Racak(ラチャク)村「虐殺報道」検証(10)

ユーゴ戦争:報道批判特集 / コソボ Racak検証

『ル・モンド』(1999.1.21)

1999.6.25

ラチャクの死者はほんとうに虐殺されたのか

 18日に現地に入った本紙記者の取材で、ラチャクの村民虐殺というストーリーには疑わしい点が出てきた。

 OSCEの検証団によれば、虐殺は15日の午後早く行われたとされている。朝からユーゴ軍の装甲車が攻撃していた村に、このとき、目だけを出した頭巾を被ったセルビアの警官隊が侵入。各戸の戸を開けさせて、女は中に残し、男だけを村外れにつれだし、一部の人を拷問したり、負傷させたりしたあと、物も言わずに全員に頭部に銃弾を浴びせて殺した。セルビア人の中には歌を歌いながら撃っている者もいた。彼らがそこを引き上げたのは15時30分とされる。

 ところが、警察の行動を撮影していたAPTVの2名の取材記者の話は、これと矛盾する。彼らが、朝10時、警察の装甲車のあとについて、村に入ったときには、村は無人だった。道を歩いているあいだ、村を見下ろす丘陵の林に隠れたKLAの弾丸が飛んできた。この銃撃の応酬は、激しさは変化したが、警察が村にいる間じゅう続いた。戦闘は主にその林の中で行われていた。明け方のセルビア側の最初の砲撃のときに村から逃げ出したアルバニア系人が、林で、裏からまわったセルビア警察隊と衝突したのである。KLAは挟み撃ちにされた。

 警察隊が特に激しく攻めたのはKLAの陣地だった。ラチャクの村民はほぼ全員が、1998年夏の攻撃のときに逃げてしまっており、ごく例外的にしか戻ってきた者はいない。APTV取材記者は「煙のあがっている煙突は2本しかなかった」と語っている。

 だから、セルビア軍の攻撃は、驚くことでも秘密でもなかった。

 15日の朝、警察側からAPTVに、「ラチャクに来い、ちょっとしたことがある」と知らせられ、クルーは10時に現場にかけつけ、村を見下ろす丘の頂きで警察の傍らにいて、村を撮影したあと、装甲車について村に入った。

 この攻撃についてはOSCEも知らせを受けていた。少なくとも2団の国際監視団が、村の一部を見下ろせる高台におり、村に入ったのは、警官隊が入って間もなくだった。数人いたアルバニア系住民に、民間人の負傷者がいないかを聞いた。18時頃、女性2人、老人2人の計4人が、丘から降りて、隣村スティミエ村の無料診療所のほうにやってきた。この段階で検証団は、「この日の戦闘について報告を作成することは不可能」だと言っていた。

 セルビア警察はこの作戦をさかんに宣伝した。10時30分には最初の声明を出し、警察官を殺したアルバニア系テロリストを捕まえるためのことだと発表する。15時には最初の報告を出し、戦闘で死んだ15人のアルバニア系人について知らせている。翌16日には、作戦が成功したと伝え、「テロリスト」約10名の死と多数の武器の押収を報じている。

 15時30分には、警察は、なおも急峻な場所を利用して抵抗を続けているKLAからの散発的な銃撃を受けながら、現場を離れた。すぐに、最初のアルバニア人の生き残りが村に降りてきた。検証団の車3台が村に入った。警官隊が出て行って1時間後に、日が暮れた。

 翌朝、報道陣と検証団が来て、戦闘の被害を確認した。このとき、村を再包囲したKLAの戦闘員に案内されて、検証団と報道陣は、溝に、20人ほどの遺体が積み重なるように横たわっているのを発見した。昼になってウィリアム・ウォーカーが到着し、「セルビア警察とユーゴ軍」による残虐行為を憤る声明を発表した。

 だが、いくつかの疑問が残る。セルビア警官隊はどうやって一群の男達を集めることができたのか。KLAの銃撃が続くなかで、何の騒ぎも起こさずに処刑の場所に連れてきたのか。村のほとりにある溝が、どうして夜になる前にいた住民の目にとまらなかったのか。また、2時間以上も、この小さな村にいた監視団の目に、どうしてふれなかったのか。

 死体の周囲に落ちていた薬莢の数はなぜ、ああも少ないのか。23人の人が至近距離からの銃撃で頭部に多数被弾して殺された切通しの道に、なぜ血痕が少ないのか。これはむしろ、セルビア警官隊との銃撃戦で戦士したアルバニア系人の死体を集めてきて、虐殺現場に見せかけているのではないか。

 ユーゴ政府がOSCE検証団長に48時間以内の退去を要求した乱暴さと迅速さは、OSCE側の進めようとしていることをよく知っていたからではないのか。

以上。


Racak検証(11):『リベラシオン』(1999.1.22)記事
緊急:ユーゴ問題一括リンク
週刊『憎まれ愚痴』26号の目次