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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

「環」(Trans-)という概念から考えるTPP問題 ――「環日本海」と「環太平洋」


『環』45号(2011年Spring、藤原書店)掲載

「環日本海」

「環」(Trans-)は、本来なら、豊かな可能性に満ちた地理的概念になり得ると思われる。私がもっとも好ましいと考えている「環」概念は、富山県が作成した「環日本海諸国図」と称する350万分の1の地図に見られる(複数の民族・国家に囲まれている公共財としての海に、特定の国家名称である「日本」を冠していることが、他者との共存を阻害する排他性を示していることに、日本社会は徹底して無自覚である。これは重大な問題だが、テーマを異にするので、ここではこれ以上は触れない)。私たちは、日ごろから、「北」を常に上位におく方位イデオロギーに貫かれた平面地図を見慣れたものとしているが、この環日本海諸国図を見ると、今まで当然と思っていた平衡感覚が揺らぐ。日本列島は、太平洋を上にして、北から南へと(南から北へ、という表現も可能である)横たわっている。海を挟んで下方には、サハリン、ロシア東端部、中国東北部、朝鮮民主主義人民共和国、韓国と続き、さらには遼東半島を経て北京・上海・香港へと至る中国大陸が広がっている。日本海は、明らかに、これらの諸国・諸地域によって囲まれた〈内海〉であることが、自然に感じとられる地図である。

この〈内海〉を、それぞれの歴史的段階において民族間・国家間の争いと侵略と戦争の場にしたのは誰か、という問いが私たちの裡に必然的に生まれるとともに、東西冷戦構造が消滅して20年近くを経た今なお、地球上で唯一なぜこの地域には冷戦構造が維持されているのかという内省へも、私たちは行きつかざるを得ない。地方自治体や非政府組織が軸になって、環境問題などをめぐって国境を超えて「環日本海」の協働関係をつくろうとする努力は続けられてきているが、国家のレベルでは、残念ながら、そうではない。「環」を形成する諸国が、対等・平等な関係性の中で、対立/抗争の〈内海〉を、いかに、平和のそれに転化できるかが、今こそ問われている。

「環太平洋」の歴史的文脈――「黒船」の意味

さてここでの問題は、Trans-Pacific という概念である。「環太平洋」なる概念はとてつもなく広い。南米の最南端チリから、中米・北米諸国をたどり、ロシアのシベリア地域を通って東アジア諸地域、東南アジア多島海地域、オーストラリア、ニュージーランへと至り、またそれらに囲まれた南太平洋の島嶼国も含まれる。30ヵ国以上にも上るかと思われる該当国の中にあって、ひときわ異彩を放つのは米国である。なぜなら、この国は、東海岸を通してTrans-Atlantic(環大西洋)に繋がり、アメリカ大陸に位置することによってラテンアメリカ・カリブ海域と一体化した汎米州(パン・アメリカン)共同体的なふるまいを行ない、西海岸を通してTrans-Pacific(環太平洋)諸国の一員であるという顔つきもできるという、世界でも唯一の地理的「特権性」を享受しているからである。さらに、この国は、政治・経済・軍事の分野ではもとより、文化的影響力の大きさにおいても、かつてほどではないにしても現在なお、他の諸国に比して群を抜いており、加えて国際的な関係を他国と結ぶうえで、この国が対等・平等であることを心がけたことなどは一度もないからである。

米国が、環太平洋への出口を獲得したのは19世紀半ばであった。

3世紀に及ぶスペインによる植民地支配からメキシコが独立したのは1821年だったが、当時はメキシコ領であった現テキサス地域が1836年に分離したのは、「西部開拓時代」の只中にあって「西へ、西へ」と向かう米国の干渉によるものだった。これに奏功した米国は1846年にはメキシコに戦争を仕かけ、これに勝利した戦利品として、コロラド、ニューメキシコ、ユタ、アリゾナ、ネバダ、カリフォルニアという、現メキシコの2倍以上もの資源豊かな領土を奪い取った。1823年のモンロー宣言によって、アメリカ大陸からヨーロッパ列強の影響力を排除することを企図した米国は、今度は太平洋への出口を獲得したのである。米国の、環太平洋への進出の動きは素早かった。対メキシコ戦争に参戦したペリー総督は、艦隊を率いてインド洋に展開していたが、彼がその黒船を率いて、当時鎖国中であった日本の浦賀沖に現われて、砲艦外交によって開国を迫ったのは1853年のことである。19世紀前半の、この30年間有余に凝縮している米国の「拡張史」からは、「帝国」形成期における海外侵略のエネルギーの強靭さが見て取れる。

米国はさらにインディアン殲滅戦争を続行するが、これにほぼ奏功して国内統治を完璧なものにした19世紀末、その意識では「裏庭」と捉えているカリブ海域、および太平洋を横断し(trans-)、遠く東アジア地域への進出を果たした。そしてキューバとフィリピンの民衆の反植民地闘争がスペインからの独立を目前にしていた段階で、米国は陰謀的な手段で介入し、局面を米国・スペイン戦争に変えてしまったのである(1898年)。勝利した米国は、フィリピン、グアム、プエルトリコをスペインから奪い、キューバをも実質的な支配下に置いた。

TPPの歴史的文脈――中南米での教訓

米国は、19世紀の前半から後半にかけて確立したこのような地理的優位性を基盤に、20世紀における世界支配を実現してきた。1917年から91年までは、ソ連型社会主義との熾烈な競争・闘争もあったが、そのソ連が無惨な崩壊を遂げたときには、資本主義が絶対的な価値をおく「市場原理」の勝利を謳歌した。それ以降の20年間、新自由主義(ネオリベラリズム)とグローバリゼーションの掛け声の下に、地球(globe)全体を丸ごと支配する方策を模索してきているが、自由貿易はそのもっとも重要な軸であった。1994年、米国はまずカナダ、メキシコとの間で「北米自由貿易協定」(NAFTA)を実現した。関税障壁を15年間かけて撤廃したこの協定は、3億6千万人を包括する自由貿易協定として全面的に実施されている。世界最強の大国と第三世界の国が同じ自由貿易圏に入ると、いかなる結果がもたらされるか。農産物を例にとれば、メキシコの米国に対する輸入依存率は、協定前の5~10%から40~45%に高まった。農民の4割に相当する250万人が離農し、多くは職を求めて米国へ渡った(註1)。農地の一部は多国籍企業の手に渡り、先進国の食肉需要を満たすための牧草地とされた。

米国は、この余勢を駆って、クリントン、ブッシュ(子)の二代の大統領の任期を通じて、キューバを除外した米州自由貿易圏(FTAA)の実現に全力を挙げた。ガットなきあとの世界貿易機関(WTO)が思うようには機能できず、「内外無差別な投資の自由」を推進しようとした「多国間投資協定」(MAI)も、欧米のNGOを中心とした強力な反対運動によって頓挫を余儀なくされたために、世界全体に自由貿易を強要する企図を早期に実現する見通しを失った。そこで、二国間、あるいは地域限定の自由貿易体制をつくることで、突破口を切り開こうとしたのである。

2005年11月、アルゼンチンで第四回米州サミットが開かれた。ブッシュ大統領は、人口8億5千万人、GDP約13兆ドルの世界最大の市場を包括する米州自由貿易圏構想をここで一挙に実現しようとしていた。だが、1970年代半ば以降、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けていて、それによって荒廃した社会状況の辛酸をなめていたこの地域には、政府レベルでも、民衆運動レベルでも、新しい力が育っていた。新自由主義とグローバリゼーションに異議を唱え、それとは正反対の価値観、すなわち、連帯・共同・相互扶助の精神によって、地域共同体をつくろうとする大きな動きである。ブッシュ構想は、そのような各国政府から激しい批判を受けた。構想に抗議する五万人の民衆が会場を包囲した。ブッシュ構想は、あえなく潰えた。

世界貿易機関の「円滑な」運営や多国間投資協定および米州自由貿易圏を挫折させたのは、少数の大国が思うがままに作り上げてきた貿易秩序に「否!」を唱え、富裕国と貧困国の間に、公正で対等な経済秩序を打ち立てようとする民衆運動の力である。残念ながら、日本では実感できないその力が、世界的には、放埓な新自由主義とグローバリゼーションの跳梁を現実に阻止してきた。

2006年に、シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの四ヵ国が発効させたTPPは、いわば「小国のFTA(自由貿易協定)」であった。米国のオバマ大統領が2009年にこれへの参加を表明し、それは「帝国のFTA」に豹変した(註2)。19世紀以降、米国が一貫して追求してきた自国利害優先の世界戦略にひとつの自己懐疑もおぼえたことのない米国は、「環」の理念を身勝手に利用して、19世紀半ばの帝国主義時代の価値観に基づいて、「太平洋地域」への介入を試みているのである。

世界史を顧みると、植民地支配や侵略戦争など「人道への犯罪」を積み重ねてきた欧米諸国と日本が、現在に至るまで政治・経済・軍事の世界秩序を主導的に形成してきている。

それは「もう、たくさんだ!」と拒否するところで、上に見た多様な抵抗の言論と活動が展開されている。このような歴史過程のなかに、TPPをめぐる攻防を据えること。それによって私たちは、「現在」だけに視野を拘束されない歴史的な奥行きと深みの中で、TPPの背後に広がる事態の本質を掴むことができる。

対米追従の歴史的文脈――「環日本海」と「環太平洋」

日本では2009年に民主党政権が発足した。鳩山首相は、最初の演説で「東アジア共同体」に触れたり、沖縄に集中している在日米軍基地に関しても、歴代の自民党系列の為政者からは聞かれなかった方針を明示したりして、戦後60年有余の澱んだ政治に何らかの新しい光景が開かれていくか、と思わせるものがないではなかった。

だが、いまとなっては、その後の顛末を振り返ることすら虚しい結末となって、鳩山時代は終わった。継承したのは、市民運動出身を標榜する菅直人首相である。菅氏は野党時代には「海兵隊は即座に米国内に戻ってもらっていい。民主党が政権を取れば、しっかりと米国に提示することを約束する」(民主党幹事長時代の、那覇市での選挙演説、2001年7月21日)とか、「沖縄から海兵隊がいなくなると抑止力が落ちるという人がいるが、海兵隊は(日本を)守る部隊ではない。地球の裏側まで飛んでいって、攻める部隊だ。沖縄に海兵隊がいるかいないかは、日本にとっての抑止力とはあまり関係がない」(民主党代表代行時代、2006年6月1日)などと語っていた。ところが、首相就任直後の2010年6月には「海兵隊を含む在日米軍の抑止力は、日本の安全保障上の観点から極めて重要だと考えている」(衆院本会議、2010年6月14日)と答弁し、また「普天間基地の辺野古移設を明記した先般の日米合意を踏まえ、しっかりと取り組んでいきたい」とオバマ大統領との電話会談で語りかけた(2010年6月6日)。菅氏がこのような開き直りの口実に使った出来事はあった。尖閣諸島をめぐる中国との角逐、竹島(独島)の占有権をめぐる韓国との争い、そして北朝鮮の軍事優先主義を示すいくつかの行動である。

菅氏は、環(trans-)日本海地域が直面している困難な事態を歴史的な責任を賭けて切り開く道を選ぶのではなく、むしろアジア近隣諸国との正常ならざる関係を奇貨として、はるか太平洋の向こうにある(trans-)米国との軍事同盟に日本の命運を託すという方針を、問わず語りに明かしたのである。「環」の論理が孕む豊かな可能性をなきものにし、逆に、身勝手な自己流の論理の中に「環」が有する地理的関係性を巻き込んでしまったのである。

戦後60年有余、パックス・アメリカーナ(米国による、米国のための平和)の傘の下に置かれた日本が、自らの意思に基づいて、政治・経済・日米同盟などについての指針を持つことがなかった事実については、批判派からの提起が何度もなされてきた。菅氏の前述の諸発言を思うと、根はもっと、歴史的に深いところにあるように思える。冒頭で触れたペリー来航からわずか5年目の1858年には、日米修好通商条約が締結された。周知のように、これは、日本が関税自主権を放棄し、片務的最恵国待遇を保証した不平等条約であった。米国が「修好」の名の下に、この種の二国間条約の締結を相手の「小国」に強要する例は、その後も枚挙にいとまがないままに、21世紀の現在にまで続いている。近代から現代にかけての日本は、もっとも愚劣な方法で米国に対抗した真珠湾攻撃(1941年)から敗戦に至るまでのわずかな期間を除いて、戦前も前後も、米国のこのような論理にまともに討論を挑み、抗議し、関係の是正のために尽力することを怠った。被害者意識だけを募らせたその果てに、明治維新後の1875年、近代日本は朝鮮に対して江華島事件を引き起こすことで、4隻の黒船から受けた砲艦外交と同じことをアジア諸地域に対して行ない始めた。1869年の蝦夷地併合(北海道と改称)を契機として、すでに植民地帝国としての近代日本の歩みは始まっていたが、その6年後には、もっとも近隣の国に対する露骨な介入を開始したのである。

菅氏は、この「第一の開国」が孕む問題性を自覚しているのだろうか、無自覚なのだろうか。2010年11月、突然のように、TPPへの参加の意思表示を行ない、もって「平成の開国」と呼び始めた(註3)。「第三の開国」とも称しているが、これは、アジア太平洋戦争における敗戦を、なぜか「第二の開国」と数えているからである。

このような菅氏の歴史認識のあり方は、大いに疑わしい。一部の人びとが抱いたであろう(私とて、一部の政策分野に関しては、そうであった)民主党政権に対する淡い期待は、急速に冷めつつある。その対米従属ぶりは自民党政権時代よりひどいというのが、多くの人びとの実感であろう。思い起こせば、しかし、「労働党」を名乗るイギリスのブレアも、「9・11」以後、ブッシュ路線への驚くべき追随路線を実践してみせた。議会制民主主義国における二大政党制なるものは、所詮、微小な差異を示すものでしかない、あるいはほぼ同根の価値観を持つものでしかないと腹をくくった地点で、事態を捉えなくてはならないのであろう。

TPPが包括するさまざまな産業分野に即して、また日本の現状に照らして、これに反対する論理を展開することは必要であるが、それはすでに多くの方々によって有効な形で行なわれている。TPPは、現在の構想で実現されるなら、物品貿易の全品目の関税を即時ないしは段階的に撤廃するばかりか、貿易保険、知的財産権、投資、労働、環境、人の移動などにも関わる包括的な協定である。

ナショナリズムによらないTPP批判を

このように人間生活のあらゆる分野を包み込むものであるから、「食」と「農」だけが特別視されるべきものではない。だが、TPP反対論を総体として眺め、「ナショナリズム」の匂いが鼻につくのは、ひとが「食」と「農」について語るときであることが多い。私は、TPP反対の論理にナショナリズム――それは、「国家主義」とも「民族主義」とも解釈されうる。あるいは、言葉遣いによっては「日本至上主義」というべき言動も、ないではない――が入り込む余地をなくすべきだと考えている。

去る2月26日、370人の参加を得て東京で開かれた「TPPでは生きられない! 座談会」(「TPPに反対する人々の運動」主催)での多様な人びとの発言に耳を傾けてみても、反TPPの多様な声のなかには、「国産品を買おう」という声も混じる。「水田耕作を守ることは日本文化の基本」と叫ぶひともいる。それは、私が受ける印象では、東日本大震災以降、「国難」論に基づいて、事態(とりわけ、原発危機)の責任者を名指しすることもなく煽られている「国を挙げての復興キャンペーン」にも似た「国民運動」の呼びかけとも重なってくる。

ひとは、「国産品だから」安心して、買い求め、食するのだろうか。私たちが、どんなにささやかであろうとそれぞれ可能な形で、有機農産物の産地=消費地提携活動や地域内循環(地産地消)に関わっているのは、それはいきなり「国産品」とか「日本製品」を尊重する意識に飛んでいるのではなく、限定的な地域(ローカル)で貌が見える関係性のなかで培われた双方の信頼感を基にしているからである。あの米国においてでさえ、大都市近郊には「地域支援型農業」(CSA=Community Supported Agriculture)が広がり、連帯経済の新しい形態として注目を集めているという(註4)。「国産か否か」が問題なのではなく、「有機か否か」を問うことがここでの問題だろう。直接交流しているわけでもない世界のどこにあっても、同じ志の仲間がいると思うとき、「国産品なら良い」とする意識も言葉も、自然に消えていくだろう。

水田も、日本だけの稲作形態ではない。中国にも、インドにも、パキスタンにも、それは多く見られる。ラテンアメリカ、北米、アフリカ、南ヨーロッパにもそれは見られる。私の世代なら、シルヴァーナ・マンガーノの美しさが忘れられない戦後のイタリア映画『苦い米』を脳裏に浮かべて、あの時代のイタリアにも水田耕作が行なわれていた地域があったのだと思うこともできる。自らが営む水田の光景の美しさや産米の美味しさを言いたいなら、その地元の名や、新潟や宮城の地域名で(ローカルに)表現すればよい。国家名である日本がそこに登場する必然性は、まったく、ない。「日本の水田」の美しさや文化性が、ことさらに強調される謂れは、ない。世界じゅうのそれぞれの地域での生産様式と調理方法・食べ方を等価で表現できる境地へ、私たちの意識が流れていけばよい。

この社会では、「日本文化特殊論」が、ある誇りをもって強調されてきた。それが、排他的な自民族中心主義に容易に収斂していった苦い歴史も、私たちは経験してきた。「日本海」という呼称と同じく、きわめて排他的で、「井の中の蛙」的な論理に落ち込む隙を、私は排除したいと思う。

(註1)メキシコ全国農業生産取引業連合のビクトル・スアレス執行理事の談話(「しんぶん赤旗」2010年12月6日付け、メキシコ駐在・菅原啓記者)

(註2)田代洋一「TPP批判の政治経済学」(農文協編『TPP反対の大義』所収、農文協、2010年)

(註3)この問題性に関しては、宇沢弘文もさまざまな機会に指摘している(「TPPは社会的共通資本を破壊する」内橋克人との対談、『世界』2011年4月号、岩波書店)

(註4)北野収「脱成長と食料・農村」(『人民新聞』2011年1月5日付け)。他に、「地域支援型農業 CSA」で検索すると、インターネット上でいくつもの有意義なサイトを参照することができる。

(2011年4月1日記)