Racak(ラチャク)村「虐殺報道」検証(16)

ユーゴ戦争:報道批判特集 / コソボ Racak検証

ラチャク「虐殺」発表者ウォーカーの正体(前編)

1999.7.23

1999.7.16.mail再録。

 先にも、アメリカの国連(正しくは諸国家連合)軽視の舞台裏を暴露する『宝石』(1999.8)と『読売新聞』(1999.5.15)の記事の存在を本誌編集部に通報、ファックス送信して下さった追谷信介さんが、今度は、新宿の某インターネット喫茶店で、ヤフーの米国サイトを検索し、独立系のコンソーシアム(Consortium.協会)から、ラチャク村『虐殺』報道操作のキーパーソン、ウィリアム・ウォーカー全欧安保協力機構(OSCE)コソボ検証団団長の「知る人ぞ知る正体」についての「目撃証人」の記事を発見して下さいました。

 それをさらに、本誌編集部が毎度お世話になっている翻訳業の萩谷さんが、訳して下さいました。本誌編集部としては、ただただ、「心を込めて」(何か聞いたような台詞だと思って、わが脳味噌を検索してみたら、点数を付けるカラオケの司会のヴィデオ録音の言葉でした)入力するのみです。論評は(後編)の後にします。


1999年1月26日

掲載当初2月26日としたのはミスプリ。1999.7.18.訂正。

ラチャクのアイロニー

あのウォーカーが虐殺を非難するとは

ドン・ノース

 ラチャク村の虐殺現場を視察したウィリアム・ウォーカー全欧安保協力機構(OSCE)コソボ検証団団長は、

「こうした顔面がなくなってしまったような遺体は、近距離から、死刑のようなやり方で殺されたのだ。明らかに、人の命など何とも思わない連中がこんなことをしたのだ」

 と、怒りを抑えがたい様子で報道陣に語り

「言いようのない残虐行為と言うしかないこんな光景を前にして、私の覚える感情を表現しようにも、残念ながら言葉がない」

 と述べた。

 そして、セルビア政府に、この作戦に加わった警官と兵士の氏名を知らせることを要求した。犯人を逮捕してハーグの国際戦争犯罪裁判所に引き渡す考えである。

「私が自分で見たところからして、この犯罪を、殺戮、人道に対する犯罪と呼ぶことに躊躇しない」、「また、政府治安部隊に責任を質すことも躊躇しない」

 と彼は言った。

 その憤激が真実らしく見えれば見えるほど、セルビア政府当局の民間人殺戮の責任を追及する役割を、ほかならぬウォーカーが負っているという状況は、暗いアイロニーを感じさせた。彼は、80年代に中米3カ国、ホンジュラス、ニカラグア、エルサルバドルで米国の支援のもとに行われた軍事作戦で重要な役割を果たした人物の一人だからだ。

 当時それら諸国で米国の支援を受けた勢力が非武装の民間人や敵側捕虜に対して行った蛮行については、十分な資料で裏づけられている。それでも冷頑政権は、殺人の事実を無視するか、報道に文句をつけるか、殺人をなるべく取るに足りぬ規模だと言おうとするのが、つねだった。

 この3カ国で、何万人もの民間人が連合軍の手で命を落としたにもかかわらず、戦争犯罪法廷が召集されたこともなければ、召集が真剣に考えられたこともなかった。殺戮の実行者も、その上官も、ワシントンの政界にいるその仲間も含めて、人道に反する罪で有罪の判決を受けた者は一人もなく、いたとしても、ほんの数人、大半は階級の低い兵士だけであった。

 しかもさらに悪いことには、冷頑大統領とその部下は、戦争犯罪の証拠を発見したジャーナリストや人権調査団の信用を失わせようと画策したのである。

 私は1983年にニューズウィーク誌の通信員としてエルサルバドルに行っていたので、実際にそういう状況を経験している。左翼ゲリラの偵察隊と旅をしていると、グァサパ火山近くで政府軍との奇襲戦が始まった。

 ゲリラ部隊が退却し、ゲリラのシンパを虐殺することで知られていた政府軍の報復を恐れた農民があとについていった。山地を通っていったとき、一部の民間人が子ども連れのために遅れて落伍し、軍に追いつかれた。

 私は約2マイルの距離から双眼鏡で見ていた。米国で訓練を受けたアトラカトル大隊の兵士は銃と山刀で男女子どもあわせて24人のテナンゴ村民を処刑した。私より近距離にいたゲリラの一人が無線で目前の出来事を逐一報告していた。

 2週間後、政府の攻勢がやむと、ゲリラは村に戻り、軍が合計68人の民間人を殺したとの報告を聞いた。私がのちにニューズウィークに書いたように

「テナンゴ村のはずれには、殺戮の証拠がいたるところにある。黒こげになって散らばる衣服、靴、学校教科書の切れ端・・・犠牲者の遺体を発見したときには、すでにそれらは、はげわしがつついて、骨ばかりとなっており、村の犬どもがそれを持ち去り始めていた」。

 冷頑政権は、テナンゴ村の報告にも、エルサルバドルの戦争犯罪に関する他の多くの報告に対して示したのと同じ反応をした。否認と非難である。

 数年後、ある米国のジャーナリストが読んだ米国大使館の電報には、「ニューズウィークの報じているテナンゴの殺戮なるものは、決して起こっていない。これは捏造である。ドン・ノース通信員が嘘を書いているのだ」と書かれていたという。

 1983年になると、否認と非難は、冷頑政権がエルサルバドル政府の「汚い戦争」に関する全ての報道に対して行う常套的反撃となっていた。冷頑大統領にとって、中米は、冷戦の前線であり、極端な行動は正当化された。

 このパターンは、冷頑再選のわずか数日後、当時の米国大使だったジーン・カークパトリックと国務長官だったアル・ヘイグが、エルサルバドルで米国人の教会の女性信徒4人が暴行・殺害されたことを、被害者の左翼的な思想と行動のせいだとほのめかしたときから始まっている。

 おそらく一番明白に資料に残っている隠蔽の例は、1981年12月、エルサルバドル北東部のエル・モソーテ村で、米国で訓練を受けたアトラカトル大隊が、男女子どもをあわせて約800人の村民を集めて処刑した事件だろう。

 この殺戮が米国のマスコミで報道されると、国務省高官のトーマス・エンダーズとエリオット・アブラムズは、議会に赴き、殺戮報道を嘲弄する発言をした。しかし、この否認が偽りだったことは、10年後に国連の法医学チームが現場から数百人の骸骨を掘り起こしたとき、明らかになった。

 80年代に、ウィリアム・ウォーカーは、国務省外務職員として、自分の個人的良心に関わりなく政府の政策を遂行することを務めとしていた。友人や同僚は彼が冷頑の右翼分子支援政策を弱めようと、ひそかに試みていたと言うが、彼はそうした政策にはっきり反対したこともなければ、自分の出世をいささかなりと犠牲にする気もなかった。

 80年代を通じて、この忠良な外交官は、しばしば、冷頑政策の中でも最も批判を呼んだものの前線に立っていた。80年代初め、彼は、ホンジュラスに使節団副団長として派遣された。当時CIAがアルゼンチンの軍事顧問団と協力して、左翼政権のニカラグアをホンジュラスの基地から攻撃するため、ニカラグアのコントラの陸軍を訓練していた。

 またコントラとアルゼンチン軍事顧問団は、ホンジュラス陸軍の強硬分子が暗殺部隊を結成するのを助け、この部隊によって、約200人の政治的容疑をかけられた学生と労組指導者が「消されて」しまった。1994年の報告の中で、ホンジュラスの真相究明委員会がこれらの政治的殺害を確認し、CIAの秘密の戦争に参加した軍将校を非難している。

 1985年には、ウォーカーは、中央アメリカ担当国務次官補代理に出世し、エリオット・アブラムズの副官達の中でトップの一人となった。この地位にあって彼は、残酷と腐敗の悪評を高めつつあるコントラを支援し続けた。

 彼は、イラン・コントラ事件でも、にわかに周辺に浮かび上がったが、それでも外交官としての出世は続いた。1988年、駐エルサルバドル大使となる。エルサルバドル軍の残虐行為はより的を絞ったものとなっていたが、決して終ったわけではなかった。

 1989年11月16日、制服を着た悪名高いアトラカトル大隊の兵士が6人のイェズス会士を、家政婦、および15歳の娘とともにベッドから引きずり出し、地面に這わせると、強力なライフルを近距離から発射し、文字通り彼らの脳みそを吹き飛ばして、処刑した。

 証拠は、これがエルサルバドル軍の仕業であり、高レベルからの指令があったことをしめしていた。しかし、ウォーカーは、記者会見で、米国政府お気に入りのエルサルバドル陸軍参謀長レネ・エミリオ・ポンセ大佐を庇って「こうした状況では、管理統制上の問題が起こるものだ」と言った。

 さらにエルサルバドル反体制派への抑圧が広まると、ウォーカーは言った「私はそれを大目に見ることはしないが、こうした強烈な感情と怒りのある時には、こうしたことは起こるものだ」(AP 1989年12月5日)。戦争犯罪に対するウォーカーのにゃふにゃした対応を見て、ニューヨークタイムズの論説は、この大使は単に「官僚的にぼそぼそ言う」ことしかないと叱責している[1989年12月25日]。

 イェズス会士殺害に対する批判の声が高まると、ウォーカーはワシントンに行き、この軍隊非難の論調に難癖をつけた。「制服は誰でも持っている」と、彼は、1990年1月2日にジョセフ・モークリー下院議員(民主・マサチューセッツ)に語っている「彼ら(殺害者)が軍隊の制服を着ていたという事実は、彼らが軍人である証拠ではない」(ワシントンポスト 1993年3月21日)。

 国務省内部の電報では、彼はさらに防衛的で、「どんなに忌まわしいものであれ、過去の死の問題を解決するために行うことによって」エルサルバドルの情勢の進展が「危うく」されてはならない、と当時の国務長官ジェームズ・ベーカーに述べている。

 また、ある「秘密」の電報では、ウォーカーは「私は、(駐エルサルバドル米国)大使館は一方的な公開情報収集をやめるか、さもなければ今後も続く全く不利な決定と批判に直面するかしなければならないとの結論に達した。大使館にそう伝え、今後の調査活動はエルサルバドル政府に任せるべきだと思う」(National Catholic Reporter 1994.9.23掲載の国務省の機密解除後の電信による)

 内戦終了後、国連は、エルサルバドルが広範囲にわたる人権侵害を行っていたと報告している。機密解除後の米国政府の記録でも、冷頑政権が、内戦下に行われた最悪の残虐行為がエルサルバドル軍の責任であることを知っておりながら、情報を議会と一般人に対して隠していたことが確認されている。(詳細はニューヨークタイムズ 1993.3.21)

以上で(前編)終わり。(後編)に続く。


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