『湾岸報道に偽りあり』(25)

第二部:「報道」なのか「隠蔽」なのか

電網木村書店 Web無料公開 2001.3.1

第五章:イラク「悪魔化」宣伝の虚実 1

クウェイト「領有」の歴史的経過と評価

 日本の大手マスコミ企業による湾岸戦争報道の典型的な見解は、サダムを「ヒットラー」とし、クウェイト侵攻を「真珠湾攻撃」にたとえ、クウェイト「革命政府」から「併合」にいたる過程を「満州国」と同じカイライ政権とするものだった。

 しかし、歴史的経過はそんなに単純なものではないし、粗雑な類型化はかえって真相を見失わせる。「ヒットラー」化は、すでに『イスラム報道』の記述で紹介したとおり、イランのホメイニ師に投げつけられ、それ以前にはスエズ運河国有化を宣言したナセルにも加えられたアメリカ式「悪魔化」攻撃であり、CIAプロパガンダだといっても差し支えない。

 すでにいくつかの論評がなされているが、ヒットラーが支配権を握ったドイツは、当時の日本とともに本物の世界的軍事帝国であり、最新兵器の製造および輸出国だった。イラクは、石油の輸出という特別収入がなければ、武器の輸入すらできない遅れた農業国である。人口も約一千七百万人で、まったくドイツとは較べものにならない。軍事力の過大評価に関しても、すでに大方の論評が出尽くしているので、これは省略する。

「真珠湾」と「満州国」を持ち出す類型化には、日本人としての自らの過去の侵略戦争への反省が込められている。その点は評価するとしても、やはり、歴史的事実の誤認または無知、論理の飛躍がはなはだしいといわなければならない。

 湾岸戦争の論評で、私が、いちばん簡にして要を得ていると思ったのは、開戦直後の堀田善衛の談話、「『歴史』と『非歴史』が戦っている~この戦争の意味」(『朝日ジャーナル』91・2・1)であった。

 戦後の混乱期のベストセラー、堀田善衛著『広場の孤独』は、日中混血児を主人公とするタイムリーな構想もあって、当時の日本人に、今では日常語の「アイデンティティ」とか、対等な民族意識の問題を突きつけた。今また日本人が問われていることは、たとえば、アラブなりイスラム文化圏なりの人々の歴史的アイデンティティを、どう受け止めるかなのである。堀田はこう語っている。

「第二次世界大戦後の秩序を正統なものとして、イラクは制裁を受けています。しかし、国際的に独立国として認められている主権国家を侵略するのはけしからん、という論理は非常に新しいものであって、『歴史』になっていないのではないか。この論理は、オスマントルコの後裔たちには適用できないのではないか。そういう意味で、私にはこの戦争は『歴史』と『非歴史』の戦いであるように見えます」

「歴史」と「非歴史」という堀田の表現は、あくまでも文学的なものだが、要は、「国連」=「フィクション」により「国際的に独立国として認められている主権国家」クウェイトへの疑問であり、 「現代の歴史家は、歴史を大局的に分析して見せることを放棄しているようにみえます」という主張である。

「真珠湾」と「満州国」への類型化の誤りは、この「大局的」な分析以前の問題である。当たり前のことを確認しておくと、真珠湾は、もともとハワイ王国の領土というべきだろうが、当時はともかくアメリカに帰属していたのであり、かつて一度も日本の領土であったことも、日本と同じ国に属していたこともない。満州もやはり、旧清国の支配民族発祥地という位置こそあれ、当時の中国の一部であった。もちろん、日本の領土であったことも、日本と同じ国に属していたこともない。

 日本は、どう理屈をつけようが、だれの目にも明らかな他国の領土である「真珠湾」を攻撃した。日本は「満州国」というカイライ国家を作ったが、その国土に対しても住民に対しても、完全なよそ者であった。

 ところが、中東の歴史をいささかでもかじっていればすぐにわかることだが、イギリスによる保護条約以前には、クウェイトが独立していたことも、バグダッド周辺のチグリス・ユーフラテス文明圏と別の国に属していたことも、まったくないといってもいいのである。少し表現をぼかしたのは、ペルシャ湾貿易の拠点だったファイラカ島を除けば、クウェイトの領域全体が不毛の砂漠で、住民もほとんどおらず、だれもが「領有」を力説するほどの土地ではなかったし、公海もしくは領海と似たような空間だったからである。詳しい歴史書には主要な各年代の「歴史地図」が描かれているが、クウェイトの辺りは、いつの時代もバグダッド周辺と同じ色で塗られている。住民は長い間の混血を経ているが、アラブ時代の民族形成によって同一民族となっている。クウェイトの憲法自体が、「クウェイトの人民はアラブ国民の一部をなす」と規定しているのである。

「侵略」イコール「民族自決権の侵害」という主張も見受けられた。「民族自決権」という用語は、第一次大戦後の国際利権争いをにらんでアメリカのウィルソン大統領が使い出した言葉として有名なのだから、最初から建前と本音の食い違いがある。だが、その建前からいえば、第二次大戦後もアラブ民族の自決権を侵害し続けてきたのは、イギリスやアメリカである。特にイギリスが、中東分断政策の継続として、アラブ諸国、特にイラクの強い反対にもかかわらず、クウェイトの独立を強行したのである。クウェイトと「満州国」を対比するのならば、クウェイトがイギリスの保護下に組み入れられた時期以降を「満州国」とし、サバハ家の「カイライ」性をこそ問題にするのが正しい比較方法である。

 植民地化直前のオスマン・トルコ支配の下で、クウェイトがイラクと同じバスラ州に属していたことは、だれしも否定していない。ところが、「その歴史を持ち出してイラクが主権を主張するのなら、今度はトルコが出てくる」という屁理屈を並べる論者もいた。だがトルコ帝国の特徴は、それ以前に確立していたアラブ社会の単位をそのまま二重支配した点にある。アラブ帝国以来の国教であり法律でもあるイスラムの教えが、強力な社会の枠組みを築いていた。イラク地方はまた、バグダッドを首都としてアラブ中興の繁栄の極に達したアッバス朝の中心地であった。以後、セルジューク・トルコ、モンゴル系のチムール帝国、オスマン・トルコと、異民族の支配下に入ったものの、文化的宗教的にはそれらの蛮族を同化してしまったのである。しかもバグダッドは遺跡ではない。日本の京都のように、いやそれ以上に、以後も継続した中心的都市であったし、しかも今なおイラクの首都として生き続けているのだ。

 バグダッドを首都とし続け、しかもアラブ民族の統一国家という夢を抱き続けてきたイラク国民すべてにとって、クウェイトは、「イギリスに奪われたカイライ国家(中国人にとっての満州国)の延長」であり、奪い返して統合すべき対象だったのである。これは別に、サダムが自分の個人的欲望の都合で、急ごしらえにこじつけ始めた屁理屈なんかではない。

 クウェイト問題は日本でいえば、沖縄諸島がアメリカの占領下にあった時期に、巨大な石油資源の存在が発見されたようなものだ。アメリカが石油を確保するために、かつての琉球王家の子孫を探し出して王国を復活し、独立させたとする。当然、日本人は怒って抗議し、「沖縄を返せ」と連呼しただろう。だが、つい百年前の明治政府による一方的な「琉球処分」以前には、沖縄は一応は独立した琉球王国で、薩摩藩に従属しながらも、同時に中国からも支配下にあると見なされていた。日本と沖縄の関係は、イラクとクウェイトの関係よりも、はるかに時代的に浅いのである。

 北方領土の関係では、ハボマイで石油が発見されたためにソ連が居直り、代々村長を出していたシコタン家の当主を首長にして独立させたら、どうなるだろうか。日本人は、シコタン一族を堕落した裏切り者として、絶対に許さないだろう。だが、あの四つの島の領有権がロシアとの間で最初に協定されたのも、つい一世紀前のことでしかない。

 残る問題は、国連とかアラブ連盟とかの「承認」であるが、この歴史はさらに無残な軌跡を描いている。


(26) 独立の陰にCIA暗躍の血ぬられた歴史