『湾岸報道に偽りあり』(29)

第二部:「報道」なのか「隠蔽」なのか

電網木村書店 Web無料公開 2001.3.1

第五章:イラク「悪魔化」宣伝の虚実 5

OPEC結成以来のアメリカの対中東戦略

 このように、イラン・イラク戦争の発端においても、石油価格の決定に関するOPECの主導権が重要な意義を持っていた。よほどの昔話ならいざ知らず、宗教上の争いは上部構造であって、やはり、経済という下部構造が戦争の決定的な動機なのである。

 湾岸戦争も同様であった。アメリカを中心とする多国籍メジャーは、OPECの主導権に対してここ二〇年、歯がみし続けてきた。メジャーの長期的な巻き返し戦略を見抜くことなしには、湾岸戦争がなんだったのかは到底理解できない。OPECとメジャーの攻防の歴史は、それだけで何冊もの大著をなすほどの複雑怪奇な物語である。だから、本書の範囲で要約するのは困難である。ただ、イラクがOPECで要の位置を占め続けていたことと、最も反欧米的だったという点だけは、強調しておきたい。

 OPECの結成は一九六〇年九月であり、結成メンバーは、イラン、イラク、クウェイト、サウジアラビア、ヴェネスエラの五ヵ国であった。そのときイラクは、親英派のカイライ王政を倒したばかりのカセム民族政権の下にあった。クウェイトは独立前であった。反欧米的要素を表面化したOPEC加盟国は、イラクだけであった。翌一九六一年のクウェイト独立から一九六三年のイラクでの軍事クーデターにいたる経過は、すでに紹介したところである。OPECの結成と石油国有化方針が、カセムの命取りであった。

 カセム打倒のCIAクーデターは、OPECつぶしでもあった。その証拠に、OPECは結成以後一九七〇年までの一〇年間、ほとんど成果を挙げることはできなかった。

 だが、一九六八年にはイラクでバース党の巻き返しクーデターが成功し、アル・バクル=サダム・フセイン政権が樹立された。倒した相手の軍事政権は、CIAの援助によってカセムを殺害し、バース党や共産党を排除した親米政権の継続であった。つまり、それを倒したバース党主体の政権の方が、民族派で反米的な立場だったのである。このような歴史的経過を踏まえて見ると、イラクの軍事独裁政権は、アメリカの石油マフィアとCIAの謀略が生み出した「鬼っ子」だと理解すべきであり、生みの親のアメリカにはそれを非難する権利はない。

 一九六九年には、リビアでカダフィがカイライ王政を倒した。リビアは一九六〇年代から石油の産出を始め、この時期には世界最大の石油輸出国となっていた。リビアも当然、OPECの主要メンバーとなった。

 一九七一年のOPEC総会は、外国資本の石油会社に対する五一%資本参加要求を決議した。翌一九七二年、イラクは先頭を切って石油国有化に踏み切ったが、メジャーの不買同盟により販路を断たれて困窮した。政権ナンバー2のサダムは国家計画委員会の議長などの立場で、これらの国家計画の先頭に立ち、「イラク石油」を支配する英・米・仏・蘭の四ヵ国資本を相手取り、難局を切り抜けた。世界第五位の埋蔵量といわれるルメイラ油田の開発は、サダムの指揮の下でソ連の協力により、イラク人技術者を養成しながら成功を収めたのである。OPECの資本参加要求は、その後一〇〇%に発展する。販路にも石油産出国が進出した。このようなOPECの血みどろの戦いの歴史の中心に、イラクという共和国と、その石油産業の発展に異常ともいえる精力を傾けたサダム・フセインがいたのである。このことの意義が湾岸戦争のマスコミ論評では、ほとんど無視されていたといってよい。イラクとサダム・フセインは、イラン・イラク戦争という特殊な時期を除けば、西側のメジャーにとって最も憎むべき宿敵に他ならなかった。だから、イラン・イラク戦争が終わってしまえば、ただちに「悪魔化」の対象とされ、始末される運命にあったのである。

 一九七三年には「石油武器論」が登場し、現実に対イスラエル戦略として行使された。第四次中東戦争に当たってOAPEC(アラブ石油輸出機構)は一九七三年十月十七日、(1)第三次中東戦争による占領地域からのイスラエルの完全撤退、(2)パレスチナ人の権利回復、の二つの要求を掲げて、敵対的なアメリカとオランダへの全面石油禁輸、非友好国への供給制限という「石油戦略」を発動した。これにOPECの大幅な価格引き上げが加わり、「オイル・ショック」という世界を揺るがす事態となった。OPECの主力をなすアラブ諸国が石油価格を武器として操作すれば、国際的な大変動を生み出せることが、衝撃的に示されたのだ。

 この時期にもアメリカの武力による威嚇はあったが、戦争にまでは至らなかった。だがやはり、血は流れた。

 OPECの主要メンバーとしてヤマニ石油相に大活躍をさせ、アラブ諸国寄りの姿勢を強めていたサウジアラビアのファイサル王が、一九七五年三月に暗殺されたのである。その場で捕えられた犯人は王の甥であったが、犯人の兄ハリドは王位継承者の皇太子だった。ハリドは王となり、犯人の弟は公開の場で処刑された。だが、その理由はまことに奇妙ものだった。暗殺は「精神錯乱者による単独犯行」というのが、当局の発表だった。だから、本来、犯人は「精神錯乱」の病人として、罪を問われることなく保護されなければならない。ところが、「犯行当時は正常だった」として処刑されたのである。当然ながら、「犯人の口封じ」という憶測が世界中に流れた。ソ連は「メジャーの背後のアメリカ帝国主義」を示唆し、アメリカは「リビアもしくはパレスチナ急進派」を示唆した。犯人の殺意の原因としては、もう一人の兄がかつて反政府運動のデモに加わった際、ファイサル王の警官隊に殺されたことによるという説もあるが、それなら正気の確信犯である。

 だが、この事件には、奇妙な事実経過がある。まず犯人は、サウジアラビア人でありながら、なぜか、新任のあいさつに訪れたクウェイト石油相の一行に加わって、ファイサル王の宮殿の会見室に入ったのである。次に重要なのは、事件の結果である。ハリド王以後のサウジアラビアは、急速にアメリカ寄りになったのである。


(30) 「アラブの大義」=「リンケージ」の歴史的脈絡