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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

沈黙の表情が語りかけるもの――ヤン・ヨンヒの3部作を見る


『映画芸術』第440号(2012年夏号)掲載

独裁体制下にある他国を描く方法は、簡単だ。独裁支配とは、歴史上のどの時代、どの国を取り上げても、実に奇奇怪怪な実態をもつものだから、にわかには信じがたいまでのその奇怪さ、恐怖、独裁者の放埓な独善ぶりなどを、まずは繰り返し描き出せばよい。続けて、その社会で言論と行動の自由を許されていない民衆が、いかに画一的な生を強いられているか、誰もが同じ表情、同じ口調で、ただひとつのことしか言わない不思議な光景を付け加えるのだ。これで完了だ、隣の或る国を、理解不能な、したがって対話も不可能な存在として、こちら側の人間たちに納得させるためには。

2002年9月17日以降の日本社会は、まさしく、この通りになった。日朝首脳会談において相手国の首脳が日本人拉致の事実を認め謝罪して以降のことである。朝鮮を独裁支配している指導者を嘲笑し、支配下の民衆を笑うことすらない感情を欠いた存在として画一的に描くこと。これ、である。この民族主義的な情念の噴出を前にしては、歴史的な過程の中で二国間関係を捉えて冷静な議論を呼びかける少数者の声は、ほとんど掻き消された。

在日朝鮮人の映像作家、梁英姫はその真っ只中に登場した。まずは2005年『ディア・ピョンヤン』である。作家の父親は、朝鮮の指導者を一途に信奉する在日朝鮮総連の関西地区幹部であるが、家庭ではステテコ姿で酒を飲みながら、時にはポロリと本音を漏らしたりもする気さくな一面もある(母親の役割も重要だが、ここでは焦点が当てられている対象を考えて、「父親」と表現する)。娘である作家は、朝鮮大学校を卒業するまでは辛うじて父親の方針の下で育ったが、女優、ラジオパーソナリティ、映像作家と職遍歴を重ねながら世界各地を歩いて、自由な気風を内面に育てる。朝鮮指導部への忠誠を誓う父親には違和感と批判を持つが、同時に一個の人間としては愛さずにはいられない存在でもある。カメラは、この二つの間を往き来する。政治的な教条主義と日常生活での意外な素顔の対比がきわめて印象的で、つい笑いと涙を誘われたり、この人物に対する親しみを感じさせたりもする描き方になっている。過去を封印してきた父親は、カメラを持った娘の執拗な問いに次第に心を開くようになる。ついには、帰国事業で朝鮮に「帰国」させた三人の息子について、その後の現実を知るだけに、「行かせなくてもよかったかもしれん」とまで呟いてしまう。ドキュメンタリストとしての作家の資質を余すところなく証明している一シーンである。

次の作品、2009年の『愛しきソナ』は、帰国した兄の娘、ソナを軸に描いたドキュメンタリーである。作家自らが朝鮮を訪問して、兄たちの家族の生活の中にカメラを持ち込む。この撮影方法は、朝鮮では、めったに許されることのなかった稀有な例外だけに、決まりきった構図でしか朝鮮の姿を知らなかった私たちには、映像それ自体がまず新たな情報の宝庫である。率直には言葉を発することのできない登場人物(兄たち、その妻たち、そして訪朝した両親)の、その時々の表情、沈黙、立ち居振る舞いもまた、重要な情報を私たちに伝える。この作家は、沈黙の表情に物を言わせるのがうまい。だが、作家の姪、幼いソナは、カメラを前にしてもあくまでも天真爛漫だ。あの国は、電力不足による停電が日常茶飯事だが、ある夜、電気が消えるとソナは叫んでしまう。「停電中のこの家はとてもカッコいいです。おお、停電だ。栄えある停電であります!」。もちろん、あの国で許されている唯一の言語体系である「偉大な指導者」に捧げる慣用句風に、あの有名な女性テレビアナウンサーの口調を真似ながら、言うのである。

きわどい表現を含んだ『ディア・ピョンヤン』の公開によって、作家はあの国への出入りを禁じられた。愛する父親は亡くなった。兄の一人も病死した。次の作品を映像で企画するとしても、もはやドキュメンタリーの道は閉ざされていた。選ばれた道は、当然にも。フィクションへの転位である。こうして、2012年の『かぞくのくに』は生まれた。作家自らがシナリオの筆を執った。

あの国へ渡った兄が帰ってきた(物語は、それを待望していた妹の視点を軸に展開する。それは作家自身の視点でもあろう)。治療の難しい病気に罹り、3ヵ月間限定での帰国が特別に許可されたのだ。25年ぶりの懐かしい再会。しかし、日が経つにつれて、「兄が奥さんと息子と住むあの国」と「私が両親と住んでいるこの国」との間には、思いがけないほどの距離があることがわかってくる。しかも、兄には監視役の付添いがいる、あの国から。どこへ行くにも、彼が付き纏うのである。そして……。

物語の紹介はここで留めよう。シナリオは綿密に練られている。作家の実体験に基づく挿話が随所に生かされていよう。そのきめ細やかな設定が、物語に膨らみと深みを与えている。宮崎美子演じる母親の表情と姿が、どのシーンでも切ない。特に、あの国に帰る監視員にも背広を新調してやり、三人の子どもへの土産も持たせるという「配慮」を示す場面は、監視員を演じるヤン・イクチュンの表情ともども忘れ難い。監視員はまた、主人公の妹(安藤サクラ)に「あなたも、あの国も大嫌い」と言われて、「あなたが嫌いなあの国で、私も、あなたのお兄さんも生きているんです。死ぬまで生きるんです」とだけ答える。作家はここで、独裁下に生きる一人ひとりの人間の心の襞を感じとるよう、観客に呼びかけているように思える。25年前の「帰国」時と同じように今もあの国の体制に対して煮え切らぬ態度を取り続けて、息子の怒りを買う父親(津嘉山正種)も、その表情にはいつも苦悩の(そう言ってよければ、悔悟の)色が漂っているようだ。作家は、それぞれの登場人物がありきたりの言動に終始することを巧みに避け、言葉と表情を通して、多面的な存在として描き出している。「典型」に甘んじさせないのだ。他者を〈単一の〉存在として捉えるのではなく。一人ひとりが、揺らぎや葛藤や嘘や自己矛盾すら抱えた人間として描くことで、自己をさらけ出したその地点から、人間同士の新たな関係性が開けていくことに希望を託しているようだ。

帰国する主人公を演じるARATA改め井浦新は、台詞と表情と所作全体で、今回も特異な雰囲気を醸し出している。今後も注目したい俳優だ。監督およびスタッフの力量に加えて、キャスティングの的確さが、この作品の成功を導いたと思える。

10年前の「9・17」以降の、日本の特殊な社会・言論状況のさなかに差し出された梁英姫の3部作の大切さを、どこよりも、この社会に生きる私たちが感受したい。この小さな文章の冒頭に書いた問題意識に照らして、そう思う。

(7月2日記)