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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

「死刑囚表現展」の13年間を振り返って


『創』2017年12月号掲載

「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」が運営する「死刑囚表現展」は今年で13回目を迎えた。始めたのは2005年。その前年に、東京拘置所に在監する確定死刑囚、大道寺将司氏の母親・幸子さんが亡くなった。遺された一定額の預金があった。近親者および親しい付き合いのあった人びとが集い、使い道を考えた。筆者もそのひとりである。幸子さんは、息子が逮捕されて以降の後半生(それは、54歳から83歳までの歳月だった)の時間の多くを、死刑制度廃止という目的のために費やした。

息子たちが行なったいわゆる「連続企業爆破」事件、とりわけ1974年8月30日の三菱重工ビル前に設置した爆弾が、死者8名・重軽傷者385名を出したことは、もちろん、彼女の胸に重く圧し掛かっていた。本人たちが意図せずして生じさせてしまったこの重苦しい結果が彼女の頭を離れることはなかったが、息子たちは、マスメディアがいうような「狂気の爆弾魔」ではないという確信が揺ぐことはなかった。この確信を支えとして、彼女は「罪と償い」の問題に拘りつつ、同時に死刑廃止活動への関わりを徐々に深めていった。息子以外の死刑囚とも、面会・文通・差し入れ・裁判傍聴などを通して、交流した。人前で話すことなど、およそ想像もつかない内気な人柄だったが、乞われるとどこへでも出かけて、息子たちが起こした事件とその結果に対する自らの思いを話すようになった。死刑囚のなかには、自らが犯した事件・犯罪について内省を深め、罪の償いを考えているひとが多いこと、また、国家の名の下に命を最終的に絶たれる死刑事件においても冤罪の場合があることなどを彼女は知った。

幸子さんは、晩年の30年間を、獄外における死刑廃止運動の欠くことのできない担い手のひとりとして、死刑囚と共に「生きて、償う」道を模索した。この辺りの経緯は、幸子さんへの直接の取材が大きな支えとなっているノンフィクション作品、松下竜一の『狼煙を見よ――東アジア反日武装戦線“狼”部隊』(初出「文藝」1986年冬号、河出書房新社。現在は、単行本も同社刊)に詳しい。

彼女の遺産の使い道を検討した私たちは、そのような彼女の晩年を知っていた。遺されたお金は、「死刑廃止」という目標のために使うのが彼女の思いにもっとも叶った道だろうという結論はすぐに生まれた。さて、どのように使おうか。討論の結果、次のように決まった。

死刑囚の多くは、判決内容に異議をもち再審請求を希望する場合でも、経済的に困窮していて、それが叶わないこともある。一人ひとりにとってはささやかな額ではあろうが、「基金」は一定の金額を希望者に提供し、再審請求のための補助金として使ってもらうことにした。毎年、5人前後の人びとの弁護人の手にそれは渡っている。

もうひとつは、死刑囚表現展を開催することである。死刑囚は、多くの場合、外部の人びとと接触する機会を失うか、ごく限られたものになるしか、ない。「凶悪な」事件を引き起こして死刑囚となる人とは、身内ですら連絡を絶つこともある。ひとは、自分が死刑囚になるとか、その身内になるとかの可能性を思うことは、ほとんどないだろう。だが、振り返れば、死刑囚がなした表現に深い思いを抱いたり衝撃を覚えたりした経験を、ひとはそれぞれにもっているのではないか。永山則夫氏の自己史と文学、永田洋子および坂口弘両氏が著した連合赤軍事件に関わる証言や短歌、苦闘の末に冤罪を晴らした免田栄氏や赤堀政夫氏の証言、そして、いまなお冤罪を晴らすための闘いの渦中にある袴田巌氏の獄中書簡やドキュメンタリ―映画、当基金の当事者である大道寺将司氏の書簡と俳句など、実例は次々と浮かぶ。世界的に考えても、すべてが死刑囚ではないが、マルキ・ド・サド、ドストエフスキー、金芝河、金大中、ネルソン・マンデラなど、時空を超えて思いつくままに挙げてみても、獄中にあって「死」に直面しながらなした表現を、私たちはそれぞれの時代のもっとも切実で、先鋭なものとして受け止めてきたことを知るだろう。それらに共感を寄せるにせよ批判的に読むにせよ、同時代や後世の人びとのこころに迫るものが、そこには確実に存在している。

日本では、死刑制度の実態が厚いヴェールに覆われているにもかかわらず、死刑を「是」とする暗黙の「国民的な合意」があると信じられている。刑罰の「妥当性」とは別に、死刑囚といえども有する基本的な人権や表現の自由についての認識は低い。「罪と罰」「犯罪と償い」をめぐっては冷静な議論が必要だが、「死刑囚の人権をいうなら、殺されたひとの人権はどうなるのだ」という感情論が突出してしまうのが、日本社会の現状だ。死刑囚が、フィクション、ノンフィクション、詩、俳句、短歌、漫画、絵画、イラスト、書など多様な形で、自らの内面を表現する機会があれば、そのような社会の現状に一石を投じることになるだろう。死刑囚にとって、それは、徹底した隔離の中で人間としての社会性を奪われてしまわないための根拠とできるかもしれない。

そのような考えから表現展を実施することにしたが、死刑囚の表現に対してきちんと応答するために、作品の選考会を開くこととして、次の方々に選考委員をお願いした。加賀乙彦氏(作家)、池田浩士氏(ドイツ文学者)、川村湊氏(文芸評論家)、北川フラム氏(アートディレクター)、坂上香氏(映像作家)。基金の運営会からは私・太田昌国(評論家)が加わった。第7回目を迎えた2011年には、ゲスト審査員として香山リカ氏(精神科医)を迎えたが、香山さんにはその後常任の選考委員をお願いして現在に至っている。

「死刑囚表現展」と銘打つ以上、応募資格を持つのは、当然にも死刑囚のみである。この企画が発足した2005年ころの死刑囚の数は、確定者と未決者(地裁か高裁かで死刑判決を受けているが、最高裁での最終判決はこれからの人)合わせて百人程度だった。それから12年を経た昨今では、125人から130人くらいになっている。このうち、表現展に作品を応募する人は、平均15%から20%くらいの人たちである。

例年の流れは、以下のとおりである。7月末応募締め切り。文字作品はすべてをコピーして、選考委員に送る。その厚みはだいたい30センチほどになるのが普通だ。9月選考会。絵画作品はその場で見て、討議して選考する。10月には「死刑廃止集会」という公開の場で、改めて講評を行なう。

「基金」のお金は、参加賞や各賞の形で応募者に送られる。「賞」の名称(名づけ)には、いつも苦労する。「優秀賞、努力賞、持続賞、技能賞、敢闘賞」などはありふれているが、獄中にありながら現代的な言葉遣いに長けた人には「新波賞」(文字通り、「ニュー・ウェーブ」の意味である)が、また周囲の雑音に惑わされず独自の道を歩む人には「独歩賞」とか「オンリー・ワン賞」が与えられた。肯定・否定の論議が激しかった作品には、「賛否両論賞」が授与されたこともある。この「賞金」がどのように使われているかは、外部の私たちは、詳しくは知る由もない。少なからぬ人びとが、来年度の応募用のボールペン、色鉛筆、原稿用紙、ノート、封筒、切手などの購入に充てているようだ。お金に困らない死刑囚など存在しているはずはないし、物品制限も厳しい中で、なにかしらの糧になっているならば、「基金」の趣旨に叶うことだ。

応募者には、選考会での各委員の発言内容をすべて記録した冊子が送られる。公開の講評会の様子も、死刑廃止のための「フォーラム90」の機関誌に掲載されるので、それが差し入れられる死刑囚のみならず、希望するだれの目にも触れる。これは、精神的な交流を、一方通行にせずに相互交通的なものにするうえで大事なことであると痛感している。選考委員の率直な批判の言葉に、応募者が憤激したり、反論してきたりすることも、ときどき起こる。ユーモアや諧謔をもって応答する応募者もいる。常連の応募者の場合には、明らかに、前年度の作品への選考委員の批評を読み込んで次回作に生かしたと思われる場合も見られる。

この13年間に触れてきた膨大な作品群を通して考えるところを、以下に記しておきたい。自らが犯してしまった出来事を、俳句・短歌などの短詩型やノンフィクションの長編で表現する作品が目立つ。前者の場合、短い字数ゆえに、本人の心境をごまかしての表現などはそもそもあり得ないもののようだ。自己批評的な作品は、ずっしりと心に残る。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり  (響野湾子)

振り捨てて埋めて忘れた悲しみを思い出させる裁判記録 (石川恵子)

一読後、その人が辿ってきた半生がくっきりと見えたような感じがして、ドキリとする作品も散見される。作品の「質」を離れた訴求力をもって、こころに呼びかけてくる作品群である。

父無し子祖母の子として育てらる吊るされて逝きて母と会えるや (畠山鐵男)

弟の出所まで残8年お互い元気で生きて会いたし        (後藤良次)

両親を知らずして育ち、高齢を迎えたいま、獄中に死刑囚としてあること。2人、3人の兄弟が全員刑務所に入っていること――そんなことを読み取ることができる表現に、掲句に限らず、ときどき出会う。ここからは、経済的な意味合いだけには還元できない現代社会の「底辺」に澱のように沈殿している何事かを感受せざるを得ない。ひとが残酷な事件を犯すに至る過程には、社会的な生成根拠があろう。貧困、無知、自分が取るに足らぬ存在と蔑まされること、社会全体の中での孤独感、根っことなるものをことごとく引き抜かれていること――それらすべてが、一人の人間の中に凝縮して現われた時に、人間はどうなり得るか。永山則夫氏の前半生は、まさにそのことを明かしている。同時に、永山氏は自らが犯した過ちを自覚したこと、それがなぜ生まれたかについて「個人と社会」の両面から深く追求する表現を獲得しえたこと、それが書物となって印税が生じたとき、自らが殺めた犠牲者の遺族に、そして最後には「貧しいペルーの、路上で働く子どもたち」に金子を託すという形で、彼独自の方法で「償い」を果たそうとしたこと――などが想起されてよいだろう。

ノンフィクションの長編で自らの犯罪に触れた作品からも,時に同じことが読み取れる。同時に、「凶悪な犯罪」というものは、たいがい、絵に描いたように「計画的に」行なわれるものではないようだ、ということにも気づかされる。作品が真偽そのものをどこまで表現し得ているかという問題は残る。だが、文章そのものから、物語の展開方法から、事実が語られているか、ごまかしがあるかは、分かるように思う。その前提に立てば、実際の犯行に至る過程のどこかで、複数の人物の「偶然の」出会いがなかったり、車や犯行用具が一つでも欠けていたりしたならば、ここまでの「凶行」は起こらなかったのではないか、と思われる場合が多い。逆の方向から言えば、「偶然」の出会いに見えるすべての要素が、たがが外れて合体してしまうと、あとは歯止めが利かなくなるということでもある。その過程を思い起こして綴る死刑囚の表現からは、ひたすらに深い悔いと哀しみが感じられる。

問題は、さらにある。被疑者は逮捕後に警察・検察による取り調べを受ける訳だが、死刑囚が書くノンフィクション作品においては、その取り調べ状況や調書の作り方への不満が充満しているということである。冤罪事件の実相に触れたことがある人は、取り調べ側がいかに恣意的に物語を作り上げるものであるかを知っておられよう。「物語」とは、ここでは、「犯行様態」である。捜査側の思い込みに基づいて、現場の状況と数少ない証拠品に合わせるように「自白」を誘導する手口も、犯人をでっち上げることで初動捜査の失敗を覆い隠すやり口も、根本的にご法度なのだ。だが、実際には、それがなされている。このようなシーンが、十分に納得のいく筆致で書かれていると、死刑囚にされている表現者がもつ怒りと悔しさが伝わってくる。

絵画作品の応募も活発だ。選考会でよく話題になることだが、幼子の時代を思い起こしてみれば分かるように、文章を書くことに比して、絵を描くことは、ひとをしてヨリ自由で解放的な空間に導いてくれるようだ。人を不自由にすることに「喜び」を見出しているのかとすら思われる、拘置所の官僚的な規則によって、獄中で使用できる画材には厳しい制限がある。だが、その壁を突破しようとする死刑囚の「工夫の仕方」には、舌を巻くものもある。常連の応募者の画風に次第に変化が見られる場合があることも、楽しみのひとつだ。最近は、立体的な作品が生まれている。着古した作務衣を出品するという意想外な発想をする人も現われた。或るひとが漏らした「まるでコム・デ・ギャルソンだ」とは、言い得て妙な感想だった。極限的に狭い空間の中から、ここまで想像力を伸ばし切った作品が生まれるとは――と思うことも、しばしばだ。

この企画を始めて13年――11年目には、1980年代に冤罪を晴らした元死刑囚の赤堀政夫さんが、自分もこの企画に協働したいと申し出られて、一定の基金を寄せられた。以後、「基金」の名称には赤堀さんの名も加わることとなった。初心を言えば、当初は10年間の企画と捉えており、その間にこの日本においても「死刑廃止」が実現できればよいと展望していた。残念ながら、政治・社会状況は悪化の一途を辿り、それは実現できなかったからこそ、現在も活動は続いている。この間には、無念にも、かつての応募者が処刑されてしまったこともある。獄死した死刑囚もいる。このように、私たちには力及ばないことも多いが、この表現展は、死刑囚と外部社会を繋ぐ重要な役割を果たしていると実感している。