、二度とも大蔵大臣を兼任している。一九二二年に公爵となり、国葬で葬られた。

 つまり、山本首相は、明治以来の日本の国家財政の裏の裏を知りつくした曲者の、元大蔵大臣にそそのかされて、読売をイギリスの「タイムス」のような国論を左右する大新聞に仕立て上げ、自己の政権維持に利用しようと考えていたわけである。これにたいして、みずからも大阪毎日社長の経験を持つ原が、新聞業界のことならおれにまかせろとばかりに、「二、三十万あらば多数の新聞を操縦する事を得べし」と答えたのである。松方はさらに、新聞社買収資金の出所として「宮中」、つまり天皇家まで考えていた。山本首相自身も、改めて渡辺宮相に打診している。

 山本権兵衛(一八五二~一九三三)は、「長州の陸軍」と並び立つ「薩摩の海軍」の象徴的人物で、海軍閥と薩摩閥の中心をなしていた。海軍大将、伯爵である。政党としては政友会をバックにしていた。

 原敬(たかし、一八五六~一九二一)は、盛岡藩の重臣の次男に生れた。郵便報知新聞の記者から大東日報の主筆をへて外務次官になった経歴の持主であり、その後にまた大阪毎日から請われて当時では破格の高給で三年間の契約社長に就任したことさえある。押しも押されぬ新聞界の出身である。

 原は、一九〇〇年(明33)の政友会結成に参加し、のち総裁となる。一九一八年(大7)には、衆議院に議席はあるが爵位のない立場では初の首相となったので、一般には「平民宰相」として歓迎された。ただし、東京駅頭で暗殺されるという最期をとげたのは、買収、汚職の相次ぐ腐敗政治への庶民の怒りの反映である。金がほしいものには金を、地位がほしいものには地位を、女がほしいものには女を、というのが原の内輪のスローガンとして知られている。政友会という政党と、明治維新以来の藩閥、貴族院の最大会派「研究会」を結びつけるという、政治理念無視の力学が、原の権力主義の本性であった。


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