『読売新聞・歴史検証』(13-3)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十三章「独裁主義」の継承者たち 3

「円月殺法」答弁を自慢する元自治省事務次官の赤字決算

 日本テレビの「粉飾決算」は、その後にも、もうひとつ別の目的で、爆弾もしくは煙幕弾として巧みに利用された。

 しかも、何ともおかしなことには、いったん数年分の「有価証券訂正届け出書」提出によって、さかのぼって処理されたはずの「約一一億円の不良資産」が、再び、「当期費用」として浮上したのである。

 社長に就任した小林は、猛然と、「赤字会社」宣伝を展開した。目的は、いわずと知れた経費節減、人減らし、下請けへのしわよせ、などなどの、いわゆる「合理化」にほかならなかった。新社員採用は、以後一〇年間も中止された。八年後には、社員総数の約五分の一に当たる約三〇〇名が減り、その一方で、総工費約一三〇億円の新社屋が建設された。

 この問題の経過については、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』で、いささか詳しくふれた。本書の主題は、日本テレビではなくて読売にあるので、その後に読売の社長(現会長)となった小林の、人となりの理解を助ける程度にとどめる。

 正力が死んで、粉飾騒ぎが起き、小林が社長に就任するまでの期間、わたしは民放労連日本テレビ労組の執行委員だった。その後は、所属職場の編成局広報部、のち調査部の職場委員を勤めると同時に、わたし自身が執行委員時代に粉飾決算問題に対処する目的で専門委員会として組織した経営分析委員会に加わって、調査、分析、情報宣伝の活動を続けていた。小林の矛盾だらけの「赤字会社」宣伝にたいしても、ただちに分析を行い、各種の組合情報ルートを通じて直ちに反撃を開始した。

 ところが、この手の会社側の宣伝には、やはり、一種の魔力が潜んでいた。わが身大事の習性が強い普通のサラリーマンにとって、いまや世界語の「カイシャ」の危機という言葉には、強烈なインパクトがあるようだった。なかなか、その影響による不安を解消し切れないかった。

 さきにふれたように、当時の日本テレビには、約四五億円の別途積立金ほか約六七億円の自己資本と、約八〇億円以上の土地などの含み資産があった。資本金は一二億円だから、一般の基準から見れば「超々優良会社」であった。しかも、当時の日本テレビの専務取締役の保田が、日経の「粉飾決算」スクープ報道の直後にラジオ・テレビ記者クラブで発表した際、この「約四五億円の別途積立金と約八〇億円の含み資産」の件を説明し、そのことは広く報道されている。保田は要するに、日本テレビは決して赤字会社ではないと主張し、約一一億円の不良資産というのは、単なる会計処理上の問題にすぎないと明言したわけである。

 さきに引用した東京証券取引所の証券部長、菊池八郎も、「なぜ自己資本で消さなかったのか理解に苦しむ」と語っていた。つまり、一方では、過去の何年かにわたる年度別の損益計算書で、映画放映権の減価償却を費用に追加して利益を数億円づつ減額訂正し、同時に、貸借対照表に記載されている「別途積立金」の約四五億円から総計で約一一億円を引いて、約三二億円に訂正するだけでよかったのである。事実、日本テレビは、直ちに大蔵省に、過去数年間分の「有価証券訂正届け出書」を提出した。その結果、額面一億円の時価発行を除いて、一二億円から二四億円への倍額増資が許可された。この大蔵省による増資許可は、日本テレビが資産的に優良会社だったことの、何よりの証明である。

 労資間の団体交渉の席上でも、日本テレビの会社側は労働組合に頭を下げ、同訂正届け出書のコピーを手渡し、以後に予想される事態への対応に協力を求めてきた。

 ところが、その後に社長に就任した小林は、「赤字会社」宣伝を強調する勢いを駆って、再び、手品のような決算処理を行なったのである。

 この手品の仕掛けそのものは至極簡単だった。さかのぼって帳簿上処理したはずの「約一一億円の不良資産」を、再び二度に分けて、損益計算書の年度内の「当期費用」として落とし、無理やりに、二期の経常赤字決算を作り出したわけである。この「当期費用」という決算処理の仕方は、普通に考えても論理的におかしいし、明らかに会計原則違反であった。絶対に、その期の費用ではないからである。

 しかも、日本テレビはすでに大蔵省に平謝りし、過去数年間にさかのぼった「有価証券訂正届け出書」を提出していた。つまり、大蔵省への提出資料上では、約一一億円の不良資産は処理済みのはずであった。新しい年度別決算は、「有価証券訂正届け出書」の存在を無視したものであった。明らかに、それらの過去の提出資料と矛盾をきたすのである。本来なら大蔵省当局が再度「違法」と認定し、訂正を求めるべきところであった。

 労働組合は東京都労働委員会で、この「作られた赤字会社宣伝」を、思想攻撃であると主張した。その後に発生した組合員昇格差別や処分、解雇などの不当労働行為を行なうための、前段をなす思想攻撃だと位置づけたのである。わたし自身も組合側の補佐人という資格で、二度の審問の合計六時間にわたる会社側証人への主尋問を担当した。別途、会計学専門の明治大学教授、山口孝にも、組合側証人として鑑定書を提出の上、三時間にわたる証言をしてもらった。

 東京都労働委員会への提訴事件そのものは、和解で解決した。そのため、この会計処理問題についての第三者機関の判定は下っていない。だが、組合側は、審問廷における組合側主張の圧倒的な優位性が、和解に至った力関係に反映したと判断している。たとえば、以上のような東京都労働委員会での審問が行われた直後のこと、日本テレビ開局二四周年の記念式典演説で、小林は突然、何の脈絡もなしに、つぎのように語ったのである。以下は、『社報日本テレビ』(77・9・20)に再録された通りの文章である。

「いま決算に使われているあのバランスシート、貸借対照表とか損益計算書とかいうものは間違っている。もう明瞭に間違っている」

 この発言は、まるでヤケッパチとしか取れない。では、小林自身が会計原則をまるで知らなかったのかといえば、まったく逆であった。自治省では財務局長を経て事務次官になっている。日本テレビでは、社長就任直後から役人風の「行財政」という用語を振り回し、周囲の経理関係者たちを「何も知らぬ民間人」扱いにしていたのであった。

 大蔵省との関係では、小林が自治省事務次官の「最長不倒距離」を誇る点に、その秘密を求める説がある。というのは、一般にも知られる閣議の終了後には、各官僚組織の最高責任者である各省事務次官の連絡会議が開かれるのである。事務次官の「最長不倒距離」とは、事務次官連絡会議の「牢名主」役の長さをも示すことになる。しかも、小林の場合には、次女恵子の夫、佐藤謙が大蔵官僚であり、その仲人の近藤道生は元大蔵省銀行局長であった。

 小林が、官僚の経歴を誇っていた例証として、日本テレビの会社創立二五周年を記念して発行した社史『大衆とともに二五年』には、つぎのような小林の発言がのっている。

「私はよくいっているんです。人間は役人を一度やらんといかん、商売を一度やらんといかん、いまひとつは選挙を一度やらんといかん。この三つをやらなかったら、偉そうなことをいっても、人間社会のほんとうのことがわからない。ここに来て、そう思うようになった」

 まるで「元官僚にあらざれば人にあらず」なのであるが、「この三つ」に関して、小林は、義父の正力を超えることができなかった。正力は、この「三つ」を、とにもかくにもやってのけた。新聞やテレビの仕事を「商売」と呼ぶのには反発する向きも多いだろうが、これが小林の本音の評価なのだろう。それはともかく、この発言の時期にはまだ、小林は、富山三区の正力の地盤を継いで衆議院選に立候補する意欲を示していた。だが、ついに立候補は実現せず、その後には、脳梗塞で二度の発作を経験し、読売会長としての座も形ばかりの状態である。

 日本テレヴィの経営では、小林は、何かにつけて義父の正力の名を出した。実際にも、正力の読売乗りこみの際の労務政策を真似た。読売からヤクザ型元記者の腹心を引き入れては、つぎつぎと専務や常務に据えた。伝票チェックによる「不正摘発」の恐怖政治を敷いた。夜間業務の多い制作職場では、「午前一〇時出勤」を命令する墨字のポスター張り出す、などなどであった。

 小林がひそかに、義父の正力よりも自分の方がすぐれていると思っていたらしいものに、国会答弁技術がある。元自治省事務次官の経歴は、高級官僚の世界での最高位を極めたということを意味する。小林はおそらく、正力よりもはるかに行政法などにくわしかったのであろう。ということは逆にいうと、議員や国民を巧妙にだます法網くぐりなどは、お手のものということでもある。

『財界』(76・4・1)の対談では、ホストの高橋圭三から、「国会での答弁は非常に素晴らしかったと聞いてますが」などとおだてられ、ついつい、つぎのような自慢のド本音を披露している。

「こっちのほうが、よけい物も知っておるし、ツボも知っておるけれども、どうにかして言葉尻をとらえられんで、うめえこと片づけれるかということしか、答えるほうは考えていないんだよ[中略]。うまいことそらし、かわし答弁やるんだよ(笑い)。最後には、こっちも、何を言うたかわからなくなる」

 このあとは、「圭三/小林流″円月殺法″ですね(笑)」となる

 わたしが読者に確認しておいてほしいのは、こういうことを平気で語って、しかも笑う元高級官僚が、日本テレビと読売新聞の社長だったのだということなのである。


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