『読売新聞・歴史検証』(10-2)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十章 没理想主義の新聞経営から戦犯への道 2

「黄色主義」の直輸入で「騒音を立て」まくる堕落の先兵

 正力時代の読売が率先して採用した「黄色主義」には、アメリカのハースト系新聞という原型があった。これについてもまた、同時代にこれだけの批判があったのだという意味で、もう一つ別の『現代新聞批判』の記事、「『読売』時代と黄色主義」(36・11・1)の一部を引用しておこう。

「黄色新聞主義とは何か、そこには無論学問的なむつかしい定義などあるはずはない。黄色新聞主義の元祖は何人もお馴染のウィリアム・ランドルフ・ハーストで、彼は北米合衆国内に二十二に及ぶ新聞と十二種類の雑誌を経営し、そのほか通信社、映画フィルム会社、無電送信所等を支配する世界的新聞企業家である。彼の新聞経営方針は周知の如く発行部数第一主義で、そのためには何事をも実行し、何物をも恐れぬことであった。彼は新聞を一枚でも多く売るという目的のためだけでかつては米西戦争を激発し、最近では排日を唱導し、日ソ開戦説を流布している。[中略]

『読者をつかまえろ! そのためには出来るだけ大きな騒音を立てろ』、これがハーストの新聞製作上のコツであったが、騒音を立てることは読売の最も得意とするところ[中略]。

 多分、ハースト系外電を採用しているのであろう。足もとから爆弾でも破裂するかと思われるような『本社特電』が毎日紙面に跳躍するのが読売である。『スターリンの死亡説』や当局発表の『ソ連の不当越境』や『支那の暴虐ぶり』を最もセンセーショナルに報ずるのも読売である」

「黄色主義」の典型のひとつに、「サツネタ」頼りの煽情主義報道がある。「サツネタ」の確保に関するかぎり、警察に強いコネを持つ正力社長の読売は格段の優位を誇ることができた。

 すでに紹介したように、『伝記正力松太郎』にさえ、「警察新聞になって終うのかとの嘆声やら悪口やらが出た」という当時の実情がしるされている。「警察新聞」と「黄色主義」の間には、硬派で行くか軟派で行くかの差しかなかった。正力は、軟派の「サツネタ」煽情主義を採用した。最近の「オウム真理教」事件報道などの、いわゆる「総ジャーナリズム」型報道につながるような、下品で、押しつけがましい、これでもかこれでもかの紙面作りが横行しはじめた。

 大きな見出しと写真を多用する三面記事の増大は、当然、その分野の紙面の増大となる。この傾向は、読売の他の分野の紙面に、どのような影響をあたえたのであろうか。いきおい他の紙面は、広さはもとより、質的にも圧迫されざるをえない。

『現代新聞批判』(36・1・15)には、「読売の紙面を評す」という長文の記事が掲載されている。その副題は「文芸欄衰弱の兆」となっている。正力乗りこみから一二年後の論評なのだが、そこにもまだ、「読売の文芸欄にはそうはいってもまだ、過去の伝統的な味は残っている。他の新聞に比べて確にその文芸欄は、特色をとどめている」という評価がある。ところが同時に、つぎのように批判される状態も生れていたのである。

「正力社長は発行部数の増大に意を注いでいる。そして文芸欄の衰弱を自ら画策する。これがヂャーナリズムの公道だろうか」

 おなじく『現代新聞批判』の連載記事、「読売新聞論(三)」(34・9・1)では、「読売の政治面の貧弱さは、お話にならない」とバッサリ切られている。

 新聞ばかりではなくて、いわゆるメディアの仕事というものは、世間一般の認識以上に手工業的な個人作業に頼っている。新聞の場合には、記者個人の思想、教養、体力、技術などが重要な構成要素になっている。おなじく「読売新聞論(三)」では、「読売新聞には穴が多いが政治部と匹敵する大穴は外報部だ」としている。その「大穴」の外報に例を取って、記者の資質の問題を考えてみよう。つぎのような同論評の読売の外報にたいする歯切れのいい批判は、現在にも通用するものである。

「外報は筆先の小器用だけではつとまらない。少しばかり語学が達者な位ではつとまるものではない。国際政治に対する細緻な頭の働きと透徹した批判力とがなければならない。ひとり読売に限らず、日本の新聞が国際問題となるとボロを出すのは、頭の記者がいないからだ。『新聞記者は足で書く』ということをよく言うが、頭のない記者が足をすりこ木にして飛びまわっても何もなるものではない。日本の新聞が、この言葉を文字通りに解釈して、記者をやたら飛びまわらせることばかりを考え、頭の養生をさせないのは非常な誤りだ」

 正力乗りこみ以前の読売の外報、または国際問題ともなれば、まず第一に挙げるべきは、中国問題の専門家として論説陣に加わっていた小村俊三郎であろう。小村は、正力乗りこみと同時に退社していた。というよりもむしろ、すでに記したように正力が読売に乗りこんだ理由のひとつが、中国人指導者、王希天の「行方不明」(実はすでに陸軍が虐殺)を追及する小村らの追放、言論封殺にあったのだという確信を、わたしは深めているのである。

「黄色主義」と「言論弾圧」の相互関係を考えるならば、本項で紹介した読売の「文芸欄衰弱」「政治面の貧弱」「大穴は外報」などは、むしろ、確信犯正力の意図に沿った紙面作りの状況だと判断することもできる。


(10-3)「首切り浅右衛門」まで登場した読売記者の総入れ替え