『湾岸報道に偽りあり』(55)

第三部:戦争を望んでいた「白い」悪魔

電網木村書店 Web無料公開 2001.7.1

第九章:報道されざる十年間の戦争準備 5

ヴェトナム戦争の教訓を生かす電撃作戦

「緊急展開軍」はすでに、イラクがクウェイトを侵攻する事態を予測した編制になっていた。聴聞会は、その事態に対抗する「必要条件」(REQUIREMENTS)の予算化を前提として開かれたのである。ではその際、なにが必要だと判断されていたのかというと、なかんずく……

「イラクは一九六一年にクウェイトへ越境しようと試みた。……ソ連は……イラクの二度目の計画を指導することがあり得る。想定される事態に最もよく目的を達成するためには、空軍の支援を受けた地上兵力が必要である。イラクの一〇個師団(四装甲師団、二機械師団、四歩兵師団)と二爆撃機、一二戦闘攻撃機隊に支援された二〇〇〇台近くの戦車隊は、米国の『ベストケース』の緊急戦力に十分対抗する戦力を持ちうる。イラクの総合戦力はどんな事態に対してもその第一日に展開できる一方、米国軍は空輸能力、海上輸送能力不足のため、少数ずつ逐次投入できるにすぎない」

 米軍の世界憲兵戦略で最大のネックは、この「少数ずつ逐次投入」がはらむ危険性である。ネックの基本的原因は、世界最大の物量を誇る大部隊を地球の反対側の国まで送り込むことにあるわけだから、克服は容易でない。第一次、第二次の世界大戦では途中からの参戦だし、イギリスに大部隊を集結してからヨーロッパ大陸に展開したために、このネックは回避できた。しかし、朝鮮戦争やヴェトナム戦争では、日本列島を不沈空母として使用したにもかかわらず、地続きで動員ができる相手側の「人海」作戦やゲリラ戦で散々な目に会った。

 この報告から十一年後、つまり、営々と増強を重ねた後に実行された湾岸戦争そのものに関しても、元自衛官で世界平和研究所研究員の西村繁樹が「米軍はなぜ圧勝したか」(『Voice 』91・5)という総括論文の副題を「イラクにもチャンスはあった!」とし、こう論じている。

「……純軍事的な見地から、イラク軍が米軍を破るチャンスはなかっただろうか。私はあったと思う。……米軍は、輸送の関係から、不利な、戦力の逐次投入をせざるを得なかったのである。これを各個撃破することは、クウェイトへ侵攻したイラク軍をもってすれば困難なことではなかったはずである。……米軍は冷や汗三斗の思いで守りについたと思われる」

 孫子は「故兵聞拙速、未睹巧之久也」(だから戦争には拙速はあっても、長期で巧みな例はまだ聞かない)とし、「兵之情主速」(戦争の実状は迅速が第一)と説いた。クラウゼヴィッツも作戦立案の大原則を集中と迅速に求め、特に、敵地に侵攻した際の長期化を戒めた。毛澤東の「長期持久戦論」は、この逆を突いた民衆ゲリラ戦方式である。普仏戦争に勝ったプロイセンの参謀総長モルトケは、電撃作戦の動員を成功させるために、あらかじめフランス国境に向かう鉄道を九本も敷いておいた。米帝国軍は、古今東西の基本戦略の土台となる総合戦力を、地球規模で準備しなければならなかったのだ。

 そこで一九七九年十二月以降、ブラウン国防長官は緊急展開軍の増強計画予算の請求を開始した。翌年の予算決定にいたるまで、上下両院の軍事・外交・予算の各委員会における国防総省関係の証言と提出報告の記録は、優に千ページを超える。

 本書では大筋にとどめざるを得ないが、第一次計画は一九八五年、第二次計画は一九九〇年に達成する方針だった。第一次計画達成段階で、緊急展開軍の基本戦力を一八八〇年現在の所要時間「数週間」の三分の一でペルシャ湾に展開できる。第二次計画達成で、地上戦闘部隊の基本部分が動員発令後十日以内に展開できる。

 繰り返すが、この第二次計画達成の期限はまさに、イラクがクウェイトに侵攻した湾岸危機発生の年、一九九〇年なのであった。ドイツや日本の駐留軍からの追加戦力も当初から予定されていた。 「緊急展開軍」(略称・RDF)のフルネームは「緊急展開統合機動軍」(Rapid Diproyment JointTask Forces )であって、基本となる方面軍を中心に、必要に応じて世界中から応援部隊を集結させるというグローバル戦略に立っていた。実際の動員結果を比較すると、民間の輸送手段に頼る部分が多少遅れただけで、ほぼ十年前の基本計画通りに進行したようである。古今東西の軍事理論を集大成したピーター・パレット編の大著『現代戦略思想の系譜』が、この間の一九八六年にプリンストン大学から刊行されているのも、国家的思想動員状況の一例である。ヴェトナム戦争の教訓は学問の段階でも生かされたといえよう。

 では、アメリカ「帝国軍」が十年もかけてこれだけの動員計画を準備していたことを、イラクは知らなかったのだろうか。おそらくソ連はある程度知っていたに違いない。ソ連の情報部が公開情報を入手していないとは思えない。だが第一に、ソ連がイラクに正確な情報を流していたかどうかという疑問がある。第二には、駐日イラク大使アルリファイが『アラブの論理』で述べているように、「イラク指導部」は「これほど大規模かつ無分別な破壊行為」が加えられるとは予想していなかったようだ。サダムも「あそこまでやるとは考えなかった」(『Bart』92・3・23)と語っている。

 一九九〇年九月十六日には、イラク爆撃計画の概略を同行記者にもらしたために、空軍参謀総長のデューガン大将が即刻解任されるという事件もあった。攻撃計画の細部は、当然、秘密にされていたのだ。

 中央軍が増強された十年間の大半は、「力強いアメリカの再現」を叫ぶレーガン大統領時代だった。ボブ・ウッドワードは『ヴェール/CIAの極秘戦略 1981-1987』の終わりに近い部分で、レーガン時代の大物CIA長官ケーシーについて、こう書いている。

「最小限度の従順と最小限度の開示というケーシーの法律についての哲学はレーガンの外交政策に深く浸透している。ケーシーの究極の望みは、かつて自ら私に語った通り、アメリカは『これができる』のだと立証することである。『これ』とは絶えて明かされることのない完璧な秘密工作を意味している。一つにはOSS時代への郷愁もあるだろう。が、一方で、それは彼の強烈な意思表示である。 『アメリカは、その気でやればきっと勝つ』ケーシーはひとりよがりに側近に言ったことがある」

 ケーシーの「ひとりよがり」は、果たして単なる「夢」だったのだろうか。それとも、長らくかかわってきた「完璧な秘密工作」を、つい匂わせたくなったものだろうか。

 ボブ・ウッドワードは次の作品『司令官たち』で、「海軍大尉としてペンタゴンで働いた」自らの経験をも語り、軍首脳から直接取材している。だが、その真相追及には、「最小限度の開示」の一例としての議事録が活用されていない。これでは、ただのリーク取材でしかない。「完璧」さを欠く 「秘密工作」でも成功疑いなしにしてしまうだろう。

 ただし、いかに「完璧な秘密工作」といえども、それ自体の力で戦争に勝利できるわけではない。本体の軍事計画があってはじめて、「謀略」による戦争挑発は効果をあげ得るものである。両者は密接に結びついている。本体をより明確に把握し、分析することによって、CIAの「秘密工作」の持つ意味は、さらにより鮮明に浮かび上がるのである。


(56) 「シュワルツコフ報告」とCIA=クウェイト「密約」