Racak(ラチャク)村「虐殺報道」検証(18)

ユーゴ戦争:報道批判特集 / コソボ Racak検証

待望の『ル・フィガロ』記事(前編)

1999.7.23

 1999.7.22.mail再録。

2000.1.3.追記。その後の訳出作業が中断となりましたが、前編で概略が理解できる内容でしたので、前編だけで終了とします。

 ラチャク村『虐殺』事件の疑惑報道では一番最初で一番長い『ル・フィガロ』記事は、すでに既報の諸般の事情で入手が遅れ、その間、各種情報が溢れたため、さらに訳出も遅れていましたが、やっと完成に至りました。以後、前編、中編、後編の3回に分けてお届けします。

前編(1999.1.20)

ラチャク村でほんとうに殺戮が行われたのか?

Kosovo: questions sur un massacre

Le Figaro 1999.1.20
ルノー・ジラール特派員

 ラチャク村で実際にはどんなことがあったのか。アルバニア系人とOSCEによれば、1月15日にセルビア治安部隊が45人の民間人を殺戮したというが、実際の攻勢の状況を目撃していた本紙特派員の報告は、この公式報告とは裏腹である。

●KLAは、セルビア軍の弾丸で殺された人々の遺体を集めて一芝居打ったのではないか? そうすることで、軍事的敗退を政治的勝利に作り変えたのではなかったか?

●検屍にあたったユーゴの医師団は、きのう「どの遺体にも処刑の痕跡は見られなかった」と証言している。

●いくつもの疑いが残り、信頼のおける国際的調査を行う以外に、この事件は解明できないだろう。

●欧州NATO軍最高司令官ウェズリー・クラーク将軍は、クラウス・ナウマン将軍を伴ってミロシェビッチ大統領と7時間にわたり会談したあと、ベオグラードを去ったが、ある外交官は「なんらの進展も達成できなかった」と認めている。

 事件の翌日、米国外交官のウィリアム・ウォーカーOSCEコソボ停戦検証団団長が、セルビア治安部隊を、40余人ものアルバニア系農民を処刑したと公式に非難したのは、性急ではなかったか?

 この問いは、気がかりないくつもの事実を考え合わせるなら、問うに値する。事態を理解するためには、事件を時系列的に追ってみる必要がある。

 1月15日金曜日の夜明け、セルビア警察部隊が、ラチャク村を包囲したのち、攻撃した。この村は、アルバニア系分離独立派ゲリラKLAの砦として知られていた。警察は、攻勢をかける8時間半も前から、テレビ局のクルー(AP TVの記者2名)を呼んで、この作戦を撮影させていたのだから、隠すべきことは何もなかった。OSCEもこの作戦については知らせを受けており、現場に米国外交団のプレートをつけた2台の車を送り込んでいた。これらの目撃者は、その日いちにち、村を見下ろす丘の上に陣取っていた。

 15時、プリシュティナに置かれた国際プレスセンターに、ラチャクでKLAの「テロリスト」15名が死亡し、大量の武器を押収したという警察の公式発表がもたらされた。

 15時30分、警察部隊は、AP TVチームを後に連れて、村を出た。このとき、部隊は、12.7ミリの重機関銃1挺、軽機関銃2挺、中国製カラシニコフ銃30挺を持ち去った。

 16時30分、一人のフランス人ジャーナリストが、車で村を通り、3台のOSCEのオレンジ色の車と出会った。彼らは、私服の年配のアルバニア系人3人と平静に会話をした。この3人は、民間人の負傷者がいないか調べに来たとのことだった。

 18時、村に戻ったジャーナリストは、検証団が、ごく軽傷の女性2人と老人2人を連れていくのを見た。検証団員は、あまり心配しているという風でもなく、ジャーナリストに何か特別なものを示すということは一切なかく、「戦闘の結果を把握するのは無理だ」と言っただけだった。

 溝の中に私服のアルバニア系人の遺体が一列に並ぶ光景が発見されて世界を驚倒させたのは、翌朝9時頃である。発見者は数人のジャーナリストで、そのあとOSCEの検証団がやってきた。そのころには、村は、武装したKLA兵士が入り込み、外国人が視察に到着するが早いか、いかにも殺戮現場に見えるいくつかの場所へと案内していた。昼頃、ウィリアム・ウォーカーその人が到着し、憤慨を表明した。

 アルバニア系人から得られた証言はすべて同じで、昼ごろに警察が無理やり家の中に押し込んできて、女と男を引き離し、男たちを高い丘の上に連行して、裁判ぬきで処刑したという内容だった。

 いちばん気がかりな点は、AP TVの証言と撮影した映像(昨日、本紙に掲載されたもの)が、アルバニア系人たちの証言と根本的に矛盾することだ。

 朝警察が塀沿いに進んで包囲した村は、空っぽだった。警察部隊が一斉射撃をしたのは、KLAが丘に掘られた塹壕から射撃をしかけてきたからである。

 村の付近では戦闘は倍も激しかった。下手にあたるモスクの脇に構えたAPの記者は、包囲されたKLAゲリラが必死で脱出しようとしていたのを見ている。警察側の証言によれば、約20人ほどのゲリラは脱出に成功したという。

 事実は何だろう。夜のうちに、KLAが、セルビア側の弾丸で死んだ人たちの遺体を集めておいて、冷血な処刑に見せかけたのだろうか。気がかりなのは、翌土曜日の朝、一見殺戮現場と見える溝のあたりで、ジャーナリストたちが、ごく少数の薬莢しか目にしていないことだ。

 KLAは、賢明にも、軍事的敗北を政治的勝利に作り変えてしまったのだろうか。信頼のおける国際的調査によるのでなければ、これらの疑念を晴らすことはできない。ベオグラード政府はつねに殺戮の事実を否定してきたが、その消極的な態度は、いよいよ不可解である。


以上で前編終り。次回の中編に続く。
(2000.1.3.追記:訳出作業中断、概略は前編だけで理解可能です。)


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