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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

伝承民話に基づいたスペクタクル映像がもつ解放感


映画『いぬむこいり』劇場用パンフレット(ドッグシュガー、2017年2月24日発行)掲載

情報化社会のいま、ましてや、インターネットがここまで私たちの日常に入り込んでいる以上、事前情報をほとんどもたないままに一本の映画に出会うことは難しい。旧知の映画プロデューサー小林三四郎氏から連絡があり、氏の友人が4時間を超える大作を撮ったので、ぜひ観てほしい、という。失礼ながら、片嶋一貴という監督の名は私には初耳で、したがって、その旧作も一つとして観ていない。忙しい時期で、ネット検索をする時間もないままに、試写会場へ出かけた。

ロビーで監督に会い、すぐ紹介されたのは、内田春菊さん。『私たちは繁殖している』は愛読していたし、私が勤める出版社が『マッチョ』に関する本を出した時には、(別のスタッフから)解説をお願いしてもいる。だが、内田さんの「全体像」を知っているわけではないので、10人もいない試写会の観客の中に、内田さんという「特異な」人物がいることに、「フシギ・ワールド」に入り込むような胸騒ぎをおぼえる。

入り口で、簡潔な映画パンフレットを渡された。上映開始まで、それをちらちら眺める。いきなり、有森也実が主演の映画と知る。有森さんは、私が、その作品をわずかしか観ていないにもかかわらず、「秘かに」フアンだと自覚している女優だ。胸の鼓動が高まる。他にも、ベンガル、石橋蓮司、柄本明、韓英恵、そして、PANTA、緑魔子までもが出演しているらしい。これは、あやしい。こんな「怪優」ばかりを集めて、いったいどんな映画なんだと、あらためて胸は騒ぐのだった。

果たして結果は?――ストーリーについては、別な原稿が用意されているだろうから、ここでは触れない。誰もが知る伝承民話「犬婿入り」が全編を貫くモチーフとして設定され、荒唐無稽ともいうべき、破天荒な物語が展開する。途中休憩を挟む4時間の長尺だが、飽きも長さも感じさせないおもしろさだ。「荒唐無稽」とか「破天荒」とか書きながら、ふと立ち止まる。この表現でははみ出してしまう何かが、スクリーン上には蠢いているのだ。イモレ島を含めて舞台となっているいくつもの架空の土地で積み重ねられてきた重層的な歴史――それは、言ってみれば、人間がどの地域にあっても繰り広げてきた歴史ということなのだが――への眼差しによって裏打ちされているといえようか。「重層的な歴史」と書いたからといって、それは常に重々しいものとして立ち現れるのではない。それは、時にいかさまで、時にやくざで、時にエロティックで、時におふざけで、時に卑小で、時に暗鬱で、時にユーモラスで、時に権謀術策に満ちていて、要するに、人間の世界に〈あった〉、そして〈ある〉すべての要素が盛り込まれているのだ。その点を映画はよく描いていて、エンターテインメントとしても楽しめる作品として成立している、と言い切ってしまってよいだろうか?

私の考えでは、ただそれだけをこの映画に求めた者は裏切られよう。破天荒でいて、緻密な歴史意識に裏づけられたこの映画は、背景にちりばめられたいくつものエピソードを読み解いていけば、舞台は、地球上のどこであってもよいのではなく、東アジアに浮かぶ多島海社会〈ヤポネシア〉以外ではあり得ないことが知れよう。映画製作チームは、あらゆる意味で奇怪なこの社会で積み重ねられてきた歴史と現実に憤り、絶望し、それでも新たな夢かユートピアを信じて、この異数の物語を紡いでいったのだ。歴史過程や現実に無批判的な、凡百の映画との決定的な違いが、ここで生まれた。

映画に見入りながら頭に浮かんだのは、コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』だった。あるいは、もっと広く、彼と同世代のラテンアメリカの作家たちが切り開いた魔術的リアリズムの世界を思い起こした、といってもよい。それらもまた、想像力と歴史および現実認識の力とが、緊張感を孕みつつ拮抗した地点で生まれた優れた作品群だった。片嶋監督は大胆にも、スペクタクル映像によって、マルケスたちの小説世界に伍するつもりだったのだろうか? その壮大なる意図を聴いてみたい。

「犬婿入り」といういわば神話的な世界に始まり、波瀾万丈の人生を送ったヒロインが最後には犬の貌をもつ赤子を生んで終わることで、観る者の想像力は広く、深く、解き放たれるように思える。この解放感を手放す(=忘れる)ことなく、現実の歴史過程に相渉りたいものだと、あらためて私は思った。

その後わたしは、片嶋監督の旧作『アジアの純真』(2009年)と『たとえば檸檬』(2012年)をDVDで観る機会に恵まれた。これまで片嶋ワールドを知らなかったことを心底悔いた。「拉致」問題への発言を続けてきている私のアンテナが、『アジアの純真』をキャッチできていなかったことには、とりわけ〈屈辱〉をすら感じた。

かくして、「遅れてきた老年」である私は、今後は、片嶋監督の――否、映画は、異種の労働に従事する多様な人びとの協働作業によってはじめて成立する、集団的な総合芸術であるから――、〈片嶋組〉の作品の「追っかけ」になろうと心に決めた。