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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

今、TPPをどうのように考えるべきか


『オルタ』(アジア太平洋資料センター)2011年5~6号掲載

1

「3・11」事態とその後の福島原発の危機的状況を前にして、菅政権はTPP(環太平洋経済連携協定)参加を強行する意欲を、今の時点では失ったようだ。以前は、参加か否かの判断は6月をメドに行なうことを考えていたようだが、3月29日になって首相はその先送りを示唆した。だが、当然にも、油断はならない。TPPは、現在参加を表明している9ヵ国に、参加を検討している日本を加えて10ヵ国間の、多国間自由貿易協定であるとはいえ、各国が有する経済規模からすれば、その本質は日米間の協定に他ならない。その日米間の関係は、無念なことには日本側政府の対米従属性のために、きわめていびつである。とりわけ、現在の菅・民主党政権は、野党時代には確信をもって唱えていたかに見えた政治・軍事レベルでの対米自立性の立場を豹変させ、自民党政権時代以上の熱心さをもって日米同盟を外交の基本においている。

北日本・東日本大震災に際して、米軍は約6千人を投入して大規模な救援活動を実施しているが、在沖縄の海兵隊もヘリ部隊を緊急派遣したほか、強襲揚陸艦が三陸沖を拠点に自衛隊と協働しながら補給支援に取り組んでいる。禍々しい戦争のための軍隊と武器装備が、ここでは、「人道援助」の顔つきをして活動しているのである。この「功績」を誇るかのように、米海兵隊司令部は「普天間飛行場の死活的重要性が証明された」と強調し始めている。災害救助活動における米軍と自衛隊(「日本軍」と、私は呼ぶ)の「共闘」は、軍事はもとより政治・経済など日米関係のすべての局面において、日本政府が選択し得る政策の幅を狭めるだろう。しかも、菅政権はそれを喜んでやるだろう。米国オバマ政権が重視しているTPPへ日本も参加するという問題が、いつ、どんな形で再浮上するものかは、予測がつかない。

2

私は、植民地支配・奴隷貿易・侵略戦争などの、「人道に対する犯罪」というべき所業を行なった大国が、それによって獲得できた巨大な物質力を基盤にして、結局は世界全体を支配してきた――という近代以降の世界史の過程に深い関心を持ち続けてきた。もちろん、歴史のこの太い流れをどう批判的に総括するかという理論的関心と、これを逆転する契機をいかに掴むかという実践的な関心から、それは来ている。この歴史過程の発端をなしたのが、15世紀末の「コロンブスの大航海」と「地理上の発見」、およびそれに続いたアメリカ大陸の「征服」→「植民地化」であったと捉える歴史観は、ようやくにして、ほぼ確立してきたと思われる。

これを契機に、「奴隷貿易」をも含めた世界的な規模での貿易が始まったのだが、それは当事者間の対等性・平等性をまったく欠いたまま、ひとり大国の利益のために市場が拡大していくという一方通行的な性格を避けがたく持つものであった。私が育ったのは第二次世界大戦後の現代であったから、そのころ「貿易」は世界的なルールも確立していて、いかにも「対等な交換」の見せかけを持ってはいた。だが、ものごとの発端に関わる事実を知り、過去における不当な貿易で得た利益を、現在南北間に横たわる格差の是正のために差し出そうともしない日本を含めた北の大国の態度には、深い疑問と怒りを感じてきた。ガットからWTO(世界貿易機関)に至る戦後の貿易ルールや、現代世界を席巻する新自由主義とグローバリゼーションに対する私の批判は、その延長上に生まれる問題意識である。グローバリゼーションの趨勢の中から出てきた米国主導の自由貿易論は、世界に存在するすべてのひととものを例外なく「商品化」することで多国籍企業に奉仕し、貧富拡大に拍車をかける弱肉強食の論理に他ならない。TPPも、その枠内にある協定である。

3

自由貿易論を批判する論理を「食農」の領域で見るとき、「食料主権」という考え方がある。この考えを最初に提起したのは、1996年、世界的な農民組織「ビア・カンペシーナ」であった。中南米における豊かな民衆運動から出発し今や全大陸に波及しているこの運動は、「南北・ジェンダー・宗教・政治・人種・身分・言語などの多様性のなかで連帯と団結を追求」(註1)してきた稀有な性格をもっている。食料主権の概念は、多国籍企業や大国・国際金融機関の横暴を規制するという意味では「国家主権」のそれと重なり合う。だが、ビア・カンペシーナは国境を超えた民衆運動の連合体であるという性格を明確に有しているから、全体としてのその主張が国権論の陥穽に落ち込んだり、国家主権(国境)の論理の内部に排外主義的に狭く自閉したりすることがないのだと思われる。このことは、日本における反自由貿易論に色濃く存在する「食農ナショナリズム」の傾向――それは、「国産品を使いましょう」という呼びかけや、水田稲作を「日本の民族的な伝統文化」の中にことさら位置づけようとする議論などに現われる――をふりかえるとき、参照に値する実例だと思う。

私がマクドナルドから流れ出てくる揚げ油の匂いが嫌で堪らず、ハンバーガーも食べないというのは、個人的な好みの問題であろう。だが、「マクドナルド的なもの」は、驚異的なスピードでの森林破壊、食肉生産のための膨大な食料資源の浪費、食の安全性の低下、効率最優先による人間性喪失、食の画一化(註2)などを世界全体に強要するという点において、個人の好みを超えた普遍的な問題となる。私たちが自由貿易批判を展開するときには、個(個別国家)を超えた普遍性のある場所へと進み出るべきだろう。

(註1)真嶋良孝「食料危機・食料主権とビア・カンペシーナ」(村田武編『食料主権のグランドデザイン』所収、農文協、2011年)

(註2)イグナシオ・ラモネ『グローバリゼーション・新自由主義批判事典』、作品社、2006年)

(2011年4月4日記)