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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

「コロンブス500年」史観への道 


ルネサンス研究所基幹研究会(2011年9月28日、東京・文京区)で行なった報告

Ⅰ 1960年前後の政治・社会・思想状況――極私的に

社会主義、その最初の「祖国」としてのソ連に対する牧歌的な憧れ。19世紀ロシア文学の圧倒的な存在感と20世紀社会革命の先駆性――この二つが実現している社会。

それに引き続く中国革命に対する、同じくロマンチックな思い入れ。

1953 スターリンの死の報道から、何となく感じ取ったソ連社会の「暗さ」

釧路に住んでいたので、根室沖でときどき起こる、ソ連監視船による日本の零細漁民の船舶の拿捕・抑留・銃撃事件の「重さ」

社会主義に感じる「暗さ」や疑問をかき消してくれた要素

1)在日アメリカ帝国軍の横暴なふるまい――沖縄。基地拡張。薬莢を拾う農婦を米兵が面白半分に射殺する事件など

2)言論――清水幾太郎、野々村一雄、岡倉古志郎、江口朴郎、井上清、蝋山芳郎、甲斐静馬、大内兵衛、上原専禄、坂本徳松、五味川純平、安部公房、野間宏、開高健、大江健三郎、エドガー・スノー、アンナ・ルイーズ・ストロング、アンリ・リケット、そのほか大勢の左翼あるいは進歩的文化人・知識人。

もっとも悲劇的かつ戯画的な形で現われた北朝鮮に関する礼賛的な報道ルポルタージュ→それが、ソ連・東欧論や中国論(後者の場合は、文革期の特異な受容のされ方も考慮しなければならないが)とも異なって特徴的なことは、無批判的な礼賛傾向が寺尾五郎(1959~61)の時代に限られるのではなく、安江良介(留保付き)+美濃部亮吉(1971)、松本昌次(1975)、小田実(1977~78)、よど号(70~現在)の時代まで続いていることである。

私は、すべてが見えてしまった後世に生きる者の特権的な立場から、これらの人びとの言動を一方的に批判する立場を取るつもりはないが、同時代的にどの程度の「情報」に接することができたかどうかの問題は残るにせよ、

ソ連でいえば、1956年の「スターリン批判」と「ハンガリー革命」「ポーランド反乱」、中国でいえば、1956年の「百花斉放・百家争鳴」から、翌年に一転して発動される「反右派闘争」

北朝鮮でいえば、在日朝鮮人・関貴星の訪朝記『楽園の夢破れて』(1961)で綴られている内容およびその後漏れ伝えられてきてはいた金日成独裁体制の確立の過程、在日朝鮮総聯の動向にまつわるさまざまな情報――――――――――――――――

などの事実を、自らの論理と倫理の中に組み入れることなく牧歌的な社会主義賛美論を展開していた論者の場合には、状況論的には、その言論責任が問われると考える。同時代にも、劇作家・三好十郎のように、I・F・ストーンの『秘史朝鮮戦争』(新評論社、1952)の帯に寄せた清水幾太郎の推薦文「朝鮮戦争の勃発について、最初に仕掛けたのが北朝鮮だと言われていることについて何かが隠されていると考えてきたが、この本で目が覚めた。やはり思った通りだった。仕掛けたのは、米国側、南朝鮮側である」(との趣旨)に対して疑問を発した人物は存在していた。三好は、戦争が起こった時に、調査・検討・論議する以前に悪いのは資本主義国だとする予断からは自由な人であった。ストーンは、この戦争は米国側が仕掛けたことを恣意的な資料操作によって論じているが、事実は逆かもしれない、少なくともこの本は米国有罪の立証として十分ではないと三好は考えたのである。井上清が1966年になっても、「アメリカが日本を基地として朝鮮戦争を開始した」(『日本の歴史』下、岩波新書)と書いていたのとは好対照である。因みに、三好はこの時、「日本を占領したのがソ連軍だったならば、ソ連が設ける軍事基地にも、要請する再軍備にも、発動する戦争にも、清水は反対しなかったのではないか」と問うていること、この問いに対して清水は沈黙を守ったが、小田切秀雄、大西巨人、武井昭夫、中野重治が代行して三好批判を展開したこと、北朝鮮による武力侵攻であったことを前提としてこれをマルクス主義の原義に基づいて批判したのは荒畑寒村であったこと、には触れておきたい。特に第1項については、スターリンの北海道占領計画では私の生地:釧路はソ連軍占領地域に入っており、実際にそうであったならば、という想定がきわめてリアルであったことにも【私が三好の論に接したのは同時代的にではなかった。80~90年代になってからであるが】。

そのほか、フルシチョフによるスターリン批判を深めた埴谷雄高、(左翼)文学者の戦争責任論を展開した吉本隆明、60年安保闘争の総括をめぐる吉本・谷川雁・黒田寛一・藤田省三などの言論に触れる過程で、ソ連社会及びこの社会について無批判的な礼賛を続けてきていた内外の人びとが指し示している先に「未来」を見る思考は、ほぼ消えていたと思える。それでも、60年代前半から紹介され始めたトロツキー文献、菊池昌典のスターリン時代研究、ダニエルズの『ロシア共産党党内闘争史』、レーニン文献などを読み漁る気力はあったが、それは、いわば私にとっては「ロシア革命敗北の過程」を追認するような作業であったような気がする。したがって、「反帝反スタ」は指針にはなり得ず、レーニンとトロツキーの援用によってスターリンを批判する方法にも、諸悪の根源は「党」の絶対化にあったのだから、違うのではないかという違和感を持ち続けた。党派性に縛られていないロシア革命論として、松田道雄『ロシアの革命』(河出書房、1970)に親しんだ。

Ⅱ ソ連が唯一絶対の道だとは思えなくなった同時代に、世界では何が起こっていたか

現実の政治過程が喚起したものとして

1959 キューバ革命

1960 フランス領を中心にアフリカ諸国17ヵ国の独立。韓国4月革命。トルコ激動

1961 コンゴでルムンバ虐殺→背後にいたベルギー国家権力。キューバに反革命軍侵攻

1962 キューバ・ミサイル危機。アルジェリア独立革命

1964 米州機構、キューバ制裁決議。トンキン湾事件。ブラジルで軍事クーデタ→「第2のキューバ」を許さないとする米帝国の意志の現われ

1965 米軍、北ベトナム爆撃(北爆)開始。マルコムX暗殺。南ベトナム民族解放戦線が全世界に「軍事援助・物質的援助・義勇軍派遣」を要請。インドネシア9・30。アルジェリア・クーデタでベン・ベラ失脚

1966 中国文化大革命始まる

思想・文学からの提起として

1960 ヒューバーマン+スウィージー『キューバ:一つの革命の解剖』(岩波新書)

1964 堀田善衛+鈴木道彦「アジア。アフリカにおける文化の問題」(岩波講座『現代』10所収)→フランツ・ファノン『飢えたる者』を初紹介

1964 サルトル「黒いオルフェ」(原テキスト1948、人文書院『シチュアシオンⅢ』所収)→レオポルド・サンゴール編『ニグロ・マダガスカル新詞華集』序文。マルチニックのエメ・セゼールにも触れて、ネグリチュード(黒人性)の問題に言及

1965 サルトル「飢えたる者」序文(人文書院『シチュアシオンⅤ』所収)→ファノン

論、「パトリス・ルムンバの政治思想」も収録

1966 堀田善衛『キューバ紀行』(岩波新書)

1967 チェ・ゲバラ4・16メッセージ「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」

1967 エンツェンスベルガー「ラス・カサス、あるいは未来への回顧」(原書1967、晶文社『何よりだめなドイツ』所収)→ベトナムの現実に、5世紀弱前のスペインによるアメリカ大陸征服を弾劾したカトリック僧ラス・カサスの言動を重ねる

1968 堀田善衛「第三世界の栄光と悲惨について」(平凡社・現代人の思想17『民族の独立』解説)→ラス・カサス論

1968 エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』刊行(原書1944、理論社)

1969~70 フランツ・ファノン『黒い皮膚、白い仮面』(原書1952)『地に呪われたる者』(原書1961)『アフリカ革命に向かって』(原書1964、いずれも、みすず書房)

1971 クワメ・エンクルマ『新植民地主義』(原書1964、理論社)

1976 ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』刊行(原書1552、岩波文庫)

1978 エリック・ウィリアムズ『コロンブスからカストロまで――カリブ海域史1492~1969』ⅠⅡ刊行(原書1970、岩波書店)

1986 エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地――ラテンアメリカ五百年』(原書1971、新評論、現在藤原書店)

そこから浮かび上がってきたこと

1)世界近現代史においてカリブ海域が強いられた歴史的特殊性

15世紀末、キューバ島の100万人をはじめ一定数の先住者が暮らしていたが、コロンブス以降に行なわれたヨーロッパ人による「征服事業」(=虐殺・強姦・強制労働・奴隷化・暴行・土地の簒奪など)のために、そこは一世紀後には「死の島」と化した。すなわち、先住民は、ほぼ死に絶えた←ラス・カサスの内部告発。それに対する4世紀半後のエンツェンスベルガーや堀田善衛の応答。

そこへ、アフリカ西海岸地域からの、黒人青年の強制連行が始まった←ラス・カサスの加担。奴隷貿易(「黒い積荷」)によるメトロポリスの繁栄←エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制』が被植民地(トリニダ・トバゴ)の留学生によって書かれ、それを英国史学会が長年無視した根拠。

三角貿易の成立→「奴隷貿易は本源的蓄積のリヴァプール的方法をなすものである。」「一般に、ヨーロッパでの賃金労働者の隠された奴隷制は、新世界での見え見えの奴隷制を脚台として必要とした。」(マルクス)

2)外部に強いられてきた歴史的役割を、自らのものに奪還していく過程としてのキューバ革命

19世紀前半、スペインとポルトガルから独立を遂げた後の米州地域。それは、米州に位置する特殊性をモンロー宣言で身勝手に活用し、もともと大西洋に面し、19世紀半ばの米・メキシコ戦争によってカリフォルニアを奪って太平洋への出口を獲得することで、地理的優位性を備えた、稀に見る世界帝国として成り上がっていく米国の支配権拡大に直面することになる。

19世紀前半に独立した他の米州地域に比較して、キューバの独立は遅れた。19世紀末に遅れてやってきた独立戦争はフィリピンと同時期に高揚したが、機に乗じた米国の参入により、キューバとフィリピン民衆の独立の戦いは米西戦争へと性格を変えた。1898→1902年の経緯。グアンタナモ米軍基地の存在。

それからおよそ半世紀後に起きたキューバ革命。

「党なき」革命=キューバの道

収奪された大地=「第三世界」復権の象徴

ソ連型ではない、新しい社会主義の模索(1961.4 社会主義宣言)→ソ連型の強制・導入を画する勢力と、それに抵抗するチェ・ゲバラらの論争。

結果的に、1960年代のキューバは、それが持つ本来の力量以上の課題を自ら担い、また、外部世界もそれを期待した。

3)ラテンアメリカとアフリカの歴史的・現代的交錯

ネグリチュードを介しての、文学的な交錯。

ファノンやエンクルマがもった「アフリカ革命」の展望。

チェ・ゲバラが企図したアフリカ解放闘争への加担。

4)民族・植民地問題に関する同時代的感覚

M・N・ロイ→コミンテルン第2回(1920)、第3回(21)、第4回(22)大会での演説

ホー・チミン→コミンテルン第5回(24)大会演説

(いいだもも編訳『民族・植民地問題と共産主義』(社会評論社、1980)

スルタン・ガリエフ→ヨーロッパへの革命の波及に期待をかけたボリシェヴィキ指導部に対し、東方での革命に希望をもち、植民地インターナショナルの結成を呼びかけた。

(山内昌之編訳『史料 スルタンガリエフの夢と現実』(東京大学出版会、1998)

ホセ・カルロス・マリアテギ→先住民の隷属状態に注目して、先駆的な中枢・周辺理論を展開。

(『ペルーの現実解釈のための七試論』、柘植書房、1988。『インディアスと西洋の狭間で』、現代企画室、1999)

Ⅲ 1992年=コロンブス500年を迎えて

1989~1991 ソ連・東欧圏社会主義体制の崩壊→「グローバリゼーションの時代へ」

と資本主義礼賛者たちは呼号。市場原理に基づいた地球の「一体化」「全球化」の時代→「アメリカの発見、アフリカの回航は、頭をもたげてきたブルジョア階級に新しい領域を作りだした。東インドとシナの市場、アメリカへの植民、諸植民地との貿易、交換手段やまた総じて商品の増大は、商業、航海、工業にこれまで知られなかったような飛躍をもたらし、」「大工業は、すでにアメリカの発見によって準備されていた世界市場を作りあげた。」(『共産主義者宣言』第一章)

1992 「コロンブスの五百年めが1962年だったなら、その記念は、コロンブスのアメリカ大陸「解放」を祝うものにみであったろう。1992年には、「解放」を祝う反応一色というわけにはいかなかった。」(ノーム・チョムスキー『アメリカが本当に望んでいること』、1994、現代企画室)

スペインによる祝賀ムードを警戒し、これに対抗するために、米州の民衆運動は「先住民、黒人の民衆的抵抗の五百年」運動を展開した。この動きは、期せずして、全世界に波及し、さまざまな地域で、コロンブスの大航海とアメリカ大陸到達の時代に始まった近代(それは、植民地主義の始まり、を意味した)を問い直す契機となった。(東京では2日間にわたって「500年後のコロンブス裁判」開催)

1994 メキシコ先住民族「サパティスタ民族解放軍」の蜂起→北米自由貿易協定の発効に抗議した蜂起であったことから、その後の反グローバリズム運動の世界的な高揚に多大な影響を与え続けている。また、都市から最貧地域への工作(山村工作隊)に赴いた都市インテリゲンツィアのマルクス主義と、農村部先住民族がもつ独自の歴史哲学・人間観・自然観が融合した地点に生まれた独特の言葉遣い、情宣のためのインターネットの駆使、武装蜂起であったにもかかわらず軍事至上主義に陥らず政府との交渉でみせた成熟した政治思想など、従来の政治・社会運動の内省を促す示唆に満ちている。(サパティスタ民族解放軍『もう、たくさんだ!』、現代企画室、1995。マルコス副指令『ここは世界の片隅なのか』、現代企画室、2002 など多数)

2001 「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」開催(南アフリカ・ダーバン、8月31日~9月8日)(永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』、青木書店、2009)

2001.9.11 絶頂のグローバリゼーションへの絶望的な抵抗

2001.10  米軍、アフガニスタンへ一方的な攻撃開始

米国政府・軍部で囁かれた「アフガニスタンのような、国家の体をなしていない国は、いっそのこと、植民地にしてしまった方がやりやすい」。

同時期の日本の政治・社会状況を見ても

「継続する植民地主義」という問題意識の重要性