『湾岸報道に偽りあり』(58)

隠された十数年来の米軍事計画に迫る

電網木村書店 Web無料公開 2001.7.1

補章:ストップ・ザ・「極右」イスラエル 1

一九四七年国連決議パレスチナ分割地図の欠落報道

 本章でまず指摘するのは、残念ながら、イスラエル問題をめぐる日本の欠陥報道であるが、その基本的原因はやはり、以下一ページほどで要約したような、厳密な歴史感覚の欠如にある。

 湾岸戦争は、いささか歪んだ形式とはいえ、一九四八年以来、四次まで戦われた中東戦争の引き続きという要素を含んでいた。キャンプ・デービット会談によるエジプトの裏切りによって、アラブ諸国こぞっての戦争体制は崩れていた。湾岸戦争はその状況下、一九八六年以来、占領下のパレスチナで継続されていたインティファーダに呼応していた。湾岸戦争後に中東全体の和平会談が開かれるに至ったのは、決して偶然ではない。

 中東戦争を全体として見る必要もあるだろう。中東戦争は、欧米列強、特に、中東におけるイギリスの権益を相続し始めたアメリカが、イスラエルを後押しして行なった帝国主義的代理戦争であった。原因となったイスラエルの建国自体も、その基本的性格は「満州国」と同じであり、帝国主義的な侵略行為の「先兵」に他ならない。ヨーロッパにおけるユダヤ教徒への迫害は、事実であり動機の一つであったにしても、実際には侵略を正当化するための絶好の口実として使われたのであり、そこにも誇大で歪曲された謀略宣伝が潜んでいた。また、少なくとも現地で先祖伝来の土地を追われたアラブ人は、ナチス・ドイツなどによるユダヤ教徒迫害とは、まったく関係がないのである。

 湾岸戦争は、中東戦争の性格を引き継ぐものであったが、イスラエルは参戦せず、身元引受け人のアメリカが直接乗り出した。そして、戦勝国という立場のアメリカが、中東和平会談の主催者となったのだ。ソ連の陪席は、後に述べるように、ヤルタ会談体制でイスラエルの建国に賛成した過去の責任の、尻拭いをすることでもなければならなかった。だが、そういうソ連自身の自覚も周囲からの責任追及も、まったく見受けられなかった。

 中東和平会談は一九九一年十月三十日、マドリードで開幕した。十一月二日までの三日間が全体会議、十一月三日からイスラエルとヨルダン・パレスチナ、シリア、レバノンのそれぞれと、三つの個別交渉(二国間直接交渉)が始まるという段取りである。

 湾岸戦争報道のピークとは較べようもないが、日本国内の報道はやはり鳴り物入りのキャンペイン型だった。私の新聞記事切り抜きファイルは、この会談報道の前後だけでたっぷり一冊分になった。

 ところが、この中東和平会談の「大量」報道には決定的な欠陥があった。決して、アメリカ国防総省などの報道規制によるものではない。「マスコミ・ブラックアウト」の典型である。

 第一の問題は、この中東和平交渉の最大かつ根本的争点、パレスチナ分割の歴史と現状に関する報道姿勢の誤りである。

 問題点を要約すると、パレスチナ分割の領土問題をめぐる歴史的経過説明の欠落である。はなはだしいのは、発端の一九四七年国連パレスチナ分割決議による分割地図すら載せなかったり、説明が間違っている欠陥報道であった。根底には、アメリカ側ないしはイスラエル側寄りの垂れ流し報道姿勢が潜んでおり、その源流には、ニューヨーク・タイムズを典型として、ユダヤ・ロビー支配で知られるアメリカの大手メディア報道がある。そう断言して差し支えない。

 パレスチナ人の議会に当たるパレスチナ民族評議会(PNC)は、一九八八年十一月に「一九四七年の国連パレスチナ分割決議」(一八一号。以下、四七年決議)にもとづいてパレスチナ国家の独立を宣言している。この独立宣言は同時に裏を返せば、イスラエルの方の建国を認めたことにもなっている。アラブ側は最初、この四七年決議に絶対反対で、以後四十一年間、イスラエルの国家としての存在を認めず戦い続けていた。だからこれは大変な歴史的譲歩なのである。アラブ側は「苦汁を飲む」歴史的決意をしたわけである。しかし、以後はいささかも譲ってはいない。つまり、パレスチナ側の領土に関する権利主張は、まず、四七年決議の分割地図によって示され、なおかつ、その問題点が説明されなければならない。そうでなければ、なぜ以後四十四年にもおよぶ悲惨な戦いが続いたのかが、およそ理解できないであろう。

 ところがこの一九八八年の独立宣言の報道も論評も、紹介したすべての大手メディア報道例で、ほぼ完全に欠落していた。NHKの『ニュース21』(91・10・30)は、四七年決議の分割地図と一九八八年に独立宣言をした評議会の映像を流したが、年代を追う手法だったこともあってか、まったく別々に映し出しており、この両者の関係の説明は欠けていた。

 四七年決議そのものの歴史的評価も、やはり、まったく論評されなかった。四七年決議の票決は湾岸戦争とよく似た構造で、ヤルタ会談体制で東欧などでの利権を取り引したソ連がアメリカに同調している。しかし、当時はヨーロッパにマーシャル・プランなどの復興計画を展開中の超々黒字国家のアメリカが、軍事・経済援助をエサに強引な根回しを繰り広げたにもかかわらず、賛成三三、反対一三(全アラブ諸国を含む)、棄権一〇(それまでの委任統治国イギリスを含む)という結果だった。確かに過半数ではあるが、重要事項の決定では世間常識の線といえる三分の二にも達していない。

 しかも、現地のパレスチナ人はもとより、利害関係の当事者であるアラブ諸国のすべてが、戦争を決意するほど強い反対の意思を表明していたのである。

 分割案それ自体の作られ方にも重大な問題があった。当時の人口比率では約三分の一、それまでには国土の七%しか所有していなかったイスラエル側に、約五六・四%の土地を与える計算になっていた。アラブ国家に四二・八八%、エルサレム国際地帯に〇・六五%である。将来の移住計画もにらんでいたのであろうが、特に、ヨルダン川の水利を押える狙いと、地中海からアラビア湾に抜ける回廊を確保するという、スエズ運河制圧の意図が露骨に現われていた。アラブ側のパレスチナ国家は、なんともむちゃくちゃなことに、三分割される結果となるが、これをアラブ全体の立場から見ると、アラブ民族の歴史的世界が陸地の真中で完全に分断されることでもあった。

 以後の歴史的経過は、この分割地図の狙いどおりに展開したといってもよいだろう。この分割地図は、アラブ民族の大同団結を阻害し、結果として不可能にした最大の原因なのである。それ自体が大がかりな国際謀略だったのである。

 パレスチナ側がそう単純な気持ちでアメリカの提案に乗ったのではないことは、次のような記事の断片からも簡単に判断できる。

「我々は、パレスチナ解放機構(PLO)が国連安保理決議二四二、三三八号に基づく和平イニシアチブを打ち出し、四八年にイスラエルとパレスチナという二つの国家を生み出した決議一八一号に基づくパレスチナ独立を宣言する中、八八年十一月のパレスチナ民族評議会(PNC)で想像できない跳躍を遂げた」(シャフ・パレスチナ代表演説要旨、『読売』91・11・1)

「我々は、イスラエルの建国は一九四七年十一月二十九日の国連決議一八一にもとづくことを承知している。ヨルダンがイスラエルに占領地からの撤退を要求しているのは、これら一連の決議に準拠している」(ヨルダン外相演説要旨、『朝日』91・11・1)

 ともに「要旨」報道だから、確実なニュアンスを汲み取るのはむずかしい。だが、先に述べたような歴史的経過とパレスチナ側の基本的主張は、一応要約されている。ただし、これらの記事の断片の意味は、四七年国連決議のパレスチナ分割地図を脳裏に描くことなしには、ほとんど理解できないであろう。

 和平会談の開催に当たって、その一方の主役であるはずのパレスチナ側の意向を確かめるのは、普通の生活人ならば常識中の常識的手順である。仲介人面をしているアメリカの意図も、大いに疑ってみなければならない。それなのに、アメリカの当局発表や、ユダヤ・ロビー支配を否定すべくもないアメリカの大手メディアの報道をなぞるままでは、自ら報道操作のアリ地獄に入り込むようなものではないか。

 こういう「現実路線」報道は、すでに戦前の日本の実例にもとづいて、理論的には十分に「反省」がなされたはずのものである。だが、基本構造が同じままの日本の大手メディアは、他の圧力が加わらないかぎり、同じ軌跡をたどるしかない。湾岸戦争報道で「反省」した「陸軍報道班」型の誤りは、その後もまったく改善されていないというべきであろう。

 特にこの際、ユダヤ・ロビー式言論操作には、二重三重の仕掛けと歴史的積み重ねがあるから、ますます危険なのである。


(59) 「良心的」番組にもユダヤ・ロビー宣伝が侵入