わたしの雑記帳

2001/6/26 岡崎哲(さとし)くんの裁判。少年たちの証人尋問。


岡崎さんの裁判のうち、牛久市と牛久市立牛久第一中学校に対する裁判(=第三次訴訟)の傍聴に、水戸地裁土浦支部へ行ってきた。5月22日の事件当時中学生であった3人の子どもたち(現、高校生)に続き、2人の男子生徒の証人尋問が行われた。
前回の内容は、岡崎さんからの通信で多少、内容が把握できていたものの、今日の尋問のなかで、ようやく全体像が見えてきた気がした。

少し早めについた待合室で岡崎さん夫妻とお話した。前回、遺影の持ち込みを禁じられたことに対して、抗議の電話を裁判所に入れたという。今は、だいぶ被害者遺族の気持ちを汲み取って、遺影の持ち込みが許可されるようになったと聞いていたが、証言するのが少年ということもあり、心理的な負担をかけないようにとの裁判所のお達しで、実現できなかったという。そして、抗議の電話は思わぬ展開に。前回、証人に立ったひとりの親から、なぜ子どもが裁判所に引き出されなければいけないのかと、2時間にもわたる抗議の電話があったとかで、裁判所はそれを一生懸命に説得してくれたという。最後は、ありがとうございますという形で受話器を置いたとか。

私たちが話している横を数人が通り抜けていった。岡崎くんのお父さんが、かつてサッカーのコーチをした子どもとその親が素知らぬ顔で通り過ぎていく。事件の際、最も近くにいた証人として来てもらうことさえ、恨みに思われてしまうという。全く見知らぬ子どもたちやその親ならいざ知らず、かつては面倒をみたり、共に楽しい時間を過ごした親や子が、今はまるで敵同士になってしまうやりきれなさが、自嘲気味の遺族の笑いにみられた。事件当初、母親は事件に関わった子どもや親に会うたびに震えてしまって、正視することができなかったという。裁判を起こした今は、相手の視線が敵意に満ちたものであったとしても、きちんと見据えることができる。そうやって遺族は強くなっていく。強くならなければやっていけない試練をいくつもくぐり抜けてきている。そして、それを支えるひとの輪もできている。岡崎くんの後輩の少年が、今日も両親と一緒に駆けつけてくれていた。「岡崎先輩はやさしいひとだった」その一言が、どれほど遺族の慰めになったことだろう。

今回申請していた証人は3人。一番、肝心の加害少年からは出廷を拒否されたという。第三次訴訟は学校の責任を問う裁判であって、直接の被告ではないために、未成年者がこれを拒否した場合、無理強いすることはできないという。
一方、証人として出廷した子どもたちには、遺族から交通費と日当が支払われるきまりがあるという。

最初の証人はTくん。
いつも加害者のHくんと行動を共にしていたうちのひとり。Hくんと誰かが争いになっているという噂はあったが、その相手が誰だかは知らないという。
事件当日、これから喧嘩をするという話は聞いていない。ただ、Hくんはなぜか放課後になってジャージに着替えていたという。
原告弁護士の「ジャージに着替えているのは変だとは思いませんでした?」の問いには、「制服より動きやすいから」と答え、「喧嘩をする準備だと思いましたか?」の問いに、「ふつうに考えるならそう」と答えた。また、喧嘩をするのは前々から決まっていたみたいだとも答えた。
そして、いつもHくんと一緒に帰っているからという理由で、その日も、前を行く岡崎くんとHくんの後をついていったという。喧嘩を応援するつもりはなかったが、いつもHくんと一緒に行動する同クラスの4人がついて行っている。
そして、自分たちは離れて待っていたので、喧嘩の現場は見ていないという。最初にHくんがNくんを呼んで、どのくらいたってからかはまるっきり覚えていないが、そのあと何か言っているので行ってみたら、岡崎くんが仰向けに倒れていたという。Hくんの口元は怪我をしていたが、岡崎くんの側には寄っていないので、どういう状態かはわからない。しかし、岡崎くんがたいへんだということで、Tくんが近所に電話を借りに行って、学校に電話をかけた。そして、駆けつけた教師は、その日は事情を聞くことなく、家で待機しているように言ったという。

ここまでの話が、Tくんの口からすらすらと出てきたわけではない。ほとんどの質問に、「わからない」「覚えていない」と答えている。前回の証人たちも同じだったという。
それはけっして、2年半という月日による忘却ではないだろう。
いくつかの裁判で、原告側の証人に立った子どもたちの言葉を聞いた。彼らは、同級生が死んだときのことを何年たっても、忘れられるはずがないと言った。
今日の子どもたちの質問に対する答えは、いかにも最初から用意されていた。そして時折、思わぬ質問には、ぽろり、ぽろりと本音が出てしまう。うっかり言ってしまったすぐあとに、具体的なことを突っ込まれると、一切、覚えていないという。何か少しでも思い出したことを話してほしいと言われても、何も思い出さないという。覚えていることと、覚えていないことの落差があまりに激しい。

そして、もう一人の証人のYくん。彼は現場にはいなかった。Hくんからカバンを預かって、自転車でHくんの自宅の前に置きに行って、その足で塾へ行ったという。
ここでも、思わぬ証言が飛び出した。誰もが、その日だけYくんはHくんのカバンを預かって帰ったのかと思っていたが、毎日、途中までグループと一緒に帰って、そこからYくんだけ自転車で塾に行くという理由で、Hくんのカバンを預かって家まで届けていたという。そして、塾に行くのに時間がないので、家の玄関の中には入らずに、外に置いておくのが日課だという。そんなことが、3年生になってからずっと続いていたという。
その理由を聞かれて、Hくんがカバンを持つのが面倒だと言ったからだと答えた。しかし、命令されたわけではなく、いやだとは思わなかったと答えている。自分だけ自転車だから、塾へ行く途中だからと言った。(後で、岡崎さんに聞いたところ、Yくんの自宅は確かにHくんの家の向こうにあるが、塾はまるで別方向にあるという。)塾に行くのに時間がないにもかかわらず、わざわざHくんの家に寄って、カバンを届けていた。こういうことをさせられる人間のことをふつう、子どもたちは「パシリ」と呼んでいる。
そして、事件のあった日、Hくんは帰りの会の前にクラスで、「喧嘩をする」と言っていたとYくんは証言した。多くの人間、クラスの半分くらいがそのことを聞いているのではないかと言った。
Yくんも、Tくんと同じく、「わからない」「覚えていない」をひんぱんに繰り返したが、2人の証言は微妙にずれている。

前回の3人と合わせて計5人の子どもたちの証言を合わせていくと、今まで見えてこなかったいろいろなことが見えてきた。
まず、Hくんと対立していたのは、岡崎くんではなく岡崎くんと同じクラスのSくん(前回、証人として出廷)だったということ。SくんがHくんと同じクラスの女子生徒Mさん(前回、証人として出廷)のことを「ムカつく」と言っていて、そのことでHくんと夏頃から仲違いしていたらしいということ。
岡崎くんとHくんはとくには仲は悪くなかったという。みんなが、喧嘩をするなら相手はSくんのはずだと思っていたが、なぜか当日の相手は岡崎くんであったという。しかも、その理由を誰もHくんから聞いていないという。
そして、警察発表や報道では、岡崎くんのほうから喧嘩をしようと言い出したことになっているが岡崎くんは当日、制服のままで、Hくん一人が動きやすいジャージに着替え、しかも、これから喧嘩をすると意気をあげている。当日、理科室でHくんはMさんに「喧嘩になるかもしれない」と話していた。
一緒に現場までぞろぞろついて行ったのは、当事者の2人を含めて6人で、岡崎くん一人に対して、残る5人は常に行動を共にしている仲間であったこと。
病院に付き添った教師は、岡崎くんの家族に「一対一のけんかが原因」と説明したが、その時点では一緒にいた生徒たちはまだ教師から事情を聞かれていなかったということ。

裁判をしなければ見えてこなかったこと、警察の調書とは異なる証言が次々と出てくる。
証人尋問のなかで、若さゆえに隠しきれない本音がぽろぽろ出てくるのは、証人尋問を傍聴した甲斐があった。そして、字面からだけでは見えてこない、その場の雰囲気というものもある。私の側からはよく表情が見えなかったが、一人の少年は証言の間もなぜかニヤついていたという。遺族の視線に気付いて、あわてて表情を引き締めたという。

単なる証人としてではなく、Hくんに加勢したのではないかと遺族に見られていることに、少年たちの保護者は憤っているという。前述のSくんも、当初はいろいろ話してくれていたそうだが、裁判となって、親のほうが先に態度を硬化させたという。

本当に何もやましいことがないのなら、むしろ裁判ではっきりしたほうが、子どもたちのためになるのではないか。やましくないのなら、見たことをありのまま、語ればいいだけのことで、元々敵対関係にはなかった親しくしていた仲なのだから、それこそ率先して情報提供してくれてもよいのではいか。見たことを見たとも言えない、聞いたことを聞いたと言えない子どもたちの心に傷は残らないのだろうか。それとも、共に過ごした仲間の死をなんとも思わないほど感覚がマヒしてしまっているのだろうか。

そして、裁判官はこれらの証言を果たして、どう判断するのだろう。自らも積極的に子どもたちに質問をしていた裁判官の姿勢に、少し明るいものを感じたのは私の素人判断だろうか。

次回は、進行協議のため傍聴はできないが、第三次訴訟では今後、学校の教師たちが証人尋問される予定だ。かつて同じ生徒だった。死んだほうを切り捨て、生きているほうを擁護する学校、教師たち。
本当に生徒のためを思うなら、遺族との間を取り持って、加害者にはきちんと謝罪をさせて二度と同じ過ちを生徒本人もそして学校も繰り返さないようにするのが教育というものだろう。しかし、現実には自分たちの保身とメンツしかない。遺族はこんな学校に、社会に子どもは殺されたと思う。
法廷という舞台のなかで、ひとは様々な演技をする。目の前に繰り広げられるのはまさにドラマだ。
何を演じようとしているのかで、そのひとの姿勢がわかる。どうも正義のヒーローよりも、悪役ばかりが登場する。子どもたちまでもが、ロッキード裁判での政治家たちを演じようとしているように見える。

今回、土浦に行ってみて、改めて距離を感じる。土浦から上野まで、1時間に1〜2本の特急で42分。普通で70分。遺族とその支援者たちは、東京での裁判のたびにプラスアルファの距離を往復している。これだけに限ってさえ、時間的にも経済的にも負担は大きい。物心両面で、目に見えない負担がどれだけあるだろうと思う。

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