子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
981008 暴行殺人 2000.9.10. 2001.7.11 2002.1.17 2002.4.1 2002.6.22 2003.3.13 2003.11.29 2004.12.11 2009.3.3更新
1998/10/8 茨城県牛久市で、牛久市立第一中学校の岡崎哲(さとし)くん(中3・14)が、学校近くの林道で同級生のH少年(中3・15)に殴打されて意識不明、収容先の病院で死亡。
経 緯
(調査や裁判の証言で明らかになったものを含む)
経緯について、哲くんの両親が調べたり裁判の証言で出てきたものと、加害者のH少年や同行した少年たち、教師らの証言の食い違いが多いため、ここに両方を列挙する。(S.TAKEDA)
哲くん(原告)側の調査・証言 H少年・教師ら(被告)側の証言
小学校時代、地元で同じサッカークラブに入っており(後にHはサッカーをやめて野球へ)、仲はよかった。2年生の時に哲くんとHは同じクラスだった。
しかし、Hくんのほうから、自分が辛いから、担任に哲くんとは違うクラスにしてほしいと要望。3年時は別々のクラスになった。
2人が仲が悪かったという話は聞いたことがない。
(事件後、哲くんがHくんをいじめてサッカーチームから追い出したと噂)
3年の学年主任が、3年3組に問題のある生徒を集め、海外赴任から帰ってきたばかりで事情の知らない教諭に担任をやらせたと、岡崎さんと弁護士に話す。 裁判の証言で、学年主任は左内容を否定。
3年3組に問題のある生徒を集めた事実はないと証言。
哲くんの同級生Sくんが、Hくんと同クラスの女子生徒のことを「ムカつく」と言ったことから、Hくんと哲くんのクラスメイトが仲違い。(けんかをするなら、HくんとSくんだと周囲は思っていた)教師や友人らは、「二人は対立していたという関係にはなかった」と証言。
10/8 事件当日の昼頃、Hくんは女子生徒Bさんに、「今日、けんかをする」と言っているのを他の女子生徒が聞いていた。 (竜ヶ崎署の発表を元に一部の新聞で、「岡崎君は以前から少年にけんかをしないかと持ちかけていたが、少年は相手にしなかった。8日も学校内で岡崎君が少年に『けんかができないんだろう』と挑発」と報じられる。)
帰りの会の前にトイレのところで、哲くんとHくんは口論。哲くんはHくんに足蹴にされるが、やりかえさなかった。居合わせた教師は、哲くんのみを咎めた。(生徒の証言) 教師は哲くんの姿は目撃したが、Hくんのことは見なかったと証言。
放課後、Hくんは1人だけジャージに着替えていた。
放課後、哲くんは、Hくんとその仲間の計5、6人に連れられて、学校近くの林道に行った。哲くんは、いつも一緒に帰る仲間と、「一緒に帰ろう」という合図として、昇降口にカバンを置いたままついて行った。何人かは自転車に乗っていた 仲の良いHくんと一緒に帰ろうと思って、徒歩でついていった。
近所の住民が、「4、5人の制服を着た生徒が現場の林奥に自転車で入っていった後、数人の中学生が『そっちへ行ったぞ』などと声をあげながら、林の中でだれかを追っていた」と証言。(警察はこの証言を不採用) Hくんの仲間の少年たち4人は、哲くんとHくんとが話している間、現場まで行かず、林道に入る手前(約150メートル)の離れたところで待っていた。
(後に司法解剖した筑波大の鑑定で、「死因は右下腹部や肝臓の下などに強い外力が加わったことによる『神経性ショック死』」で、「顔の傷の一部は『表面の粗い鈍体』で生じた」と判定。)
哲くんの手足には殴ったり、防御した跡もなかった。
哲くんが殴ったので、カッとして殴り返した。(最初は蹴ったりしたことも認めていたが、のちに殴っただけと供述を変えた)結果、哲くんは地面に倒れて(顔の傷はその時にできた)動かなくなった。(後に検察側の再鑑定で、「暴行を受けて死んだのではなく、もともと重い心臓病をもっており、喧嘩時に興奮したために『ストレス心筋症』で死亡した」と判断)
同行していた少年たちは、Hくんに呼ばれて行ってみると哲くんが倒れていた。近所のひとに電話を借りて、学校に連絡。救急車を呼んだ。
救急車のサイレンの音を聞いて、Bさんは、「私のせいだ」と泣き喚いていた。(証言では、「忘れた」「覚えていない」)
SくんとBさんが、「事件は自分たちが原因かもしれない」と教師に話したが、口止めされた。
Hくんは、たいへんな興奮状態だった。現場についた教師は生徒たちに、「自宅に帰って待機しているよう」指示。詳しい事情などは何も聞かなかった。

警察の対応 死因その他について警察・病院から何も説明はなく、警察からは、「棺はどうするか?自分たちで用意するのか?」と聞かれたのみ。加害少年との関係など、事件の背景となるようなことは一切、聞かれなかった。

竜ヶ崎署が、H少年とその仲間の生徒から事情聴取した結果、
「この日ささいな(女子生徒に告げ口をしたとHは哲くんから非難された)ことでもめ、岡崎くんから「今日、放課後やるからな」と言われたことから、放課後に校舎の玄関で会い、現場に向かった。岡崎くんは『ここでいいだろう』と体育館わきで言ったが、Hに誘導されて現場まで行った。その2人の後をHの仲間がついていった」と話した。

このことから警察は、「一対一の素手によるケンカ」と発表。遺族にも「素手で顔を殴られた」とのみ説明。「死因だけでも教えてほしい」との遺族の要請を、「専門知識がないと誤解される」として拒否。鑑定結果が出てからも顔の傷について「倒れて路面で打った」と説明。

10/14 竜ヶ崎署は両親を呼んで、「1対1の素手のけんかだ。わかるだろう。どうしてわからないんだ」と繰り返し、まるで被疑者を取り調べするような扱いをし、調書への署名・押印を求めた。しかし、両親が「事実関係が明らかになっていない。『警察などの対応に不信感をもつ』の一文を入れてほしいと主張。担当者が記入しなかったため、署名を拒否。
(この時の両親の態度を「捜査報告書」には、「興奮気味であった」「大声を出して署名押印をせず退席したものである」などと書かれていた。)

その後も遺族の問い合わせに対して(死因の鑑定結果が出る前に)「捜査は終わった」と回答していた。
警察の対応 10/10 竜ヶ崎署が事件2日後に水戸地検土浦支部あてに作成した「少年事件送致書」には、「被疑者は(中略)過去非行歴は無く学校における生活態度も特に目立つところはない。家庭においては両親健在で観護能力がある。本件犯行は被害者から執拗に喧嘩をしようと挑発された結果の事件で、その結果は死亡という余りにも重大であるが、父兄が警察官という環境もあり今後少年の立ち直りが十分に期待できる」という「犯罪の情状等に関する意見」が添付されていた。
報 道 竜ヶ崎署の発表に基づいて、「岡崎くんが『けんかをやらないか』と挑発した」「凶器を使わず数分殴り合っただけ」「二人は以前から仲が悪く、絶えず口論するなど対立していた」「ショック死の可能性は否定できないが、死因は不明」と一部の新聞が報道。
「岡崎君は以前から少年にけんかをしないかと持ちかけていたが、少年は相手にしなかった。8日も学校内で岡崎君が少年に『けんかができないんだろう』と挑発」などという続報を出した新聞もあった。
警察の対応 1999/2/9 両親が茨城県警に対して、「捜査は極めて不十分で真相を解明していない」と正式に抗議し再調査を要求。

1999/3/2 茨城県警が両親に、
(1)捜査内容の説明が不十分だった 
(2)両親から調書をとるときの態度が悪かった 
(3)岡崎くんのほうが挑発したように誤解される発表をした、
と正式に謝罪。

一方で、「これまでの捜査と矛盾しない」として、死因については、哲くんの体質的因子が影響したとする鑑定結果を支持し、「ストレス心筋症による心臓死」と結論づけた。

中学校でとった「全く異常が認められない心電図」や、血尿と思われる血が付着した下着やズボン存在を無視警察は証拠として鑑定医に提出しなかった茨城県警が、血尿が付着したブリーフを証拠として水戸家裁土浦支部に提出したのは、事件の半年後、再捜査がはじまってからだった。
背 景 牛久市には多数の警察関係者が住み、地元の人には別名『警察村』と呼ばれている。被害者の自宅の回りだけでも4〜5軒の警察関係者が住んでいる。
調 査
(遺体検案書)
1998/10/8 救急搬送された総合病院の救急外来の医師が遺体の「検案書」を作成。「(死因は)外傷性くも膜下出血(の)疑い」と記載。救急用のカルテや死体検案書に何故か、すでに、「1対1のけんからしい」と記載があった。
(鑑定1) 1998/10/9 同署に司法解剖を委嘱された筑波大の三澤章吾氏の司法鑑定で、「死因は右下腹部や肝臓の下などに強い外力が加わったことによる『神経性ショック死』」で、「顔の傷の一部は『表面の粗い鈍体』で生じた」ことが明らかになる。
(鑑定2) 1998/12 両親がカルテや死亡診断書をもとに、東京医科歯科大学の支倉逸人(はせくらはやと)教授に鑑定を依頼。
無抵抗の状態で硬い鈍体で殴られたと推定される。一対一の素手の殴り合いのみでは生じない傷」と断定。
(鑑定1の補足説明) 1999/1/25 筑波大学の解剖医が、
(1)致命傷は右下腹部に受けた相当な外圧によるショック死で、立ったままでの殴る蹴るではできない 
(2)顔の傷の一部は表面が粗い鈍器のような物で生じた(素手ではできない) 
(3)被害者の手・腕・足には相手を殴ったり、蹴ったり、また防御した痕跡すらない
と説明。
(鑑定3) 水戸家裁土浦支部が帝京大学の石山c(いくお)教授に依頼した「再鑑定」(解剖時に残され、ホルマリン液に保存されていた心臓を使用)では、「暴行を受けて死んだのではなく、もともと重い心臓病をもっており、喧嘩時に興奮したために『ストレス心筋症』で死亡した」となっている。(現代医学はストレス心筋症を人間の症例として認めていない)
「以前に、死に至らぬ程度の軽症のストレス心筋症が何回も繰り返していた」と鑑定。
この鑑定結果を検察は採用。
関 連 2002/6/19 傷害致死事件で執行猶予付きの有罪判決を受けた女性が、「誤った鑑定」により一審で実刑判決を受けたとして、1100万円の損害賠償を求めて、石山c夫(いくお)帝京大学名誉教授らを東京地裁に提訴。
1999年、女性が夫の胸をナイフで刺して死なせた事件で、石山c夫(いくお)帝京大学名誉教授は、「体当たりしながら強く刺した」と鑑定。一審で女性は実刑判決。しかし、控訴審の東京高裁は、女性側が依頼した別の鑑定医の、夫が受けた傷は「もつれあった結果、ナイフが突き刺さってできた」ものとの新たな鑑定結果を採用し、女性に執行猶予付きの判決を言い渡した。(2002/6/20 朝日新聞)
調 査
目撃証言
近所の住民が、「4、5人の制服を着た生徒が現場の林奥に自転車で入っていった後、数人の中学生が声をあげながら、林の中でだれかを追っていた。その後、5分もしないうちに現場に岡崎くんが倒れていた」と証言。(竜ヶ崎警察は、この人の調書を残していない
現場は、鉄パイプや金属片など凶器になるようなものが、あちこちに落ちているような場所だった。
学校・ほかの対応 事件当日、家族が病院に駆けつけると、学年主任から「哲くんは、一対一の素手での殴り合いのけんかで、相手はHくんです」と告げられた。事件について何も調査されていない段階での説明に、家族は不信感を抱く。

教頭をはじめ病院に来ていた約10名の教師に、遺体の傷を見せて、「これが素手で殴ってできる傷ですか」と問いただすが、「一対一の素手によるけんかです」とのみ回答。「学校で何があったのか、どうしてこのようなことになったのか」という問いには沈黙。

その夜、遺族は学校に行き、今後の対応について説明を求めるが、いきなり賠償金の話が出たので、遺族が「そんなことを言っているのではない」と言うと、教頭は「私の首でもとりますか」と開き直ったような発言をした。

一部教師を除いて反応は冷たく、何を聞いても「わからない」と回答。
お通夜にはサッカー部の顧問教師1人のみ出席。告別式には学校からは誰も出席しなかった。担任の女性教師も、三七日に一度遺族宅を訪問したのみで、他の教師たちも同じ。

ある教師から、「女子生徒にそそのかされてHが岡崎くんをやった」との話しも聞く。
しかし、学校側は全て警察にまかせてあるとして、一切、調査を行わない。


学校側が現場に設置した線香たては、現場に捨てられていた錆び付いたペンキの缶だった。

校長は後日、地区懇談会で「さんざん迷惑をかけられた」と発言。
(誹謗・中傷) 4月に赴任してきたばかりで、岡崎くんのことをほとんど知らない教頭が、警察官に対して「自己中心的で気が短い。本当の友だちはいなかった」など、根拠もなく被害者を侮辱し、警察官の子どもである加害者を擁護する発言をしていた。
事故報告書 学校が教育委員会に提出する「事故報告書」を見せて欲しいと、遺族が再三頼むが、個人情報が入っていることを理由に拒否。事件発生から2ヶ月以上たってから、県教育委員会より、校長あてに直接電話をしてもらって初めて見せてもらうが、いくつか事実とは異なる記載があった。
学校・ほかの対応 卒業式について遺族に連絡なし。「卒業式に出たい」「卒業証書はもらえるのか」の電話に、「考えてもいなかった」と回答。遺族は結局、子どもたちや保護者の動揺を考慮して、出席を断念。
子どもたちの「一緒に卒業したい」「花と写真を飾りたい」との声に、「担任が写真を持って座るから」と遺族にも子どもたちにも約束しながら、式には岡崎くんの席も写真も花もなく、名前も呼ばれなかった。

(3/31 教頭・校長が突然、離任の挨拶に遺族宅を来訪したにもかかわらず)学校側は卒業アルバムを“ゆうパック”で送る。

PTAからの記念品については何も連絡がなく、1999/7/30に遺族が取りに行くまで学校に放置されていた。記念品のうち、お赤飯については、「その時のままが良いと思いましたので」というコメントがつけられ、カチカチに冷凍された赤飯が手渡された。
加害者 H少年は野球部に所属していたが、哲くんの父親にサッカーを習っていたこともあり、哲くんとはもともと仲がよかった。市内の中学対抗の運動会では2人は同校代表のリレー選手として出場し、その記念に運動ぐつを交換したりしていた。

事件当時、H少年の父親は警視庁の現役の警察官。兄は茨城県警の警察官だった。


H少年は傷害致死の容疑で逮捕されたが、少年審判が開始(1998/11/19)される一週間以上前に少年鑑別所を出所。事件から約2ヶ月後の冬休み前から登校。(「人を殺してもこんなに早く学校にこれるものなのか」と子どもたちが不安を口にしていたという)

1999/3 中学を卒業後、都内の高校に進学を決め、家族とともに都内に引っ越す。
引っ越しに際して、事件の時に現場にいたH少年の仲間の少年の自宅で、手伝いにきた警察関係者とともに盛大なパーティーをした。

事件直後に父親から焼香にいきたいという電話が一本あった(当時、事件のショックから母親が入院したりしていたので遺族が断った)だけで、
加害少年や家族からの謝罪等は一切なし。手紙のひとつもない。

2002/3 写真週刊誌「フライデー」の訪問取材(ジャーナリスト・須賀康氏)に対してH少年は、「(哲くんの自宅には事件後)一度も行ってはいません」「この3月に高校を卒業しました。就職も決まり、4月から働きます」と答えた。裁判のことを聞かれて父親に電話。電話口で父親は「なんなんだっ、どういうことなんだっ。こっちからそっちの会社に電話するから」「なにが聞きたいんだっ!どういう意味だぁ」と怒鳴って切ったという。
家裁の対応 警察から、「捜査は終了した。家裁にすべてを送付した」と告げられたため、事件直後より、両親が独自に調べた資料を家裁(水戸地裁土浦支部)に送り続けたが、家裁からは一切の連絡なし。一方で、加害者の父が地域の人に、「岡崎さんの家は、あんなもうろくした老人を証人に呼んで、大丈夫なのかね?」と話しているとの噂から、両親が送った資料はそっくり加害者側に開示されていたことが判明。

家裁調査官との面接が2回。
第1回目、両親が遺影を持っていき、「この子が被害者の岡崎哲です。見て下さい!」と言うが、調査官たちは横を向き、両親には「それがどうした」という態度に思えた。第2回目は、約束の時間をかなり過ぎて長時間待たされたあげくの面接で、「本日は我が子が風邪をひいて学校を休んでいるので、早く帰らねばならない。これで失礼する」と切り上げられて、何も伝えることができなかった。
少年審判と加害者の処分 1998/11/19 少年審判開始。
H少年は、
「一対一の素手によるけんかで、(哲くんの)お腹は暴行していない」と供述。

1999/8/25 異例の10カ月以上の審判を経て、少年を保護観察処分に決定。
遺族はマスコミからの問い合わせで、初めてこのことを知る。審判結果は、マスコミにはファックスで通知がなされるが、被害者遺族には一切の連絡がない。

決定では、けんかの態様について、
1.顔の傷は岡崎くんが砂利道に倒れ込んだ際に生じた
2.関係者の供述から、同級生(H)は級友を路上で待たせ、2人でけんかした
3.級友らが口裏を合わせる時間的余裕はなかった
と結論
づけた。

死因について家裁は、県警鑑定とは別に独自に鑑定人(帝京大学の石山■(いく)夫教授)を選定して死因鑑定を行った結果、「体質、けんかの際の興奮状態、同級生の暴行が起因した、心筋の壊死性変化(ストレス心筋症)」(鑑定3)と認定。さらに「自らの行為が被害者の死亡につなかったことを深く反省している」「少年は現在、高校生として平穏な生活を送っており、警察官である父と主婦である母の監護能力にも問題ない」と保護観察にした理由を説明した。
誹謗・中傷 地域で告別式の翌日から、「被害者遺族も賛同している」「和解をしている」等のコメントがついた加害少年への「減刑嘆願書」が周り、5000名余りの署名が集められる。

哲くんに対して、万引き、恐喝の常習犯などと、実像とは全くかけ離れた噂が飛び交う。
また、遺族が病院で暴れ回り窓ガラスを壊した(後日、病院長は、マスコミの取材に対して、このような事実はなかったと証言)、女性教師の髪を掴み引っ張り回したなど、事実無根の噂が流れる。
被害者 複数の生徒が、「校内でもめた際、岡崎くんは相手の生徒から蹴られたが、やり返さなかった」「けんかになっても哲は絶対に手を出さなかった」、「岡崎くんとけんかになったとき、ぼくは岡崎くんを殴ってしまったが、あいつは絶対に暴力はふるわなかった」「岡崎くんは日頃、『俺は友だちを殴れない。殴ったら仲直りできなくなるから』と言っていた」と言う。

以前からクラスの中でいじめがあると、体をはって止めに入ったりしていたと多数の同級生が証言。
1年生の時には学校から「正義感賞」を贈られている。2年生の時には、学級委員長を務めた。


哲くんは小学校から地元のサッカースポーツ少年団に所属して活躍。6年生でキャプテンを務める。また、中学校でもサッカー部の部活動で2年から3年の引退までキャプテンを務め、茨城県南部選抜にも選ばれた実力の持ち主。将来はJリーガーを目指していた。
人望もあり、明るく優しい性格だったと子どもたちが追悼文集に書いている。

事件当日の2時間目、道徳の授業の感想文のなかで、「両親にとっては僕の誕生はこの上ない喜びだったろう。自分の命を大切にして生きていきたいです」と書いていた。


哲くんはスポーツ少年で健康体。中学入学時にとった心電図には全く異常はみられなかった。
その後 生前の哲くんのことを知る子どもの親を中心に、「岡崎哲君事件の真実を知る会」が結成される。

遺族は、裁判を闘うことと同時並行して、子どもたちが二度と誰も殺さない、殺させない、同じ悲しみを繰り返さないための活動に取り組む。

哲くんの死後、牛久一中は子どもたちが授業妨害をするなど荒れた。
裁 判 第一次訴訟【加害者とその両親に対する裁判】2000/3/2提訴

心電図や血尿がついた下着など、遺族が主張した重要な証拠は一切採用されず、加害者の言い分のみが通っている。どのような暴行を加えたのか「犯行態様」と、何が直接原因で亡くなったのか「死因」が主な争点。「息子がどうして死んだのか、親として真実を知りたい」と、「知る権利」を求めて、非公開の少年審判のあり方に一石を投じる。
第一次訴訟の争点 少年審判で検察側が認定した「ストレス心筋症」(持病による突然死)という哲くんの死因をめぐって、原告側はブリーフについた血尿の鑑定結果を証拠に、「暴行死」を主張。

被告側は下着に付いた血を「(血尿ではなく)救急処置をする時に、カテーテルをいれるために切った際に付いた血であると主張。

独協医科大学教室の徳留省悟医師らが、検査の結果、哲くんのブリーフとズボンから尿と血液が検出されたという内容の報告書を作成、提出。(治療の際ではなく、身につけていた状態で、腹への暴力で内臓破裂し、死亡した際に血尿として流れたという原告側の主張を裏付ける有力な証拠となった)


2001/9/5 法廷で上野正彦医学博士(元東京都監察医務院長)が、ズボンと下着に血尿や遺体の写真から「腹部を強く蹴られたための神経性ショック死」と証言。暴行態様も、お腹を殴られるか蹴られるかして前かがみになり、起きあがろうとしたところを腹を蹴られて倒れた。その時に血尿が出た」と解説。me010419 参照)
第一次訴訟
判決
2002/3/27 東京地裁で片山良広裁判長は、被告(加害者少年とその両親)に対して、約5600万円(請求は1億)の支払いを命じた。

判決では「腹膜にリンゴ大の鬱血があることから、被告少年のけっして軽度とはいえない打撃に相当の因果関係がある」として、哲くんの遺体を解剖した三澤医師や法廷で証言した上野医師が診断を下した「神経性ショック死」と認められた

事実認定に対しては、他に目撃者がいないことを理由に、「一対一のけんか」であり、被害者が一方的にやられたという証拠はないとした。

そして、「哲くんが、特に理由もないのに加害者にけんかをしようと持ちかけた」として、2割の過失相殺を行った。(もっとも、H少年についても、放課後にわざわざジャージに着替えており、「今日、けんかをする」と公言しており、けんかをする気満々であったと認定している)

「わたしの雑記帳」 2002/3/28付 参照)
第一次訴訟の
控訴審 1
(高裁)
2002/4/ 加害少年とその両親が、一審判決を不服として控訴。
原告側の強い要望にも、被告少年を法廷に証人として呼ばない。

2003/11/10 東京高裁で、久保内卓亜裁判長は一審の内容を変更し、控訴人は原告各人(父母)に2024万円の支払い命令。過失相殺は4割5分(加害少年5.5、哲くん4.5)
第一次訴訟の
控訴審 2
(最高裁)
2004/11/1 最高裁第2小法廷(津野修裁判長)は、一度も法廷で審議することなく、両親側の上告を棄却。2審判決が確定。
裁 判 第二次訴訟【国・県に対する裁判】2000/3/9提訴

「身内の事件潰し」のため、「一対一の素手による喧嘩」という図式が最初からできあがっていた。「不当捜査で被害者が悪いようにわい曲された」として国(水戸地検土浦支部)と茨城県(茨城県警)を相手に計1000万円の損害賠償を請求。警察及び検察捜査のあり方を問う。
証人尋問 2004/5/7 水戸地裁は、加害少年(すでに成人)を証人として、東京の法廷で尋問することを決定する(非公開を予定)が、少年側が出廷を拒否。
第二次訴訟
判決
2007/9/26 水戸地裁で棄却判決。
裁 判 第三次/訴訟【学校設置者である牛久市に対する裁判】

学校側は卒業式、地区懇談会などで、「今回の事故(事件)を風化させないように」と言っているが、事件の真相を調べようともせず、知っている事実を遺族に教えようともせず、全く誠意を感じられない。学校の安全配慮義務違反と、校長・教頭・教師らの遺族への不当な対応を提訴。
第三次訴訟
判決
2002/5/15 水戸地裁土浦支部で棄却判決。 (「岡崎哲くん殴打死事件一審判決」 参照)

原告(遺族)が訴えていた5つの点、全てについて棄却。
1.ひとりの生徒が死亡するという重大な事件に対して、学校の安全配慮義務違反を問う
2.事件に関する事実調査を怠った怠慢
3.学校が様々な事実を知りながら、遺族に情報を開示せず隠匿したことで与えられた遺族の苦痛
4.教頭その他がマスコミその他にウソの情報を流し、被害者の印象を悪くしたことに対する、侮辱と名誉毀損
5.教頭が警察に対して殊更、被害者の否定的な面ばかりを供述したことへの名誉毀損
など全てにおいて、証拠などにより、その主張が認められないとした。
第三次訴訟 2002/5/27 原告の岡崎さん側が本人訴訟で控訴。
2002/9/30 東京高裁 民事第22部 石川善則裁判長が全面棄却判決。

2009/2/25 東京高裁 大坪丘裁判長 棄却判決。記者会見資料参照
サイト内リンク 上申書 
me001111 me001120 me010115 me010228 me010419 me010420 me010626 me010905 me011004 me011017 me011115 me011129 
me020117 me020131 me020328 me020410 me020515 me020902 me020931 me021008
me030313 me030602 me030607 me030625 me030801 me030925 me031008 me031022 me040502 me060525 
me080130 me080401 me081124 me081222 第5準備書面、第6準備書面 記者会見資料
       
参考資料 1999/2/4毎日新聞(夕)、2/9毎日新聞(・夕)、2/10毎日新聞、2/17毎日新聞(夕)、2/24毎日新聞、3/21毎日新聞、1999/2/5常陽新聞、子どもの最新データ・マガジン「月刊子ども論」1999年6月号/クレヨンハウス、199/8/26毎日新聞、2000/3/10茨城新聞、3/11読売新聞(茨城)、「岡崎哲君事件の真実を知る会」支援ニュース、サンデー毎日/2000.4.23、「to the boy 少年犯罪被害者への旅」/三田正明 取材・写真/TITLE 2001年5月号、「フライデー」2002.4.5号/須賀康/講談社原告)裁判準備資料、遺族からの手紙、裁判の傍聴、



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  いじめ・恐喝・リンチなど生徒間事件  子どもに関する事件・事故 1
  教師と生徒に関する事件  子どもに関する事件・事故 2
  熱中症・プール事故など学校災害  子どもに関する事件・事故 3


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