『読売新聞・歴史検証』(10-6)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十章 没理想主義の新聞経営から戦犯への道 6

「君はアカだそうだな」と一発かます元鬼警視の人使い戦法

 話を正力の読売乗りこみ当初に戻すと、その時にはまだ新人採用の時間的な余裕はない。むしろ正力は、それ以前からのベテラン記者の協力をえなければならなかった。とくに重要なのは、読売の現場を掌握するための編集局長ほかの幹部の確保であった。

 読売の社史や正力講談によると、正力はまず、それまでは社会部長兼文芸部長だった千葉亀雄にねらいを定めた。まずは留任を要請し、その後に編集局長就任を承諾させたのである。この昔話の出所は正力自身の回想以外にはありえないのだが、千葉に留任を承諾させる経過の描写には、すさまじいばかりの執念が立ちこめている。読売乗りこみの当日の午前一時、正力は、大森にある千葉の自宅に押しかけ、四時までかかって千葉を口説き落としたというのだ。

 この深夜に行われた「留任要請」の、三時間にもわたる押し問答の具体的な内容は、どの資料にも記されていない。それは本当に、正力自身が簡略に伝えているような、単純な人情話だったのだろうか。大いに疑惑をかき立てられる状況なのだが、まずは周辺の情報を整理してみよう。

 前出の元読売記者、花田大五郎は、『別冊新聞研究』(2号、76・4)の「聴きとり」に答えて、千葉亀雄の留任をめぐる事情を、つぎのように語っている。

「[千葉君は]社会部長兼文芸部長でした。後に正力松太郎がのりこんできたときに、われわれはやめたが、千葉君だけはやめなかったですよ。そのことを千葉君はずっと気にしていましたね。『自分もやめるべきであったけれども、ひきとめられて残ってしまった』といっていましたね」

『巨怪伝』では当人の次男、泰二から、つぎのような証言を引きだしている。

「千葉亀雄からそのときのことを聞かされた次男の泰二によれば、千葉は読売に残る気はさらさらなかったが、正力ともあろう人から直談判され、つい情にほだされ、急場だけという条件で引きうけたと、生前よく語っていたという」

 千葉亀雄への留任要請はたしかに、あらゆる資料が示す通りに「急場だけ」の、まさにその場しのぎの人事でしかなかったようである。正力は最初、編集局長には、国民新聞編集局次長の石川六郎を予定していた。ところが、『読売新聞八十年史』によると、その石川さえ「資本家の走く[狗]になるのはいやだ」というので、正力が説得を断念したという。右翼紙として名高い国民新聞の編集局次長さえもが、こうまでハッキリと皮肉たっぷりに語って、正力の要請を拒絶するような状況だったのである。

『読売新聞八十年史』によると、正力はその返事を受けるとすぐに、ストライキ状態の読売からいったん出て、再び千葉の自宅に走った。編集局長就任を要請すると、千葉は、「残ると決心した以上、何をやっても同じですから、お引き受けしましょう」と承諾した。これが決め手となって、以下、次長クラスには部長へ昇格という条件で留任を約束させ、やっとその日の新聞発行の体制を維持できたという。

 それでは、千葉の方には、正力の要請に答えることは「資本家の走狗になる」ことだという認識がなかったのであろうか。

 当時は読売の一記者だった作家、子母沢寛は、『二丁目角の物語』(文芸春秋新社)のなかで、千葉亀雄のことを書いている。それによると千葉は、「正力などという警察官吏の下で働く気はありません」といいつつ、ヒゲをひっぱっていた。つまり、千葉は、正力の前歴を強調しつつ、あらかじめ部下にも辞意を表明していたのである。

 読売の社会部長という立場であれば、「警察官吏」としての正力にたいする認識は、一番深かったはずである。しかも、時はまさに関東大震災の直後である。正力が震災下の虐殺で果たした役割への数々の疑惑について、何も千葉が知らないわけはない。むしろ、人一倍、詳しかったはずである。

 というのは、『読売新聞八十年史』には( )内に、つぎのように記されているからである。この( )内の記入部分は、同書にいくつか出てくるのだが、前後の文脈から考えると、草稿に対する正力本人の説明を付け加えたような感じである。

「なぜ正力が千葉を固執したか。正力が警視庁で活躍していた当時、時事新報が正力のことを書いたことがあった。それはすこぶる正しい批判だったので筆者を調べると千葉亀雄とわかり、さらに千葉の人柄を聞いてみると、非常に正しい男だということであった。それを記憶していたからであった」

 時事新報でも千葉は社会部長であった。千葉は、すでに文芸評論家としても知られていた。正力の要請に対して最初は、「実は家を建てたので雑誌社から相当金を借りているし、これを機会に売文業に移ろうかと思っています」という理由で断ったことになっている。つまり、独立した方が収入が増えるという状況にあったのだ。それだけの実力を蓄え、しかも、すでにそれ以前に正力への批判記事を執筆していた千葉が、関東大震災下に「鉛版削除」までを経験した読売の社会部長の座にありながら、正力らが震災下の虐殺事件で果たした役割について、強い疑問を抱いていなかったはずはない。その一端は、すでに紹介したように、その後、自らの退任の慰労会の席上で、正力に直接、「王希天はどうしたのでせう」という鋭い質問を、最後に投げ掛けた事実にも表われている。

 さきの( )内の文章を取って見ても、千葉が正力について「正しい批判」の筆者であるためには、そういう記事を作成するのに必要な程度の知識を持っていなければならない。千葉自身が「正力などという警察官吏」と語っていた人物の正体に関する批判的な情報を、かなりの程度には収集していたということになるのである。その千葉がなぜ翻意したのであろうか。その後の生涯を通じて「ずっと気にして」いなければならないような、いわば最悪の選択を、なぜしてしまったのであろうか。

 つぎに気になるのは、「正力が千葉を固執した」本当の腹の内である。たとえば『伝記正力松太郎』では、その理由を、つぎのように記している。

「千葉は社会部長として、その温厚な人柄で社内の人望を集めていたから、千葉を口説き落とせば社内は静まると見た。例の如き正力の中央突破である」

 いかにもありそうな話である。もっともな説明に聞こえる。しかし、千葉が執筆した記事を、正力が素直に「正しい」と感じたというのは、果たして本当のことなのだろうか。「筆者を調べ」たというのも、正力が現職の警視庁高官の時代の仕事だから、おだやかな話ではない。本当は、痛いところを突かれたので怒った正力が、筆者に効果的な脅しを入れる目的で、どこかに弱みはないかと部下に内偵させたのではないだろうか。もしかすると、そのとき正力は、いざという時に千葉に脅しを入れることができるような、何らかの弱みをにぎったのではないのだろうか。

 深夜の、それも三時間にもわたる「留任要請」などという行為は、冤罪の告白さえ「落とし」てしまうような、デカ長部屋の尋問技術を思い出させる。シツコク、シツコク、あくまでシツコク、手持ちの材料を小出しに使って、元鬼警視の正力がネチネチと、かたくなに留任を拒む千葉にゆすりをかける有様が、アリアリと想像できるような気がする。

 こういうと、わたしが千葉の人格を疑っているかのように取られるかもしれない。だが、それはむしろ逆なのである。正力の「手持ちの材料」の一例として、すぐに思いつくのは、務台光雄が正力とはじめて会ったときの話である。務台は、『別冊新聞研究』(13号、81・10)の「聴きとり」に答えて、つぎのように語っている。

「初対面ですよ。すると『君はアカだそうだな』というんです。私は何かわからんから笑っていた。そうすると『君のことを「報知」へ照会したんだ』というんです」

 務台は、報知を退社する原因になった内紛の際に、地方の販売店からの納金を本社に収めないという「納金不納同盟」に関係し、報知の上層部からはその「首謀者」と見られていたという。務台の説明では、それが「アカ」といわれる理由だったようである。その真相はともかくとして、正力はさらに、つぎのような発言をしたというのである。

「いや、アカでもいいんだよ。そのくらいの元気がないといかん」

 正力が、その後に読売で採用した社員のなかには、それこそ本物の「アカ」経験者が多数いた。その独特の人事政策が、戦後の読売争議が激化した原因のひとつに数えられているほどである。

 学生時代に何らかの運動に参加して逮捕され、獄中で転向を誓ったりしたものを、その前歴を承知の上で安く採用する。これが、正力の人使い戦法だった。警視庁での経験から、いわゆる左翼には知的に優秀な人材が多いことを、正力は良く知っていた。当然のことだが、当時のことだから現在以上に、「アカ」のレッテルを一度貼られれば、就職はむずかしかった。それどころか、特高刑事が仕事先や家庭にまでズカズカ入りこんで、いやがらせをしていた時代である。そういう「アカ」の若者の弱味を十分に知りつくした上で、自分の目の届く場所で「アカ」を安く使いこなしていたのが、元鬼警視の正力なのである。

『読売新聞百年史』の欄外説明には、千葉が「早大高師部を中退、苦学で国民英学会を出た」とある。時事新報から読売に移ったのは、松山社長時代に引き抜かれたからである。この経歴には、「アカ」経験の可能性が潜んでいるような気がするのである。

 第一次共産党検挙後の世相の中で、しかもその検挙の主役だった正力本人から、ラウドスピーカーに「奴はアカだ」といいふらされでもしたら、ほかでも仕事が探せなくなる。たとえ独立の「売文業」であっても、雑誌社が逃げる可能性が高くなる。だから、「君はアカだそうだな」という最初のジャブ、または正力得意の柔道の押しは、かなり胸にこたえるはずだ。その一方で、「いや、アカでもいいんだよ。そのくらいの元気がないといかん」といって、軽く手元にたぐりよせる。これが正力の常套手段だったのではないだろうか。

 正力の読売経営に「幸いした」労働市場は、一般的な「失業」と特殊で人為的な「アカ」の二重構造になっていた。わたしのアレンジによる前項の「進軍喇叭」の変奏曲は、つぎのようになる。

「見よ! 労働市場には正力自身が警視庁時代の弾圧で作りだした失業アカが氾濫している。正力万歳! 読売万歳!」


(10-7)「警視庁人脈で固めたから読売は伸びた」と自慢した正力