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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウの長征(3)


キトでホルヘたちと別れるとき、私たちがやがてボリビアへ行くことを知っていながら、彼らは誰かへの伝言を託したり、誰それに会ってほしいと望んだりすることはなかった。軍政下の政治・社会状況は苛烈で、ウカマウのフィルムを持っていただけで逮捕されたり家宅捜索を受けたりする人もいた時代だった。外国人の私たちに「不用意な」ことを依頼して、相手にも私たちにも「迷惑」がかかることを避けたのだろう。

だから、ウカマウ集団の本拠地である肝心のボリビアで、私たちの滞在中にこれといって直接的に関わり合いのあることができたわけではない。だが、広い意味で考えるなら、結果的には、間接的にではあるがさまざまに「繋がる」エピソードがなかったわけでもない。ここでは、そのうちのいくつかのことを書き留めておきたい。

とある講演会でファウスト・レイナガという文筆家に出会った。ラパスの知識人たちが集まっているその講演会が終わりかけたころ、「君たちは、ケチュアやアイマラなどの先住民族の現実を少しも知ることなく、太平楽なおしゃべりをしている」と激しい口調で糾弾したのだ。関心をもって、声をかけた。ケチュア人であった。この人物については、私の新刊『【極私的】60年代追憶――精神のリレーのために』(インパクト出版会、2014年)の第8章「近代への懐疑、先住民族集団の理想化」で詳しく触れた。ご関心の向きは、それをお読みくだされば幸いである。ここでは最小限のみ言及しておきたい。

ファウストには『インディオ革命』など十数冊の著作があるが、いずれも、インカ時代のインディオ文明に対する全面的な賛歌と、翻ってそれを「征服」し植民地化したヨーロッパ(白人)文明 に対する批判と呪詛に満ちた文章で埋め尽くされている。植民地主義の犠牲にされた人びとが、過去から現在にかけての植民地主義を批判するときに、ときどき見られる立場である。植民地主義の論理と心理が染みついている植民者とその末裔たちの在り方を思えば、まずは、この問いかけに向き合わなければならないというのは、私の基本的な態度としてある(ありたい、と思い続けている)。だが、当時ファウストと話していても思ったのだが、対立・敵対している(かに見える)二つの立場を、一方を〈絶対善〉、他方を〈絶対悪〉と捉える立場は、討議・論争を不自由にする。この不自由さは、両者の関係性に負の影響を及ぼす。多くの場合、そのような立ち位置は、植民者の側に加害者としての自覚が欠けているときに現れる、被植民者側の怒りと苛立ちと絶望の表現である、ことは弁えるとしても。

誰にしても、この世に生を享けたときの諸条件が絶対化され、生きていく中で、活動していく中で、思考していく中で――「変わる」ことの可能性が否定されるなら、それはすなわち、人間の〈可変性〉を否定されることを意味する。私は、若いころからの、アイヌや琉球の人びとや在日朝鮮人とのつき合いのなかで、そのことを実感した。

のちにホルヘたちと再会したとき、ファウスト・レイナガのことは話題に上った。ホルヘたちも、当然にも、ファウストのことは知っていて、その立場は往々にして「逆差別」に行き着くしかないのだ、と結論した。私もその意見には同感だった。ウカマウの2005年の作品『鳥の歌』には、スペイン人による5世紀前の「征服」の事業を批判的に捉えようとする白人たちの映画撮影グループに属する一青年に対して、「ここは多数派の俺たちの土地だ。ここに白人は要らない。マイアミにでも行ったら、どうだ」と叫ぶ先住民の青年が登場する。ふたりは激しく言い争いをするのだが、ホルヘたちはここで、「可変的」である人間の価値を、生まれ・育ってきた存在形態の枠組みに永遠に封じ込めて、静的に判断することの間違い、あるいは虚しさを語っているのだと言える。逆に言えば、「矛盾」があるからこそ、その解決に向けて、ひとは行動する。その行動のなかで、ひとは変わり得る。そのことへの確信とでも言えようか。民族・植民地問題が人びとのこころに刻みつける課題は、重い。どの立場を選ぼうと、〈錯誤〉を伴う〈試行〉でしかあり得ない。現在の時点から俯瞰してみると、ウカマウ集団は、この課題と真っ向から取り組んで〈長征〉を続けてきたのだと言える。

あとになっての、もう一つの間接的な「繋がり」――それは、ボリビアと言えば忘れるわけにはいかない鉱山地帯への旅から生まれた。ポトシ、オルロ、シグロ・ベインテ、ヤヤグアなどの鉱山町へ、である。征服者フランシスコ・ピサロの一隊がインカ帝国を征服したのは1533年だが、1545年には海抜4000メートル以上の高地に位置するポトシ鉱山に行き着き、これを「発見」している。銀を求めて人びとが殺到し、ポトシはたちまちのうちに当時の世界でも有数の人口を抱える都市となった。そして採掘された銀はヨーロッパへ持ち出され、それが「価格革命」をもたらしたことは有名な史実である。これまたよく引用されることだが、スペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたのは1605年だが、その中では「ポトシほどの価値」と表現を使って、巨きな富を言い表わしている。もちろん、この繁栄を可能にしたのは、危険かつ過酷な鉱山労働に従事した(強制労働として従事させられた、という方が正確だろう)先住民の犠牲によって、である。ポトシには、博物館となっているカサ・デ・モネダ(造幣局)があって、経済的な繁栄の様子にも厳しい労働のありようにも想像力を及ぼすことができる装置は残っていた。だが、次いで訪れたヤヤグアやシグロ・ベインテの炭住街区の現実には胸を衝かれた。そこは、のちに知ったところによれば、鉱山で働く労働者の宿舎を建てることで成立した集落であり、いわば「野営地」にひとしいようなところを、鉱山労働者とその家族は住まいとしていたのであった。ボリビアの一作家は次のように表現したという。「人間がいかに我慢強いものであるかを知るには、ボリビアの鉱夫の居住区を知るにこしたことはない! ああ! 鉱夫と赤子はなんというさまで、生活にしがみついていることか!」。

私たちがここを訪ねた時点では未見だが、ウカマウは1971年にシグロ・ベインテを主要な舞台に『人民の勇気』というセミ・ドキュメンタリー作品を制作している。1967年6月、鉱山労働者と都市から来た学生たちは、当時ボリビア東部の密林地帯で戦っていたチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する坑内集会を開こうとしていた。これを事前に察知した政府は、夜陰に乗じて軍隊を派遣し、炭住街区を襲撃して大勢の労働者を殺した。この史実に基づいて、鉱山労働者と家族がおかれてきた状況を再構成した作品である。この作品には、シグロ・ベインテの実在の住民で、鉱山主婦会のリーダーのひとりであったドミティーラが出演している。彼女はその後1975年メキシコ市で開かれた国連主催の国際婦人年世界会議に招かれ、政府代表の官僚女性や「先進国」フェミニストの発言に対して、火を吹くような批判の言葉を投げつけた。

帰国後しばらくして、唐澤秀子は、このドミティーラの聞き書き『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人々の物語』を翻訳した(現代企画室、1984年)。炭住街区の様子やドミティーラの思いを日本語に置き換えていく過程で、この時の鉱山町訪問の経験が生きたと思う。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8403-6

(3月14日記)

ウカマウ集団の長征(2)


エクアドルの次にはペルーへ行った。ウカマウとの関係でのみいうなら、ホルヘ・サンヒネスとベアトリス・パラシオスは前年の1974年にはペルーに滞在していて、クスコ地方のティンクイ村を舞台に『第一の敵』(1974年)を撮っていた。結果的には、私たちはこの映画の16ミリフィルムをホルヘたちに託されて、日本での公開の可能性を探るべくその後帰国することになるのだが、75年に二人にキトで会ったときには観る機会を持つことはできなかった。だから、ペルーに滞在している間は、この映画が基となる史実を借用したという、ペルーのゲリラ・民族解放軍(ELN)指導者、エクトル・ベハール(Hector Bejar)が獄中で書いた証言記録( ”Las Guerrillas de 1965 : balance y perspectiva“ 『1965年のゲリラ――その結果と展望』)を読むに努めた。この本の英語訳は、当時ラテンアメリカ解放闘争の記録を積極的に出版していた米国のマンスリー・レヴュー社から刊行されていたので、日本を出る前に読んではいた。だから、まだ映画それ自体は観ないまでも、ホルヘたちが、1960年代のラテンアメリカにおけるゲリラ闘争をふりかえる物語構成を考えた時に、この本の記述に一定依拠したことを本人たちから聞いて、浅からぬ縁は感じた。一年後メキシコでホルヘたちに再会し、『第一の敵』も見せてもらい、さらに話を続けたとき、この映画が参照して描いたのは、ベハールの書の「アヤクチョ戦線」の章からであることがわかった。「アヤクチョ」については、後に触れる。

ところで、著者エクトル・ベハールのその後を知るためにインターネットで検索してみた。リマのサンマルコス大学で社会学を研究する学者になっていた。ペルー国内はもとより国際問題の論評も精力的に書き続けているようだ。現在書いていることの中身を読むのはこれからだが、半世紀前の武装ゲリラ指導者の人生がこんな風に続いているのを知ることはわるいことではない、と思った。→http://www.hectorbejar.com/ ウルグアイの大統領ホセ・ムヒカも、元は都市ゲリラ・トゥパマロスの活動家で脱獄経験もあるし、ブラジルの大統領ジルマ・ルセフも軍事政権下では非合法の左翼組織に属して武装闘争にも関わっていた、という。このような経歴の人物が、初志の延長上で(おそらくは、緩やかな変化を遂げながら)政治や研究の世界の前線にいるのだから、ラテンアメリカの社会は、変わることなく、おおらかで、懐が深い。もちろん、元ゲリラたちの資質と生き方にも、社会が受け入れる何かが備わっていたのだろう。

リマで読もうとした(十分に理解できたとは言えない)もう一冊の本は、詩人、ハビエル・エラウド(Javier Heraud)の詩集だった。1942年生まれの彼は、早熟な才能を示した詩人だった。キューバに留学していたが、密かに帰国した時にはベハールと同じELNに属していて、すぐにゲリラ根拠地に入り63年政府軍との戦闘に斃れた。21歳だった。日本にいる時から彼の名は聞いていて、作品を読みたいと思っていたのだ。詩の真髄を理解するには、私のスペイン語読解力は不足していた。後智慧だが、作家、バルガス・リョサはハビエルの親友で、その死に際して心に染み入る追悼文を書いた。当時のリョサは、キューバ革命を熱烈に支持し、一般論としても社会主義的な未来に希望を託している段階だったのだ。その後の彼の思想的変貌の過程には、上に触れた人びととは異なる次元だが、私は興味をそそられていろいろと参考文献を読み、「憂愁のバルガス・リョサ」という文章を『ユリイカ』1990年4月号に書いた(太田著『鏡のなかの帝国』所収、現代企画室、1991)。こうして書いていると、〈過去〉と〈現在〉が自由気ままに往還していくが、そこに何かしらの「繋がり」が見えてこないこともない点がおもしろい。

40年前に話を戻す。首都リマにしばらく滞在した私たちは、世界最高の高度を通る列車に乗ってアンデスを越え、以後ワンカーヨという町からクスコへ着くまで、地元の住民が利用する乗り合いトラックに乗って、途中のいくつかの町に泊まっては旅した。初めて目にするアンデス高原を幌もなくひた走るトラックの上は、風は冷たく、寒かった。ごく稀に停留所があって、町の市(いち)に物売りに行ったのだろう先住民の農民がひとり降りて歩き始めたりするのだが、見渡すところ人家も人影もまったく目にすることができず、いったいあの人はどれほどの距離を歩いて目的の家にたどり着くのだろうと、訝しく思ったりもした。トラックの上に残って旅を続ける者(都会から来た人間だったろう)からは、「おーい、こんなところで降りて、家はあるのかい?」などという声が投げかけられたりした。のちに『第一の敵』を観ると、先住民はまさにあの高原を、途方もない長い時間をかけて、勁い脚力で歩いているのだった。

途中にアヤクチョという町があった。スペイン植民地からの独立をめざすシモン・ボリーバル指揮下の軍隊がペルー副王軍と戦って勝利した会戦の場所だから、歴史書にも出てくる地名で、記憶にはある。夜更けに着いた町のホテルは、なにかの会議開催中とかで旅人が多く、空きはなかった。宿にあぶれたペルー人と外国人旅行客の数は数十人のかたまりになった。夜中に空いている公共機関は警察しかないな、と誰かが言い、みんなで警察署を訪れた。当直の警官と押し問答を繰り返した挙句、それなら仕方がない、ここに泊まっていいといって、彼は留置場を解放してくれた。

翌日、アヤクチョの町を歩いた。さまざまな意味合いで、「アンデス最深部」という言葉が浮かんでくるような町だった。「先住民性」を色濃く感じたせいだろう。ちっぽけな書店に入ると、『アメリカニスモ』辞典があった(”Diccionario de Americanismos “, Alfred N. Neves, Editorial Sopena Argentina, 1973)。「正統派」のスペイン語だけではない、ラテンアメリカ各地で使われる先住民の母語に派生する語句、いくつかの言語の混淆語などの特有の単語が収められている。何の役に立つかも知らぬまま、辞書好きの私は買い求めた。それには、アンデス先住民の母語であるケチュア語やマイマラ語の単語もけっこう収められていて、結果的には、その後ウカマウ集団の映画を次々と輸入して、字幕の翻訳作業を行なう時に少なからぬ働きをしてくれることになるのである。すでに述べたように、ウカマウの映画には、ケチュアとアイマラの民が常に登場し、その言語がスクリーン上に炸裂するからである。

こうして、アヤクチョの町も、ウカマウとの関係で何かにつけて思い出される町となった。この訪問から5年後の1980年、アヤクチョ地域を根拠地とした反体制武装運動「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」の活動は開始される。これは、ベハールの時代のそれとはまったく異なる性格を持つ運動で、その性格に深い衝撃を受けた私は、カルロス・I・デグレゴリ他著『センデロ・ルミノソ――ペルーの〈輝ける道〉』と題する翻訳書を出版して、長文の解説を付した(現代企画室、1993年)。それはまた、別な物語となるので、ここで止めておきたい。

(3月13日記)