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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

民族問題の発信支えた「フチ」たち――チャランケ:聞く・語る・考える


『北海道新聞』2011年10月11日夕刊道東(釧路・根室)版掲載

来年になると、釧路を離れて50年目だ。この50年間関東圏に暮らしながら、異なる民族同士がどんな関係で生きていくことができるかが大事な問題だと考えてきた。釧路時代に同じ小学校で学んだアイヌの友人と30年ぶりに再会したのは1980年代半ば、昨年亡くなったチカップ美恵子さんが起こした肖像権裁判を支援する集まりの場であった。その友人は、関東圏に住むアイヌ女性たちの「レラの会」に属しており、それ以来たびたび、文化伝承と親睦のために集まる彼女たちの場に同席させてもらった。

1992年は、植民地支配や先住民族という存在を作り出す世界的なきっかけとなったコロンブスの大航海から500年目を迎えた年だった。国連は翌年を国際先住民年と決め、日本でも先住者と植民者が従来の垣根を越えて出会う機会がさらに増えた。シャモ(和人)である私も、そのために自分なりに力を尽くした。その過程で、レラの会の人たちは、経済的自立のための、またいつでも自由に集うための場所を作りたいと思うようになった。協力を乞われた私も、他の和人の友人たちと共に拠点づくりに参加した。アイヌ料理店「レラ・チセ」(風の家)が東京・早稲田にできたのは1994年のことだった

外国のメディアは、日本よりも民族問題に敏感だ。いくつもの海外メディアがこの店の誕生を報じた。研修旅行で来日した米国の教師数十人(全員が黒人だった)が昼食を食べにきた。民族問題に関わっている人が来日すると、私はその人を必ずこの店に招いた。歌や踊り、楽器演奏の交歓が、客とお店のスタッフの間で頻繁に行なわれた。もちろん、関東圏のアイヌウタリ(同胞)が、足繁く通う店でもあった。

いくつかの事情が重なって、レラ・チセは営業16年間で閉店した。創業メンバーの一人であった宇佐タミエさん(文字通りの働き者であった彼女も今夏亡くなった)の娘、照代さんはこの閉店を悲しみ、今春、新大久保に自力でアイヌ料理の店「ハルコロ」を開店した(9月13日付本欄)。ハルコロの席に座って、キトピロ(ギョウジャニンニク)やイモシト(イモ団子)などを食べていると、春採湖、チャランケチャシ、月見坂など釧路のいくつもの風景が目に浮かぶ。これはすべて、小学校時代のアイヌの旧友(因みに、彼女は宇佐タミエさんの妹、田中きよみさんだ)と30年ぶりに再会したことから始まったのだと思うと、人と人の出会いの大切さが身に染みる。

私は編集者として、また物書きとして、民族や植民地支配に関わる書物をたくさん作り、自らも発言してきた。それを支える現実感はどこにあったのかと問われるなら、レラの会の年長や同輩のフチ(おばさん、おばあさん)たちとの会話にあった、としか言いようがない。アイヌの人たちが働き、発言する場が増えることによって、和人の認識が変わり、両者の関係のあり方も変わる。それが確信できた歳月だった。出会いの力は捨てたものではない。

おおた・まさくに 1943年釧路市生まれ。62年に釧路湖陵高校卒業後、東京外語大ロシア科に進学。編集者の傍ら、自らも民族問題・南北問題をはじめ内外の政治・社会・歴史・文化の諸問題についての執筆・発言を続けている。著書に「日本ナショナリズム解体新書」(現代企画室)「拉致異論」(河出文庫)「暴力批判論」(太田出版)などがある。