現代企画室

現代企画室

お問い合わせ
  • twitter
  • facebook

状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

『絶歌』を読んで


『出版ニュース』2015年8月下旬号掲載

死刑囚がなす文章と絵画による「表現」を読み、観て、評価も行なうという作業をこの10年間続けてきた。「死刑廃止のための死刑囚表現展」という試みに関わっているからである。冤罪のひとの場合には、もちろん、いま強いられている無念を晴らすために、自分が嵌められた事件について「表現」する強烈な動機がある。実際にひとを殺める行為をしてしまった人の場合には、「表現」は多様化する。子ども時代に実現できなかった夢を追い求めるような作品、獄中での日々を描く作品、いまや手の届かぬものとなった自然や事物に関わる作品など、少なくとも表面的には自分の犯罪とは無関係な主題を扱う表現もある。そして自らが手を染めた犯罪に関わる表現。この場合が、客観的に見ても、もっとも難しい表現の領域だ。率直、悔悟、懺悔、怯懦、逃げ、見栄、ごまかし、嘘、自尊心――およそ、人間がもつあらゆる心の動きが如実にあらわれてしまう。その一つひとつを、読むものは否応なく感受する。己の無様な姿をさらけ出してでもその壁に立ち向かう死刑囚の表現は、読む者の心を打つ。

だが、犯行の様態をつぶさに記した箇所を読みとおすことは辛い。むごい記述が多い。

理不尽な運命に見舞われた被害者のことも思う。だが、ひとを殺めた人間が再生するためには、自らがなした行為を正確にふりかえるこの作業が必要だったのだろうと考え、つらくとも読みとおす。

遅ればせながら、「元少年A」が著した『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』を読んだ。刊行されたこと自体がメディア上でさまざまな観点から取り上げられてから、すでに数ヵ月経っていた。実に興味深い内容で、読むに値する本だと思う。彼は本書の冒頭において、中学時代の自分を「教室の片隅」にいる「勉強も、運動もできない」「スクールカーストの最下層に属する”カオナシ”のひとりだった」と表現している。本人によるその自己批評を信じるとして、しかし、その後展開する物語を読めば、幼い時代を回想するときの克明な記憶力、とりわけ映像的な喚起力には並々ならぬ力を感じる。精神病理学上の症例を参照するまでもなく、誰もが小中学校のクラスには、一般的な意味ではいわゆる「優秀な」子ではないが、きわめて狭く何事かに集中し、それに向かって一途に突き進んでゆく子がひとりくらいはいたことを思い出すのではないか。彼の場合、小学五年の時に経験した、敬愛した祖母の死によって受ける衝撃から、その〈偏り〉が速度を急速に上げてゆく。

それは、二つの方向へと向かった。一つには、祖母が愛用していた電気按摩器を祖母恋しさのあまり動かしていたところ、それが偶然ペニスに当たり、やがて勃起と射精に至ったことから始まった性的嗜好・性衝動の問題である。二つ目は、性衝動の問題とも絡むが、祖母の〈死〉の不可解性から生まれた下意識が小動物=猫の虐殺という形で、〈暴力〉へと向かった問題である。しかもそれ以前には、「不完全で、貧弱で、醜悪で、万人から忌み嫌われる」という意味で自分に模し、愛玩さえしていたナメクジを、もっと精密に見て知りたいと思ってかまぼこ板の手術台に乗せた挙句に、解剖してしまうという「事件」を起こしている。思春期にあっては(私に経験に照らしても)、性衝動と小動物虐待は、誰にでも起こるありふれたことがらである。それが、元少年Aの場合には、なぜあれほどまでの〈偏り〉へ至ったのか。それは、残念ながら本書ではまったく触れられていない、医療少年院での「治療」過程・方法が明らかになることによって、わかるのかもしれない。今後のためには必要な情報開示だと思う。

後半は、社会復帰後の人生遍歴をかたっている。「素性」は明かされていなくても、罪を犯した青年を待ち受ける住まいや仕事上の困難な問題が、想定できる範囲で書かれている。驚くのは、社会復帰した青年をそっと見守るチーム(監察官と呼ばれている)や身元引受人となる民間の篤志家夫婦の存在だ。「更生」や福祉に関わるこの社会の制度的な貧弱さを知る者の心をも打つエピソードだ。

元少年が起こした事件の犠牲者遺族から、この本の出版それ自体に対して厳しい批判が出ていることは知っている。それを否定できる場所に、私はいない。そのことを自覚したうえで言うなら、生来の悪者などではなく、衝動の制御が利かないほどに〈偏った〉人間と社会全体がどう向き合っていくかを考えるヒントが、本書にはいっぱい詰まっている。そのような本書の本質を見ずに、犠牲者遺族の言い分を不可侵の聖域において、出版それ自体を論難した一部メディア・書店・図書館・読者の反応ぶりに、大きな違和感を覚える。

(2015年8月10日記)