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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[99]オウム真理教幹部13人の一斉処刑について


『反天皇制運動Alert』第26号(通巻408号、2018年8月7日発行)掲載

共謀罪法施行一周年の抗議集会で講演するために、豪雨の大阪へ向かう準備をしていた7月6日朝、オウム真理教幹部の死刑執行の第一報がラジオで流れた。執行後にしか情報が流れない通常の在り方とは異なる「事前情報」であることは、ニュースの言葉遣いから分かった。その後は新幹線の車中にいたために、次々となされる死刑執行の様子が、まるで実況中継のようになされたという一部テレビ報道は現認していないが、執行に立ち会うべき検察官が早朝から拘置所内へ入る姿が撮られている以上、法務省は積極的に事前情報を流したのだろう。テレビ・メディアの「効用」を思うがままに利用したその意図を見極めなければならない。7人の死刑が執行されたことは車中のテロップで知った。残るオウムの死刑確定者は6人。彼らにとっては、これは「予告された殺人宣告」にひとしい作用としてはたらくだろうと思い、その残酷さに心が震えた。

7月26日、翌日に某所で行なう講演「オウム真理教幹部一斉処刑の背景を読む」の準備をしていた時に、第二次処刑のニュースが流れた。合計13人の処刑。すぐに思い浮かべたのは、1911年1月の24日と25日のこと――前日には、「大逆事件」で幸徳秋水ら11人の、翌日には管野スガひとりの、計12人の死刑が執行された史実だった。大量処刑を行なっても世論は反撃的には沸騰しない、と読んでいる安倍政権の「冷徹さ」が、際立って透けて見えるように思えた。

無理にでも心を落ち着かせて、翌日の講演の準備を続けた。いくつかの資料に基づいて、オウムの関連年表を作ってみた。「オウム神仙の会」が設立され、松本智津夫が麻原彰晃と名乗り始めたのは1984年(「オウム真理教」と改称したのは1987年)だったが、松本サリン事件が1994年、地下鉄サリン事件は1995年――という形で年表を作ってみると、創設からわずか10年前後で、オウム真理教は「極限」にまで上り詰めたことがわかる。無神論者の私にして、宗教がもつ始原的なエネルギーのすさまじさを思うほかはなかった。来世や浄土を信じる心が、市民社会に普遍的な「善悪の基準」に拘泥され得ないことは、理念的には、見え易い。だが、近代合理主義からすれば、神秘的なこと/常軌を逸したことへの信念を持つことが、これほどまでに短期間に、無差別殺戮を正当化する暴発に結びついたことには、心底、驚く。

修行中に異常を来した信者を水攻めにして死に至らしめ遺体を焼却した事件や、その事実を知る信者が脱会を申し出たために殺害した事件は、1988年秋から89年初頭にかけてすでに起こっていたが、これはごく少数の幹部の裡に秘匿されていたために、長いこと外部に漏れることはなかった。だが、出家した子どもの親たちが、高額の「お布施」や連絡の途絶に不審を抱いて、被害対策弁護団も結成された後の1989年8月に、東京都から宗教法人の認証を受けているなど、解明されるべきことは多々あることを、あらためて思い知る。89年11月の坂本弁護士事件が、神奈川県警のサボタージュによって捜査の方向が捻じ曲げられたことは今までも触れてきた。その捜査の中心人物たる古賀光彦刑事部長(当時)がその後、愛知県警察本部長→警察大学学長→JR東海監査役という具合に、絵に描いたような「出世」と「天下り」のコースをたどっていることは、寒心に堪えない。安倍政権下で「功績」を挙げた官僚たちが歩む道は、いつの時代にも、敷き詰められているのだ。

その夜の講演で私は、「国家権力とたたかう」オウムが、省庁を設けて担当大臣や次官を任命し、他者を殺戮する兵器や毒ガス開発に全力を挙げたことを指して「国家ごっこ」と呼んだ。軍隊・警察を有する国家が独占している殺人の権限を自らも獲得しようとしたオウムは、悲劇的な形で「国家の真似事」を演じた。一宗教がたどった軌跡から私たちが取り出すべきは、宗教がもち得る危険性への視点だけではない。大量処刑も含めて「国家」が行なう所業への批判も導き出すことができるのだ。(8月4日記)