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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

他者不在の、内向きの「日本論」の行方


『季刊ピープルズプラン』61号(2013年5月30日発行)掲載

安倍晋三という政治家は、首相として初登場したときは「美しい国へ」という言葉で、挫折から5年半後に再登場したときには「新しい国へ」いう言葉で、日本の現状と行く先を語った。そこでイメージされている「日本」とはどういうものかを検討することが、ここで私に課されている問題である。この書のレベルを思って、そんな意味があるのか、とは問うまい。安部の登場と再登場の意味を考えるということは、ここ数十年における保守思想の流れのなかに、なぜ極右派が台頭したのかを考えることである。そのために、時代を少し遡った時点から始めたいと思う。(『美しい国へ』は2006年7月、文春新書。『新しい国へ:美しい国へ 完全版』は2013年1月、文春新書)。

(1)

一時期、私は「右派言論を読む」という作業を続けていた。集中した時期を大まかにいえば、1990年代初頭から21世紀にかけてであったと思う。自分なりに切迫した問題意識に駆り立てられていた。時代背景には、ソ連・東欧社会主義圏の無惨きわまりない体制崩壊があった。それと同時期に起こった東西冷戦構造の崩壊、イラクのクェート侵攻を契機にしたペルシャ湾岸戦争もあった。社会主義の実質的な敗北状況を見て、左派言論はみるみるうちに活力を失った。ソ連型社会主義を、「真の社会主義」の立場から夙に批判してきた者にも、ソ連崩壊はボディブローとして効いてきた。対照的に右派言論は沸き立った。「戦後の論壇は、長いこと、左翼に乗っ取られていた」と、なぜか、誤解している彼らは、ついに「われらの時代」がきたと思っているようだった。以前から、産経新聞社刊の『正論』や文藝春秋刊の(いまはなき)『諸君!』などの月刊誌は、右派言論の場として刊行されていたが、その誌面が格段に活気づいた。だが、傾聴に値する、落ち着いた論調の文章は次第に消え、ともかく進歩派と左翼に悪罵を投げつけて溜飲を下げるといった調子の、極右派の文章が増えた。その意味で、右派言論の質の低下は、隠しようもなく顕わになっていた。

それでも、その種の言論が従来とは比べものにならないほどに社会的な基盤を持ち始めている、という判断を私はもった。とりわけ、漫画家・小林よしのりによる近現代史をテーマにした一連の漫画作品が若者の心を熱狂的に捉えていることを知って、小林が描く世界に関心をもった。そして、いかなる暴論でも、それを受容する社会的な雰囲気があるときはそれを無視して済ませるわけにはいかないという考えを日ごろからもつ私は、「右派言論を批判的に読む」という課題を自分に課したのだった。

切実な課題は、逆の方向からもやってきた。良質な右派言論には、また左翼を罵倒するだけの下品きわまりない文章であっても、進歩派や左翼が持つ論理や歴史観の「弱点」を射抜く論点が、ときに見られた。それはとりわけ、ナショナリズムを問題とするときに否応なく立ち現われた。「左翼ナショナリズム」は、体制側のナショナリズムや、私が批判の対象としていた司馬遼太郎の近代日本の捉え方とも重なり合う貌をもってしまうからである。自分の外部にいる「敵」は撃ちやすい。だが、それが自分の内部にも巣食っているのかもしれないと自覚するとき――そのような「敵」に対しては、避け得ぬ課題として向き合わざるを得ないのである。

このような動機から、前世紀末のほぼ10年間、私はひたすら右派言論を読み、それを批判する作業を行なった。質が著しく低下した文章が載った単行本や雑誌を購入するために身銭を切るという意味では悔しく、それをたくさん読まなければならないという意味では虚しく、だがそれは同時に自分(たち)をもふりかえる作業であるという意味では貴重な試みではあった――と、(個人的にではあるが)今にしてふり返ることができる。

やがて21世紀が明けた。自民党内では傍流であった小泉純一郎という政治家が前面に登場したことによって、「政治」を語る言語状況が大きく変化した。論理も倫理も政治哲学も徹底して欠く小泉用語が、大衆的な支持を獲得するという時代が到来した。非論理的な言葉による「煽動政治」である。それは、前世紀末にメディア上に台頭した右派言論に向き合うこととは別な意味で、虚しさが募る時代であった。言論は劣化し、政治も劣化度を増すばかりであった。野党勢力も、政府に政策論争を挑むよりは、閣僚のスキャンダル探しに明け暮れるようになった。「政治の話題」は、その意味ではテレビといわゆるお茶の間を賑わせたが、それが「政治」の本質とは無関係であることは自明だった。

5年間に及んだ小泉時代が終わって後継者に指名されたのは、これまた時代が時代であれば保守本流にはなり得ないはずの、安倍晋三という極右政治家だった。「美しい国へ」というのが、この男が持ち出した〈政治的〉メッセージであった。その後首相となる麻生太郎も「とてつもない日本」という惹句をもって登場した。いずれも、歴史と現実に向き合う姿勢を放棄したまま、夜郎自大的に「日本」を誇示するという、成熟した大人なら口にするのも気恥ずかしさを伴うような類の表現であった。それを臆面もなく言い立てるところに、この時代の極右保守政治家の幼児性が現われていた。冒頭で触れた右派思想の劣化は、ここまできたのか、と嘆息するほかはない状況ではあった。

だが、改憲の意図を明確にもち、近代日本が歩んだ歴史過程(それを象徴するのは、他国の植民地化と侵略戦争である)を肯定的に解釈しようとする安倍が前面に登場したからには、しかもそれが一定の支持率を獲得しているからには、私は仲間と共にその政治観の空しさに堪えながら、彼の言動への注目を怠ることはできなかった。ところが、安部は病気を理由に1年後には政権を放り出した。多くの予想に反して、短命に終わったのだ。私は、それから数年後の2009年、事後的に安倍政権の性格についてあらためて分析する機会をもった。拉致被害者家族会の元事務局長・蓮池透との間で「拉致問題」をめぐって対話を行なったときのことである。その結果は、『拉致対論』と題して出版されている(太田出版、2009年)。

そのころ、蓮池はすでに初期の立場を離れて、北朝鮮の政府に対して「拉致問題の優先的解決」を譲らない、強硬一本槍の政策を主張する家族会とそれに追従するばかりの政府の路線に対する深い違和感を表明していた。異論を持つ者同士の間にも対話の時期がきたと考えて、私は蓮池に対談を申し入れた。4回に及ぶ非公開の対談においては、「拉致問題の解決のために最も熱心に努力してきた政治家である」との自負をもつ安倍について、語るべき多くのことがあった。蓮池は、安倍に対して「一定の世話にはなった」との思いがあるであろうと考えて、その批判的な分析は私が引き受けた。

安倍は、「政界」の内情を詳しく追跡している上杉隆によれば、内輪の集まりの場では「北朝鮮なんて、ぺんぺん草一本生えないようにしてやるぜえ」とか「北なんてどうってことねぇよ。日本の力を見せつけてやるぜ」といった言葉で強がりをいう人間であった(上杉隆『官邸崩壊』、新潮社、2007年)。首相になってからは、いつでもどこでも本音を口にするという態度を戦術的に止めてはいたようだが、周知のように、1年間の首相在任中に、拉致問題は解決に向けて一歩たりとも進展しなかった。逆に安部にしてみれば、「拉致問題への熱心な取り組み」は、意外な地点で裏目に出た。「拉致には熱心な安倍は、旧日本軍の性奴隷、従軍慰安婦問題の誠意ある解決には、なぜ、熱心でないのか。ひとしく人権侵害問題であるのに」という批判が、米国政府高官や主要メディアから沸き起こったのだ。そのころ、安部の表情は憔悴をきわめているように見えた。前任者が、いつも颯爽たる振る舞いの小泉であったから、それは見事なまでに対照的だった。案の定、数日して安倍は記者会見を開き、病気のため辞任すると語った。

(2)

「美しい国」日本などという、およそ政治とも思想とも無縁なイメージを掲げて登場した安倍は、実際のところ、何に躓いて挫折したのだろうか? 他者不在の、自己中心性がゆえに、である。

短く、安倍の経歴をたどってみる。安倍の述懐によれば、ある家族から、イギリスに留学していた娘が北朝鮮にいるらしいから助け出してほしいとの要請があったのは、彼が自民党所属の国会議員であった父親の秘書をしていた1988年のことである。それ以降、死んだ父親の後を継いで1993年に衆議院議員に初当選する転機の時期を挟んで、拉致被害者家族会と拉致議連が結成される1997年までのおよそ10年間、安倍は確かに、自らが属する自民党の中にあっても「奇異」に見られるほど拉致問題の解明に取り組んでいたようだ。「孤立無援に耐えながら自分だけはいち早く拉致問題に取り組んだ」という自負も顕わな安倍自身の著書を離れて、客観視するために他人の書物も参照してみよう。元共同通信記者で、安倍の父親が現役であった時代から自民党を担当していた野上忠興の著書『ドキュメント安倍晋三――隠れた素顔を追う』(講談社、2006年)を読むと、秘書時代の1988年に拉致事件のことを初めて耳にした安倍が、2002年の日朝首脳会談に至るまでの10数年間に、ただひとつ、この拉致問題を通して、自民党およびその主導下にある政府の中枢に上り詰めていった過程が、よく理解できる。当時としてはめずらしく、自民党の党内秩序である年功序列を壊して、相対的には若かった安倍が森政権(2000年7月)と小泉政権(2001年4月)の二期連続で官房副長官に任命された。それには「運」にも恵まれたと野上は書いているが、この地位に就いていたことが、2002年9月の小泉訪朝の際に、安倍が随行する機会に繋がるのである。

安倍の観点からすれば、小泉訪朝計画は、当時の官房長官・福田康夫と、外務省アジア・大洋州局長・田中均という、いうところの「対北朝鮮融和派」によって推進されていた。拉致問題については何かと口出しする「うるさい」安倍は、徹底して蚊帳の外におかれていた。それは、首脳会談から1ヵ月後に実現した拉致被害者5人の「帰国」後の処遇をめぐる論議の時点まで続いている。今後の交渉を進展させるためには「10日間程度の一時帰国だとする北朝鮮との約束を守る」べきだとする田中=福田ラインに抵抗して、安倍は田中に「あんたは北朝鮮外務省の人間か!」とまでなじって、5人の残留を主張した。安部の主張は、北朝鮮に残る子どもたちを思う苦悩の果てに残留を決意した蓮池薫ら被害者自身の選択と、結果的に合致した。この時点で、安倍は、拉致問題での政策路線をめぐる政府内および党内の闘争に勝利したのだと言える。その背景には、北朝鮮との実効性のある交渉よりも強硬な態度を優先的に求める、戦後最大の圧力団体=拉致被害者家族会の存在がある。その意向を慮って、疑問も批判もいっさい封じ込めて、家族会の考え方に追随するばかりのマスメディアと世論の動向もある。安部がこの時期について、直接的に言及している言葉は少ないが、周辺の関係者は当時の安倍の「余裕ある」態度を語り伝えている。「世論」を味方にしていると確信した安倍が、この上ない自信をもってふるまっていることがわかる。

深刻な問題は、これ以降に起こる。2002年9月の日朝首脳会談以降現在までの11年もの間、対北朝鮮政策は、その時点で融和派に「勝利」した安倍らが敷いた路線上で展開されてきた。民主党政権の時代とて、それに変化があったわけではない。その間に何が起こったのか、と問うことも虚しいほどに事態は何ら動いていない。むしろ、両国間関係は悪化している。自らが政府に強要した路線の必然的な結果とはいえ、拉致被害者の年老いてゆく家族の焦燥はつのるばかりである。

理由は明白だ。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」という、安倍らが主張する牢固たる態度が、問題を解決するためのすべての出口を塞いでいるからだ。安倍は、先述の著書のなかで、「ほんらい別個に考えるべき、かつての日本の朝鮮半島支配の歴史をもちだして、[北朝鮮に対する]正面からの批判を避けようとする」勢力がいることを批判している。安倍は、ついうっかりと、この箇所を書いてしまったようだ。北朝鮮側は、ほんらい別個に考える「べき」植民地支配の清算問題を、当然にも持ち出す。為政者としての安倍は、ほんらい別個に考える「べき」問題については、いっさい言葉を発せず、方針も示さないままでいる。安倍はこの問題を「別個に」考えたことが一度でもあったのだろうか? 拉致と植民地支配という2つの問題は、「別個に」ではあっても「同時に」考える「べき」問題だということは、外交関係の相互性からいって、当然のことである。安倍は、「美しい国」の抽象的なイメージを守るために、歴史に直面することをあくまでも避け続けるのである。

安倍の流儀で「歴史」を語るとすれば、次のようになる。「拉致問題は現在進行中の人権問題であるが、植民地問題や従軍慰安婦問題はそれが今も続いているわけではないでしょう」。「別個に考える」という発言の本音は、ここにある。「現在」と「過去」の間に高い壁を設けて、後者は「考えない」ことにするのである。しかし、歴史に関わる問題は、安倍の皮相な思いを超えて展開する。清算されていない「過去」は「現在」の問題として、人びとの意識と現実の中に存在し続けるのだ。ましてや、安倍は、「清算されるべき過去」を、実は、歴史修正主義の立場から「認めたくない」、できれば「肯定的に捉えたい」「美化したい」という本音に基づいて、非歴史的な思考回路をもつ「美しい国」論者である。そうである限り、「過去」を記憶する者は、「忘却したい」者の追跡を止めることはない。

そのような安倍を待ち構えていたのが、次の矛盾である。2000年に「女性国際戦犯法廷」が東京で開催され、「慰安婦問題」と「昭和天皇の戦争責任問題」が真正面から審理された。この法廷についてNHKが制作した番組内容に、安倍ら「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が政治圧力をかけて、当初企画されていた番組内容が改竄された。このように、安倍にとっては、慰安婦制度は「美しい国」神話を守るために国家責任から解除し、あくまでも民間業者や「慰安婦」自身の「商行為」であるという範囲に押し止めなければならない問題であった。マスメディアが総体として、真実・事実を追及する姿勢をとみに失っていく状況の下で、日本国内では、安倍のこの詐術は一定の効果を上げていたのかもしれない。反撃は、思わぬところから跳んできた。米国から、である。『ワシントン・ポスト』などの主要メディア、議会、米国政府内「知日派」からすら、「拉致問題」と「慰安婦問題」(米国では、「性奴隷問題」と呼ぶほうが一般化している)という人権問題をめぐる「安倍晋三のダブル・トーク(ごまかし、二枚舌)」が公然たる批判にさらされたのである。彼は支柱と仰ぐ米国首脳部からの批判に精神的に堪えかねて、そこへ身体的不調も加わって、2007年9月の辞任に繋がった。当時の報道を見聞しながら、私はそう捉えていた。

すなわち、安倍がいう「美しい国」日本は、他者との関係で物事を考えなければならなくなるときに、即座に崩れるしかない程度の、脆弱なものであることを自己暴露したのである。

(3)

作家の辺見庸は、2007年秋、自分が入院している病院の廊下で、みな無言で浮かない顔をした背広の一団に出会った情景を描いている。

「男たちの群れの中心に、糸の切れたマリオネットのように肩をおとし、やつれはてて、生気をうしなった人間の横顔があった。いっしゅんだけ、そのひとと視線が交叉した。と、彼はすぐによどんだ目を伏せた。たじろいだのは、そのひとが体調不良を理由に辞意を表明して間もない首相だったからではない。そのとき、かれがふだんの「凶相」をしてはいなかったことと、すっかりしおたれた男の暗愁に、なんだかこころやすさをかんじてしまって、われながらとまどったのだった」(『水の透視画法』あとがき、集英社文庫、2013年)。

だが、それから5年後の思いを、辺見は続けてこう書いている。「最近、首相にかえり咲いた男をテレビで見たら、以前よりももっとこわい凶相をしていたのでぎょっとした。(中略)この世は、予感のとおり、まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」。

その昔、『政治家の文章』という好著を書いたのは作家の武田泰淳だった。それを読んで以来、私は、政治家の「文章」と、ついでに「面相」も、その人物の真贋のほどを見極める一助として観察するに値すると思うようになった。いまテレビを点け、新聞を開けば、政治指導部には辺見がいう「凶相」が勢ぞろいしている。それらの者たちはこぞって、敵対諸国を前に世界に稀な国として「日本」を誇る言動を繰り返し、閉鎖的な国家意識の中に人びと(国民、と彼らはいう)を閉じこめようとしている。彼らが、ひとり孤立している存在ならばたいしたことではない。辺見がいうように、この世が「まっしぐらに黒い地平につきすすんでいる」のは、この政治勢力が、民衆の無視できない規模の支持を得ているとしか思えないからである。

安倍を含めて卑小な国家指導者は、18世紀末以降ヨーロッパに構成され始めた近代的国民国家の枠組が永続的に続くものであるかのように、ふるまう。だが、1991年12月のソ連邦の崩壊は、現状では多くの人びとがこれなくしては生きてはいけないと考えているのかもしれない「国家」というものが、いかに脆く、儚いものであるかを証明した。「9・11」以後や「3・11」以後の国家社会のあり方をふりかえるとき、とりわけ論理も倫理も欠いた国家指導部を見ていると、これほどまでに理念的に貧しい連中に牛耳られている「国家」など、早晩崩れ去るほかないのではないか、人類は「国家」とは別な社会組織をつくらなければならないのではないか、という思いがこみあげてくる。

もちろん、国家を即時廃止することはできない。だから、「国家」の枠組みを尊重しながらも、各国の社会的在り方に規制を掛ける国際条約の試みが1960年代から着実に続けられてきた。私の関心の範囲で、ごくかいつまんでいくつかを挙げると、以下のようなものがある。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)」と「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」(1966)、「死刑廃止国際条約」(1989)、「組織的強姦、性奴隷、奴隷用慣行に関して被害者個人及び国家の権利及び義務を平和条約、協定などの手段によって国際法上消滅させることはできないことに留意する決議」(1999)、「先住民族権利宣言」(2007)などである。このリストは、長く続く。そして、これらの国際規約の精神をそれぞれの国で実効あるものにするためには、まだ長く歩まなければならない道程もある。だが、これは、国民国家の内向きの強制力が弱まってきたことを背景にもつ、主要には「人権」をキーワードに、国家を超えた共通の価値観をつくり出そうとする努力の表われである。

世界の、この大きな流れを見るとき、特定の「国家」の歴史、伝統、文化などに意味なく拘泥し、他者との関わり/関係性のなかで己を見つめる契機をもたない世界観を待ち受ける運命は明らかだろう。安部晋三の「日本論」を、そんな時代の仇花として、支配層ではなく民衆レベルの「国際化」の流れの中で、泡と消し去ること――それが、東アジアと世界に安定的な平和をもたらすために、私たちが担うべき「国際連帯」の課題である。

【付記】この文章の一部に、最初の安倍政権が成立した直後に書いた、私の以下の文章から流用した部分があることをお断りします。『「拉致問題」専売政権の弱み』(派兵チェック編集委員会編『安倍政権の「戦う国づくり」を問う』、2007年4月)

(4月17日記)