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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

二〇一二年新春二話 


『支援連ニュース』343号(2012年1月27日発行)掲載

一、原発事故から見えてくるもの――男性原理の派生物

福島原発の事故直後から、多くの人びとの目に焼きついたであろう光景があった。東京電力の経営者・原発担当の幹部、政府の関係閣僚、原子力政策を推進してきた関係省庁の官僚、原子力の専門家――大勢の人びとが、連日のようにカメラの前でしゃべった。その光景である。多くの場合、その物言いが率直さも誠実さも欠くものであることは一目瞭然であった。事故の実態を軽いものとして見せかけようとして、何事かを隠して事実を言わない、言葉遣いによってごまかす――それは、観ている者をして疲れさせるほどに徹底していた。その画面を見ながら、異様なことに気づいた。男しかいないのである。カメラの前に立ってごまかし言葉を話し続ける者も、話す男を一人孤立させるのは忍びないから一緒にいてやるよといった感じでそばに居並ぶ者たちも、例外なく男なのである。

そして思い出したのは、次の挿話である――某テレビ局の女性ディレクターに尋ねられたことがある。「なぜ、男は黙るのか」という番組を企画したことがある。男に対して女がもつ疑問や怒りは、口論になったり、男の振る舞いの欠点を女が指摘したりするときに、男というものは、ほぼ一様に黙りこくったりごまかしの言葉をもてあそんで話の筋道をずらしてしまう点に向けられている。番組をつくってみると、傍から見るとこの人(男)は相当イケていて、普通の男とは違うだろうなと思い込んでいた人でも、その「癖(ヘキ)」は多少なりとも抜け切れていないことがわかった。あなたはどうですか? というのである。私は、あれこれの自分の個人史を思い出し、このような問題に自覚的なつもりでいる私も、まだまだ緩慢な「成長過程」でしかないな、思い当たる節があるなと思い、そのように答えざるを得なかった。

原発事故でマイクの前に立たされている男たちは、少なくとも「黙ってはいない」。語ってはいるが、その言葉遣いがごまかしに満ちている点で、一般の男なるものの類例の裡に入るのである。しかし、彼らは、単なる男ではない。その背後には、政治権力があり、電力の発電・送電の独占権力があり、専門知を誇示する知的権力がある。存在論的に言うなら、いずれも広い意味での支配階級に属しているといえよう。この連中を、「権力を背景に持った男の論理」の巣穴から引きずり出すのは容易なことではない、と私は思ったのだった。

同時にまた、私は、4年有余前に亡くなったことが悔しくてたまらない、愛読する美術史家、故若桑みどりさんの言葉も思い起こしていた。「男たちが戦争を起こしてきたのだから、今度は女性たちが平和をつくらなければならない」(『戦争とジェンダー――戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』、大月書店、2005年)。私は戦争廃絶・軍隊解体の論理はここから導くべきだとこの間考えてきているが、脱原発に向けた運動でも、ここに突破口があると思ったのだ。

ここでいう男と女が、生物学的なオスとメスに重なり合うものならば、オスである私には出番がない。もちろん、この「男」とは、家父長制的な男性原理による社会の支配の正当性を微塵も疑うことのない存在を指しているのだから、そこには、メスとしての女も、彼女が有する価値観次第では含まれることもあるということになる。言葉を換えると、「平和をつくりださなければならない女性たち」に、たとえば曾野綾子や塩野七生や工藤美代子や小池百合子や猪口邦子などは金輪際入れることはできないが、(おこがましくも自分を引き合いに出すなら)私を入れることはできるのである。

3・11以降の反原発・脱原発の運動は、基本的にこのような方向性で展開されてきており、私はそのことを好ましいと考えてきたが、最近次のような意見を目にした。反原発情報の発信に努めてきたたんぽぽ舎のメール・ニュースを読んだ読者からの反応である。最近の反原発運動では、「女」「母」「孕む」などの言葉が強調されていて、「母」にも「孕む」にも関係のない独身女性はこんなところでも見捨てられたのか、という気分になるというのである。この人は「放射能に男女差別はありません」とも書いている。これは、幼い子どもや妊娠する可能性をもつ若い女性に及ぼす放射能の危険性が当然のことだが医学的に強調されてきており、それが「母」や「孕む」に一面的につながっていくこと、今や反原発運動のシンボルと化した経産省前テントで座り込みを行なっている福島の女性たちが、その行動を妊娠期間に因んで「とつきとうか(10ヵ月と10日間)」と名づけていることにも関連してくるのだろう。このような言葉に覆い尽くされていく運動空間、という捉え方が事実に即しているならば、それに違和感や疎外感を抱く人びとがいるということも頷ける。いずれにせよ、傾向性を持つ何らかの言動を全否定するところに問題の本質はなく、脱原発を目指す人びとが普遍的に繋がり得る理論と実践が、どこにあるかを冷静に探ることだと思える。生物学的なオス・メスから派生する問題をすべて排除することはできないが、戦争や原発を許してきた構造上の問題を、人間が歴史的に、文化的に、社会的につくりあげてきた「男性性」「女性性」に起因するものとして把握することが常に重要なのだと強調しておきたい。

二、大量死を見てなお叫ばれる「死を待望する声」

『死刑映画週間――「死刑の映画」は「命の映画」だ』――を「死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90」で企画した(2月4日~10日、東京渋谷・ユーロスペース ☞http://www.eurospace.co.jp/)。内外の映画10本を上映する。チラシをまいていると、いろいろな反応に出会う。心が弱っているときに、こんなにしんどい映画を立て続けに見せるの? 重いなあ、人生にはいろいろな辛いことがあり過ぎて、この歳になってもまだそれを続けなけりゃならないの? 見逃した映画がいっぱい、いいチャンスだから、出来るだけ行くよ。いろんな映画週間の企画があるけど、これほど、あまりに内容が暗くて観客が敬遠し、経済的にうまくいくはずのない企画も珍しい。講演者のメンバーをよくここまで集めたね……。

これらの感想には、部分的には同意する点もなくはない。私たちの企図は次のようなところにある。死刑の問題は、社会の表層で語られれば語られるほど、煽情的・煽動的なものになる。むごい犯罪があって死者が生まれ、それを実行した特定の人物がいる以上、その人間は自らが犯した犯罪の質に対応した「応報」の処罰を受けなければならない。死刑制度が存在しているからには、それを甘受するのだ――この「論理」が、ただひたすら尊重されて、現在のこの社会における犯罪報道・裁判報道はなされている。「世論」は哀しい。メディアのこの煽動に鼓舞されて、形成されてゆく。だが、ひとたび、文学・映画・演劇など人間が(創造者として、またその受けてとして)育て上げてきた芸術の分野に目を移すと、そこでは人間社会にあっては避けて通ることのできない問題として、犯罪・罪と罰・死刑・贖罪・転生・再生などの問題が扱われている場合がある。紙幅がないから、例は挙げない。誰もが、何点かの作品名を挙げるに違いない。それこそ、私たちが掘り進めるべき道だ。

読書なら、ひとりひとりの個人の努力と探究の範囲内で、或るテーマについてまとめ読みすることは可能だ。映画はそうはいかない。重たいテーマに関わる映画週間など、このカルーイ時代においては、他人任せでは実現不可能だ。やってみようということで、今回の実現に漕ぎつけた。深く、広く、問題の根源に立ち戻って考える契機をつくりたい。

震災と津波が生み出した大量死と、原発事故が招き寄せている計測不可能な数の近未来の死をこんなにも目撃せざるを得なかった悲劇的な年の終わりに、私たちがこの社会に見たのは、次の光景だった。15年前後前、間違った宗教的信念に基づいて大量殺人を犯した宗教集団メンバーに関わる死刑事犯の審理が終了し、すべて死刑確定者になったからには、その「教祖」から直ちに死刑を執行すべきだとする世論煽動である。

仮りに対象が凶悪犯罪者であれ、その「死を待望する」言論の台頭という雰囲気はいかがわしい。「いやな感じ」だ。別な考え方があり得るよ、と提示する基本的な作業だ。ぜひ、多くの方々に劇場まで足を運んでいただきたい。(1月26日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[23]「敵」なくして存在できない右派雑誌とはいえ……


反天皇制運動『モンスター』25号(2012年2月7日発行)掲載

上丸洋一というジャーナリストが、『諸君!』や『正論』という雑誌は『「敵」を必要とする、自己の存在理由を「敵」に依拠する点、アメリカという国家に似ている』と述べたことがある。産経新聞社発行の『正論』は、今なお健在で、次々と臨時号も出しているから、街なかの書店を覗いて雑誌コーナーへ行くと、幾種類もの『正論』が面出しで並んでおり、そのそばには『歴史通』だの『SAPIO』だの『撃論』だのの〈粗雑〉誌があって、その表紙や目次を見ると、彼らからすれば「敵」に他ならない中国か北朝鮮との間で戦火が今にも火を吹くかのような雰囲気が煽られていて、すさまじい時代に生きているものだなあ、という感じがつくづくする。

居丈高なナショナリズムを煽る諸雑誌が居並ぶそのコーナーから『諸君!』が消えたのは、いまからおよそ3年前の2009年5月のことだった。消えた理由は覚えてもいないが、今になって、それが突如復活したのである。文藝春秋2月臨時増刊号『諸君! 緊急復活 北朝鮮を見よ!』である。かの国では、金正日総書記が死去し、その三男正恩氏が後継者に就任したが、かくしてついに三代にわたる世襲制が登場した機を掴んでの復活である。「敵」が蠢動すると自らも活気づく性質は、確かに上丸が言うように、文藝春秋社には変わらず宿っているものらしい。

私はかつて「右派言論を読む」作業を自分に課していた。ソ連崩壊前後からだから、もう20年ほど前になるか。私が見たところ、そのころ、体制への対抗言論はずるずると後退し始めた。同時に、勝利を謳歌する右派言論の台頭が目覚ましかった。読むに堪えない煽動と悪罵の言葉は多かったが、それが一定の人びとの心を捉えているからにはその根拠を探らなければならず、また我慢して読めばその言動には進歩派と左派の「弱点」を衝くものもないではないというのが、私の考えだった。(今日であれば、コネのある人しか採用しないと公言した岩波書店の偽善性を衝き、「進歩派・左翼の正体を見た!」という言動を嬉々として行なうだろう)。そこに私たちの現在を照らし出すものがあるならば、そこすら学びの場と思うほど、私たちはゼロの地点に立っていると考えていた。その思いだけで、激烈な言葉が満載の右派雑誌を買い求め読むという、経済的にも時間的にも虚しい行為を長いこと続けていた。お蔭で、進歩派と左派を客観化する姿勢が、私には身についた。

『諸君!』は、その間必読の雑誌であった。私にはそこまでの時間はなかったが、冒頭で触れた朝日新聞記者・上丸洋一は、右派雑誌の目次をデータベース化し、関心のある論文をすべてコピーして読み、『『諸君!』『正論』の研究――保守言論はどう変容してきたか』(岩波書店、2011年)という大著を著した。靖国神社を国家管理に移すことを企図した「靖国神社法案」が初めて国会に提出された1969年に『諸君!』は発刊されたが、それ以降40年間の保守言論の変遷を知るうえで、実に有益な書物である。

今回「緊急復活」を遂げた『諸君!』は、上丸がこの書で分析したように、相変わらず自らを問うことなく、外部の「敵」のあり方のみを言い募る点で、伝統を墨守する内容であった。植民地支配・侵略戦争・従軍慰安婦などの諸問題について、謝罪したことも謝罪する気持ちも、おそらく持たない人間が、「日本はいつまで謝り続けなければならないのか!」といきり立つ様が貫徹しているのである。自衛隊元特殊部隊隊長に「命令があれば拉致被害者は奪還できます」と語らせて「我国には任務の犠牲になることをいとわない覚悟の優れた特殊部隊がある」ことを誇示しているほどである。

それでも読みでがある記事と言えば、ソウルで収録された『脱北「知識人」大座談会』だろう。6人の共和国難民が脱北の経緯、金正日という人物、死後の状況などについて語り合っている。それは、5号を数えるに至った『北朝鮮内部からの通信 リムジンガン』(アジアプレス出版部)の内容とも響き合って、かの地の実情を垣間見せてくれる。虚偽で厚化粧した三代世襲体制が持続している限り、これを恰好の「敵」に見立てた言論が一定の力をもって日本社会に浸透していく。ここから私たちは逃れるわけにはいかないのだ。

(2月4日記)