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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

沈黙の表情が語りかけるもの――ヤン・ヨンヒの3部作を見る


『映画芸術』第440号(2012年夏号)掲載

独裁体制下にある他国を描く方法は、簡単だ。独裁支配とは、歴史上のどの時代、どの国を取り上げても、実に奇奇怪怪な実態をもつものだから、にわかには信じがたいまでのその奇怪さ、恐怖、独裁者の放埓な独善ぶりなどを、まずは繰り返し描き出せばよい。続けて、その社会で言論と行動の自由を許されていない民衆が、いかに画一的な生を強いられているか、誰もが同じ表情、同じ口調で、ただひとつのことしか言わない不思議な光景を付け加えるのだ。これで完了だ、隣の或る国を、理解不能な、したがって対話も不可能な存在として、こちら側の人間たちに納得させるためには。

2002年9月17日以降の日本社会は、まさしく、この通りになった。日朝首脳会談において相手国の首脳が日本人拉致の事実を認め謝罪して以降のことである。朝鮮を独裁支配している指導者を嘲笑し、支配下の民衆を笑うことすらない感情を欠いた存在として画一的に描くこと。これ、である。この民族主義的な情念の噴出を前にしては、歴史的な過程の中で二国間関係を捉えて冷静な議論を呼びかける少数者の声は、ほとんど掻き消された。

在日朝鮮人の映像作家、梁英姫はその真っ只中に登場した。まずは2005年『ディア・ピョンヤン』である。作家の父親は、朝鮮の指導者を一途に信奉する在日朝鮮総連の関西地区幹部であるが、家庭ではステテコ姿で酒を飲みながら、時にはポロリと本音を漏らしたりもする気さくな一面もある(母親の役割も重要だが、ここでは焦点が当てられている対象を考えて、「父親」と表現する)。娘である作家は、朝鮮大学校を卒業するまでは辛うじて父親の方針の下で育ったが、女優、ラジオパーソナリティ、映像作家と職遍歴を重ねながら世界各地を歩いて、自由な気風を内面に育てる。朝鮮指導部への忠誠を誓う父親には違和感と批判を持つが、同時に一個の人間としては愛さずにはいられない存在でもある。カメラは、この二つの間を往き来する。政治的な教条主義と日常生活での意外な素顔の対比がきわめて印象的で、つい笑いと涙を誘われたり、この人物に対する親しみを感じさせたりもする描き方になっている。過去を封印してきた父親は、カメラを持った娘の執拗な問いに次第に心を開くようになる。ついには、帰国事業で朝鮮に「帰国」させた三人の息子について、その後の現実を知るだけに、「行かせなくてもよかったかもしれん」とまで呟いてしまう。ドキュメンタリストとしての作家の資質を余すところなく証明している一シーンである。

次の作品、2009年の『愛しきソナ』は、帰国した兄の娘、ソナを軸に描いたドキュメンタリーである。作家自らが朝鮮を訪問して、兄たちの家族の生活の中にカメラを持ち込む。この撮影方法は、朝鮮では、めったに許されることのなかった稀有な例外だけに、決まりきった構図でしか朝鮮の姿を知らなかった私たちには、映像それ自体がまず新たな情報の宝庫である。率直には言葉を発することのできない登場人物(兄たち、その妻たち、そして訪朝した両親)の、その時々の表情、沈黙、立ち居振る舞いもまた、重要な情報を私たちに伝える。この作家は、沈黙の表情に物を言わせるのがうまい。だが、作家の姪、幼いソナは、カメラを前にしてもあくまでも天真爛漫だ。あの国は、電力不足による停電が日常茶飯事だが、ある夜、電気が消えるとソナは叫んでしまう。「停電中のこの家はとてもカッコいいです。おお、停電だ。栄えある停電であります!」。もちろん、あの国で許されている唯一の言語体系である「偉大な指導者」に捧げる慣用句風に、あの有名な女性テレビアナウンサーの口調を真似ながら、言うのである。

きわどい表現を含んだ『ディア・ピョンヤン』の公開によって、作家はあの国への出入りを禁じられた。愛する父親は亡くなった。兄の一人も病死した。次の作品を映像で企画するとしても、もはやドキュメンタリーの道は閉ざされていた。選ばれた道は、当然にも。フィクションへの転位である。こうして、2012年の『かぞくのくに』は生まれた。作家自らがシナリオの筆を執った。

あの国へ渡った兄が帰ってきた(物語は、それを待望していた妹の視点を軸に展開する。それは作家自身の視点でもあろう)。治療の難しい病気に罹り、3ヵ月間限定での帰国が特別に許可されたのだ。25年ぶりの懐かしい再会。しかし、日が経つにつれて、「兄が奥さんと息子と住むあの国」と「私が両親と住んでいるこの国」との間には、思いがけないほどの距離があることがわかってくる。しかも、兄には監視役の付添いがいる、あの国から。どこへ行くにも、彼が付き纏うのである。そして……。

物語の紹介はここで留めよう。シナリオは綿密に練られている。作家の実体験に基づく挿話が随所に生かされていよう。そのきめ細やかな設定が、物語に膨らみと深みを与えている。宮崎美子演じる母親の表情と姿が、どのシーンでも切ない。特に、あの国に帰る監視員にも背広を新調してやり、三人の子どもへの土産も持たせるという「配慮」を示す場面は、監視員を演じるヤン・イクチュンの表情ともども忘れ難い。監視員はまた、主人公の妹(安藤サクラ)に「あなたも、あの国も大嫌い」と言われて、「あなたが嫌いなあの国で、私も、あなたのお兄さんも生きているんです。死ぬまで生きるんです」とだけ答える。作家はここで、独裁下に生きる一人ひとりの人間の心の襞を感じとるよう、観客に呼びかけているように思える。25年前の「帰国」時と同じように今もあの国の体制に対して煮え切らぬ態度を取り続けて、息子の怒りを買う父親(津嘉山正種)も、その表情にはいつも苦悩の(そう言ってよければ、悔悟の)色が漂っているようだ。作家は、それぞれの登場人物がありきたりの言動に終始することを巧みに避け、言葉と表情を通して、多面的な存在として描き出している。「典型」に甘んじさせないのだ。他者を〈単一の〉存在として捉えるのではなく。一人ひとりが、揺らぎや葛藤や嘘や自己矛盾すら抱えた人間として描くことで、自己をさらけ出したその地点から、人間同士の新たな関係性が開けていくことに希望を託しているようだ。

帰国する主人公を演じるARATA改め井浦新は、台詞と表情と所作全体で、今回も特異な雰囲気を醸し出している。今後も注目したい俳優だ。監督およびスタッフの力量に加えて、キャスティングの的確さが、この作品の成功を導いたと思える。

10年前の「9・17」以降の、日本の特殊な社会・言論状況のさなかに差し出された梁英姫の3部作の大切さを、どこよりも、この社会に生きる私たちが感受したい。この小さな文章の冒頭に書いた問題意識に照らして、そう思う。

(7月2日記)

二〇一二年新春二話 


『支援連ニュース』343号(2012年1月27日発行)掲載

一、原発事故から見えてくるもの――男性原理の派生物

福島原発の事故直後から、多くの人びとの目に焼きついたであろう光景があった。東京電力の経営者・原発担当の幹部、政府の関係閣僚、原子力政策を推進してきた関係省庁の官僚、原子力の専門家――大勢の人びとが、連日のようにカメラの前でしゃべった。その光景である。多くの場合、その物言いが率直さも誠実さも欠くものであることは一目瞭然であった。事故の実態を軽いものとして見せかけようとして、何事かを隠して事実を言わない、言葉遣いによってごまかす――それは、観ている者をして疲れさせるほどに徹底していた。その画面を見ながら、異様なことに気づいた。男しかいないのである。カメラの前に立ってごまかし言葉を話し続ける者も、話す男を一人孤立させるのは忍びないから一緒にいてやるよといった感じでそばに居並ぶ者たちも、例外なく男なのである。

そして思い出したのは、次の挿話である――某テレビ局の女性ディレクターに尋ねられたことがある。「なぜ、男は黙るのか」という番組を企画したことがある。男に対して女がもつ疑問や怒りは、口論になったり、男の振る舞いの欠点を女が指摘したりするときに、男というものは、ほぼ一様に黙りこくったりごまかしの言葉をもてあそんで話の筋道をずらしてしまう点に向けられている。番組をつくってみると、傍から見るとこの人(男)は相当イケていて、普通の男とは違うだろうなと思い込んでいた人でも、その「癖(ヘキ)」は多少なりとも抜け切れていないことがわかった。あなたはどうですか? というのである。私は、あれこれの自分の個人史を思い出し、このような問題に自覚的なつもりでいる私も、まだまだ緩慢な「成長過程」でしかないな、思い当たる節があるなと思い、そのように答えざるを得なかった。

原発事故でマイクの前に立たされている男たちは、少なくとも「黙ってはいない」。語ってはいるが、その言葉遣いがごまかしに満ちている点で、一般の男なるものの類例の裡に入るのである。しかし、彼らは、単なる男ではない。その背後には、政治権力があり、電力の発電・送電の独占権力があり、専門知を誇示する知的権力がある。存在論的に言うなら、いずれも広い意味での支配階級に属しているといえよう。この連中を、「権力を背景に持った男の論理」の巣穴から引きずり出すのは容易なことではない、と私は思ったのだった。

同時にまた、私は、4年有余前に亡くなったことが悔しくてたまらない、愛読する美術史家、故若桑みどりさんの言葉も思い起こしていた。「男たちが戦争を起こしてきたのだから、今度は女性たちが平和をつくらなければならない」(『戦争とジェンダー――戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』、大月書店、2005年)。私は戦争廃絶・軍隊解体の論理はここから導くべきだとこの間考えてきているが、脱原発に向けた運動でも、ここに突破口があると思ったのだ。

ここでいう男と女が、生物学的なオスとメスに重なり合うものならば、オスである私には出番がない。もちろん、この「男」とは、家父長制的な男性原理による社会の支配の正当性を微塵も疑うことのない存在を指しているのだから、そこには、メスとしての女も、彼女が有する価値観次第では含まれることもあるということになる。言葉を換えると、「平和をつくりださなければならない女性たち」に、たとえば曾野綾子や塩野七生や工藤美代子や小池百合子や猪口邦子などは金輪際入れることはできないが、(おこがましくも自分を引き合いに出すなら)私を入れることはできるのである。

3・11以降の反原発・脱原発の運動は、基本的にこのような方向性で展開されてきており、私はそのことを好ましいと考えてきたが、最近次のような意見を目にした。反原発情報の発信に努めてきたたんぽぽ舎のメール・ニュースを読んだ読者からの反応である。最近の反原発運動では、「女」「母」「孕む」などの言葉が強調されていて、「母」にも「孕む」にも関係のない独身女性はこんなところでも見捨てられたのか、という気分になるというのである。この人は「放射能に男女差別はありません」とも書いている。これは、幼い子どもや妊娠する可能性をもつ若い女性に及ぼす放射能の危険性が当然のことだが医学的に強調されてきており、それが「母」や「孕む」に一面的につながっていくこと、今や反原発運動のシンボルと化した経産省前テントで座り込みを行なっている福島の女性たちが、その行動を妊娠期間に因んで「とつきとうか(10ヵ月と10日間)」と名づけていることにも関連してくるのだろう。このような言葉に覆い尽くされていく運動空間、という捉え方が事実に即しているならば、それに違和感や疎外感を抱く人びとがいるということも頷ける。いずれにせよ、傾向性を持つ何らかの言動を全否定するところに問題の本質はなく、脱原発を目指す人びとが普遍的に繋がり得る理論と実践が、どこにあるかを冷静に探ることだと思える。生物学的なオス・メスから派生する問題をすべて排除することはできないが、戦争や原発を許してきた構造上の問題を、人間が歴史的に、文化的に、社会的につくりあげてきた「男性性」「女性性」に起因するものとして把握することが常に重要なのだと強調しておきたい。

二、大量死を見てなお叫ばれる「死を待望する声」

『死刑映画週間――「死刑の映画」は「命の映画」だ』――を「死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90」で企画した(2月4日~10日、東京渋谷・ユーロスペース ☞http://www.eurospace.co.jp/)。内外の映画10本を上映する。チラシをまいていると、いろいろな反応に出会う。心が弱っているときに、こんなにしんどい映画を立て続けに見せるの? 重いなあ、人生にはいろいろな辛いことがあり過ぎて、この歳になってもまだそれを続けなけりゃならないの? 見逃した映画がいっぱい、いいチャンスだから、出来るだけ行くよ。いろんな映画週間の企画があるけど、これほど、あまりに内容が暗くて観客が敬遠し、経済的にうまくいくはずのない企画も珍しい。講演者のメンバーをよくここまで集めたね……。

これらの感想には、部分的には同意する点もなくはない。私たちの企図は次のようなところにある。死刑の問題は、社会の表層で語られれば語られるほど、煽情的・煽動的なものになる。むごい犯罪があって死者が生まれ、それを実行した特定の人物がいる以上、その人間は自らが犯した犯罪の質に対応した「応報」の処罰を受けなければならない。死刑制度が存在しているからには、それを甘受するのだ――この「論理」が、ただひたすら尊重されて、現在のこの社会における犯罪報道・裁判報道はなされている。「世論」は哀しい。メディアのこの煽動に鼓舞されて、形成されてゆく。だが、ひとたび、文学・映画・演劇など人間が(創造者として、またその受けてとして)育て上げてきた芸術の分野に目を移すと、そこでは人間社会にあっては避けて通ることのできない問題として、犯罪・罪と罰・死刑・贖罪・転生・再生などの問題が扱われている場合がある。紙幅がないから、例は挙げない。誰もが、何点かの作品名を挙げるに違いない。それこそ、私たちが掘り進めるべき道だ。

読書なら、ひとりひとりの個人の努力と探究の範囲内で、或るテーマについてまとめ読みすることは可能だ。映画はそうはいかない。重たいテーマに関わる映画週間など、このカルーイ時代においては、他人任せでは実現不可能だ。やってみようということで、今回の実現に漕ぎつけた。深く、広く、問題の根源に立ち戻って考える契機をつくりたい。

震災と津波が生み出した大量死と、原発事故が招き寄せている計測不可能な数の近未来の死をこんなにも目撃せざるを得なかった悲劇的な年の終わりに、私たちがこの社会に見たのは、次の光景だった。15年前後前、間違った宗教的信念に基づいて大量殺人を犯した宗教集団メンバーに関わる死刑事犯の審理が終了し、すべて死刑確定者になったからには、その「教祖」から直ちに死刑を執行すべきだとする世論煽動である。

仮りに対象が凶悪犯罪者であれ、その「死を待望する」言論の台頭という雰囲気はいかがわしい。「いやな感じ」だ。別な考え方があり得るよ、と提示する基本的な作業だ。ぜひ、多くの方々に劇場まで足を運んでいただきたい。(1月26日記)

死刑映画週間――「死刑の映画」は「命の映画」だ――に寄せて


『図書新聞』3048号(2012年2月4日号)掲載

特定の監督や俳優を回顧するための映画週間や、あるテーマを掲げてそれに関連する映画をまとめて上映する企画というのは、ありがたい。一映画フアンとして、そう思う。見逃していた作品や、もう一度観たい映画というものは、必ずあるからである。今回、私たち(死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90)は、渋谷ユーロスペースの協力を得て、「死刑映画週間――『死刑の映画』は『命の映画』だ」を企画した。その企図と内容を簡潔に説明したい。

敗戦後、日本というこの国は「戦争放棄・軍隊不保持」を、憲法を通して世界に向かって誓った。国家は、長いこと、戦争行為と死刑制度という二本柱に基づいて、「人を殺す」をいう権限を独占してきた。個人にも国家以外のいかなる集団にも法律的に認められていない行為が、なぜか、国家にだけは許されてきた(きている)歴史を、いまだ人類は断ち切ってはいない。1947年、日本国はそのうちの一本の柱を放棄したのである。国家権力を成り立たせている(と信じ込まれている)秘密の鍵を、いったんは捨てたのだ。画期的なことである。当然にも、1950年代の戦後精神史のなかでは、「戦争放棄と死刑廃止は同じ」とか「前者を放棄して、なぜ後者を廃止できないか」との議論が熱心に行なわれた。だが、一九四八年「死刑は合憲」とした最高裁大法廷の判例もあって、戦後民主主義は死刑という「負の遺産」を克服し得ないままに現在に至っているのである。肝心の「戦争放棄・軍隊不保持」という、世界に対する公約もすぐに踏みにじられてきたことは、言うも悲しく、腹立たしい現実である。

世界の現状を国家の枠で見る限り、戦争放棄は、まだまだ遠い願望だ。戦争廃絶・軍隊解体に向けた個人・小集団・諸地域の努力が続いていることが、か細い希望の根拠だとしても。それに比べると、死刑廃止は「現実化」している。200ヵ国近い世界の中で、その3分の2の国々では、制度的に、あるいは実質的に、死刑は廃止されている。刑罰としての非人道性と非有効性に気づいたからである。EUが、死刑を廃止していることを加盟に必須な条件としていることもあって、日本で尊重される「産業先進国」という基準で言えば、死刑が存置されているのは、日本および米国(の一部の州)だけである。死刑制度を存置していることで、日本は「国際的に孤立している!」のである。欧米的な価値基準に基づいた「人権ランキング」で、常に最下部に位置する中国や朝鮮民主主義人民共和国と、その意味では「肩を並べている!」のである。

日本社会では知られていないこの現状がどんなことを意味しているかということを、関連する映画の連続上映を通して考える機会を得たい/提供したいというのが、今回の企画意図である。総理府が死刑に関する世論調査を行なうと、80%以上の人びとが死刑制度の存続を認めているとは、よく報道されるニュースである。設問の設定の仕方にも問題はあるだろうが、私たちは、「犯罪」やそれに対する刑罰としての「死刑」の実態をどれほど知ったうえで、この種の質問に答えているだろうか。凶悪犯罪の直後に世論調査を行なえば死刑支持率は上がるだろう。深刻な冤罪事件が明らかになった直後の調査なら(霞が関の行政官庁がそんな時期を選ぶはずもないが)、死刑支持の「世論」は急降下するだろう――人は、そんなふうに「迷いながら」生きている。どんなテーマにせよ人が佇む「迷い」や「惑い」の世界をよく描いてきたのが、文学や映画などの芸術だ。

今この社会では、ドストエフスキーの文学が若い読者の心を捉えているというが、彼の作品からは、犯罪・罪と罰・死刑・贖罪・再生など人類普遍のテーマがあふれ出てくる。その作品を深く理解するなら、犯罪も死刑も、他人事のように論評したり極刑を扇動したりするだけのテーマであることをやめ、迷い・苦しみながら自ら考え抜き、次の課題に繋げる問題であることが見えてこよう。

読書と異なり、個人の力では簡単にアクセスできない映画の分野で、この問題を考える機会を集団的につくること――初めての試みである今回は、内外から10本の作品を選んだ。上映期間は一週間だが、毎日1回ゲストを招き、映画や死刑に関する思いを語っていただくというプログラムも工夫した(詳しくは、別表を参照)。私たちの手元には、このテーマでなら上映が可能な作品リストが、まだまだある。2回、3回とこの試みが持続できるよう、大勢のみなさんが劇場を詰めかけてくださることを、こころから望んでいる。詳しくは、http://www.eurospace.co.jp/

この映画の完成は僥倖である――ワン・ビン監督『無言歌』評


『映画芸術』437号(2011年秋号)掲載

疲れ切った足取りの男たちが、風吹きすさび、砂塵が舞い上がる荒野を行く。緑の木々も緑野も拒絶しているかのような、荒涼たる風景だ。広大な中国の、西部に位置する甘粛省高台県明水分場。男たちがテントの前までたどり着くと、ひとりの男が命令口調で、誰それはどこそこへ行けと指示する。行き先は、近在に点在する壕だ。壕と言えば、まだしも聞こえはよいが、それはほとんど岩穴にひとしい。背をこごめて中へ入ると、もちろん電気とてなく、暗い。土床の上の、狭い通路以外の空間には木板が張りめぐらされている。男たちはひとりづつ、わずか2畳ほどの指定された空間で荷解きする。衣類などの乏しい身の回り品を置けば、そこが、貧弱きわまりない食事を摂り、重労働に疲れた身を休め、泥のように眠るだけの日々をおくる場所だ。

それでも、立派な名前がつけられている。「労働教育農場」。社会主義革命後の中国で、指導部から右派と名指しされた人びとが、その「農場」で日々過酷な「労働」に従事し、それが、己の反革命思想を改造する「教育」だというのだ。土壌改良を施さなければ役にも立たない痩せこけた「農場」。そこをただ掘り起こすだけの「労働」。本来の意味の「教育」とも無関係な、強制収容所といったほうが、現実を言い表していると言えそうだ。

映画は、そこに暮らすことを強制された男たちの日常を淡々と描く。穴倉の中の場面が多いから、カメラは、隙間から射す一条の光をたよりに、男たちの動きとことばを描き出す。あてがわれる食事はいつも、水のように薄い粥だけだ。飢えた男たちは、それぞれに、空腹を少しでもしのぐための努力をする。食べ物と交換できる衣類の乏しさを嘆く男がいる。荒れ果てた土地に生えるわずかな雑草から、タネの一粒でもないかと探す男がいる。ネズミを捕まえて、煮て食べる男もいる。何を食べて食あたりしたのか吐く者もいれば、その男が吐き出したものの中から固形物か何かを見つけ出しては自分の口に運ぶ男すらいる。飢えの極限的な形が、日々この農場では展開されている。過酷な労働、冬の寒さ、そして絶えることのない飢え――そのあとに来るのは「死」だけだ。遺体は、その男が使っていた布団でぐるぐる巻きされて、砂漠に埋められる。野晒しにされていた遺体からは、衣服がはぎとられ、尻やふくらはぎの肉が抉り取られていく。理由は説明するまでもないだろう。

これはフィクションではない。1957年から60年にかけて、中国で実際に起きたことに基づいて作られた映画だ。依拠した原作本もある。事の次第はこうである。

1956年、革命中国の友邦・ソ連では、スターリン批判が行なわれた。1917年ロシア革命の勝利後まもなく、最高指導者レーニンの死後に政敵トロツキーを国外に追放して全権を握ったスターリンは、1953年の死に至るまで、鉄の恐怖支配をソ連全土に布いた。批判者はことごとく抹殺されたから、彼に対する批判は死後ようやく可能になったのだ。社会主義とその中軸に位置する共産党および指導者の絶対的正しさが、ソ連でも中国でも強調されてきたが、その権威が激しく揺らいだ。毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」路線を直ちに採用して、共産党に対する批判を一定限度許容した。知識人を中心に官僚主義批判や党の路線に対する批判が沸き起こった。すると、毛沢東は翌年には路線を一転させ、「反右派闘争」なるものを発動した。13ヵ月間続いた自由な日々に、厳しい指導部批判を行なった者たちを次々と捕え、「労働教育」のために強制収容所に送り込んだ。特定の場所に収容された人びとの証言に基づいて、原作本が書かれ、映画も作られたのである。

この事態から50年が過ぎている以上、この政策の責任者だった者たちは、ほぼ鬼籍に入っているであろう。だが、「無謬の党」神話の延命工作が続けられているからには、過去の誤謬といえども、それがあまりに無惨で、あからさまである限りは、自由な批判の対象とはなり得ない。制作までは許されることがあっても、公開はできない。それが中国の偽らざる実情である。

故国の人びとに今すぐには観てもらえない映画を作るということ。ワン・ビン(王兵)監督の悩みと苦しみは、ここにあると思われる。しかし、古今東西、自由を奪われた表現者は、もっとも伝えたい人たちからの反応を直ちには期待できない状況にあっても――つまり、圧政下の故国を離れ亡命の身であっても、あるいは故国に踏みとどまって時に奴隷の言葉を使わなければならなくなっても――自らが逃れられないと考える必然的なテーマに立ち向かってきた。身構えて、政治やイデオロギーをテーマとすると力んでは、それは容易く失敗する。或る過酷な時代を生き抜いた一人ひとりの人間の在り方をヒューマン・ドキュメントとして記録し、癒しがたい記憶の形で後世に伝えるのである。ひとりの個人の悲劇的な物語を作り上げて観客をその閉鎖的な空間に閉じ込めてしまったり、観る者が主人公に距離感なく一体化してしまったりするような作劇法ではなく、複数の人物あるいは集団的な主人公を軸に、作品を観た者がそこに自ら介入線を引くことができるような、自由な余地を残しておくのである。そのとき、文化表現・芸術表現は、国境内に自足することなく、世界に普遍的な意味を持つものとして、国境を超えて出ていく。国際的な評価の高さは、国内での弾圧を避け得る十分条件ではないが、作品がいつか国内に「帰ってくる」下準備にはなるだろう。『無言歌』は、その要素を十分に備えた作品として成立している。

ところで、映画が背景としている「反右派闘争」で弾圧された人びとは、文化大革命終結後の1978年、一部の人びとを除いて「名誉回復」措置が取られた。だが、50周年を迎えた2007年には、中国当局は、反右派闘争に関する報道を禁じる通達を全国のメディアに出している。私の友人であるホルヘ・サンヒネス監督(ボリビア)の場合、一本の映画は、完成したネガの露出時間が旧西ドイツの現像所で故意に延ばされたらしく陽の目をみなかった。もう一本は、アルゼンチンの現像所に送る際にボリビアの税関で「紛失」させられた。完成した二作品が「事故」を装って無きものにされた彼のケースを思うと、この時代の中国の状況下で、中国政府の許可も得ずにゴビ砂漠で長期ロケを敢行したり、161本ものラッシュテープをフランスへ送ったりなど、よくぞ妨害を受けずに完成にまでもっていけたものだと、制作過程にも感心し、またその僥倖を喜ぶ。

中国の民衆に先んじて、私たちはこの作品に接することができた。何につけても「反中国」の宣伝をしたい人たちは、身勝手な利用価値をこの映画に見出すだろう。日本軍の中国侵略の歴史を反省し、1949年中国革命の勝利に何らかの「希望」を見出した人を待ち受けるのは、もちろん、別な課題である。資本主義が生み出す格差・不平等・疎外を廃絶したいという民衆の夢・希望・理想が託された社会革命は、20世紀にあってはほぼ例外なく、いつしか強制収容所に行き着いた。社会革命が必然的にここに行き着くものなら「そんなものは要らない」と誰もが答えるだろう。

だが、いま・あるがままの現代社会が生み出している数々の国内的・国際的な矛盾に我慢がならない人は、やはり、よりよい社会へ向けての希望を抱かずにはいられない。そのような人に向かって、『無言歌』は何を語りかけるのか。私はさしあたって、党=指導部の絶対化、イデオロギーへの過剰な信仰、これまた過剰な社会的な使命感情などを克服すること――が出発点だと考えるが、観客の誰もが、それぞれの課題を取り出すことだろう。

文学では、旧ソ連のソルジェニツィンの『収容所群島』があるとすれば、映画では、ワン・ビンの『無言歌』があると言えるほどに、20世紀の悲劇を考えるうえで必見の作品である。

(10月3日記)

キューバの「週刊ニュース」の現代的な意義


「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」カタログに掲載

私が小中学校の子どもの頃――1950年代前半から後半にかけて――映画を観にいくと、本編に先だって必ずニュース映画が上映された。そのころ住んでいたのは北海道東部だったが、札幌のような都会へ行くと、ニュース映画専門の映画館があった。一時間足らずの時間のうちに、数週間分のニュース映画を上映するのである。時間潰しにも役立ったが、テレビが普及していない頃のことだから、ラジオと新聞でしか知らない国外と国内の出来事に映像と共に接することができることは、大変な魅力であった。生まれた時には当たり前のようにテレビがあり、いまやパソコンや携帯によっても映像ニュースに接することができる若い世代の人びとには、当時の私たちが持っていた、ニュース映画に対する焼けつくような飢餓感など、想像もつかないかもしれない。

私はその後1970年代半ばの数年間をラテンアメリカで過ごした。東西冷戦真っ只中の時代で、社会主義国キューバを包囲・封鎖するために、米国が支援して多くの国は軍事政権下にあったから、どの国も政治的許容度は厳しかった。私が一番長く滞在したメキシコは、相対的には自由で、多様な書物・映画・演劇・コンサート・講演会などに接することができた。キューバ映画をよく観た。『低開発の記憶』や『ルシア』なども忘れ難いが、ドキュメンタリー作品が強く印象に残った。革命勝利の年(1959年)の直後から、キューバでは20世紀初頭から半世紀以上に及んだ米国による政治的・経済的支配を断ち切るための諸政策が次々と実施された。濡れ手で粟の利権から排除された米国は反撃に出た。革命をつぶすための武力侵攻さえ試みられた――私はこれらの事実を文字面では知っていたが、キューバのドキュメンタリー作品を観ると、映像を伴っているわけだから情報量が格段に増えた。刺激的であった。

社会革命が成就した直後には、価値観の変革や新しい型の人間と才能の開花が見られ、それが文化面での活性化をもたらすことは、ロシア革命後のロシア・アヴァンギャルドの動きを通して知っていた。キューバの映画事情に詳しくはなかったが、革命が勝利した1959年まではハリウッド映画が市場を独占し、自前の映画人が輩出できる可能性がきわめて少なかったであろうことは容易に推察できた。だから、革命直後の1960 年や61 年の事態を、的確なカメラワークで撮影し、訴求力のある一つの作品としてまとめ上げる力に――しかも、それは1、2の作品に留まるものではなかったから、心底感心したのだった。

調べてみれば、革命後のキューバ映画を牽引することになる監督トマス・グティエレス・アレアとフリオ・ガルシア・エシピノサは、アルゼンチンのフェルナンド・ビリーやコロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスと共に、1950年代半ばにローマの映画実験センター(チェントロ)に学んだこと、ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)は革命勝利からわずか2ヵ月後の1959年3月に設立されたこと――などが分かってきて、キューバにおいて新しい映画表現が生まれてくる根拠も、それを制度的に保証する態勢も、確固として見えてきたのだった。

今回山形映画祭でその一部の上映が予定されているNoticiero ICAIC Latinoamericanos (字義どおりの訳では「ICAICラテンアメリカ・ニュース」だが、週ごとに制作されたので、以下では「週刊ニュース」と略記する)もそのときメキシコで観たかと問われると、覚束ない。35年以上も前のことで、記憶があいまいなのだ。しかし、その後ドキュメンタリー作品――例えば『革命』『ヒロン』『モンカダはなぜ?』――としてまとめられた作品を観ると、確かにメキシコでの既視感のある印象的なシーンがいくつか使われているように思われたから、ある程度は観たのかもしれない。

ある程度――と書いて、ふと立ち止まる。「週刊ニュース」は、1960年から1990年までの30年間にわたって、1493本も制作されているのである。平均時間は10分である。You Tubeからダウンロードされた23本と、関わったスタッフが「週刊ニュース」作りを回顧しているDVDなども鑑賞したが、総量から見れば、私が観ることができた作品はきわめて少ない。したがって、以下において「週刊ニュース」の意義を論じることには限界があるが、本文末尾に記す文献資料なども参考にしながら、できる限りのことを試みてみる。

先に触れたように、ICAICが創設されたのは革命の年=1959年であった。映画は「もっとも強力で示唆的な芸術表現の手段であり、教育のためのもっとも直接的な牽引車である」と位置づけられていた。「週間ニュース」が制作され始めたのは翌年からだが、世界的には家庭へのテレビの普及によって、ニュース映画が役割を終えていく時代と重なっていた。革命直後のキューバではテレビは庶民には高嶺の花であったことに加え、何よりも欧米メディアに独占されてきたニュース報道に代えて、自前の媒体を持つ必要性を革命指導部は感じたのだろう。制作された「週刊ニュース」は60本のコピーが作られた。それは全国500の常設館と、400の移動映画館で上映された。『はじめて映画を観た日』(オクタビオ・コルタサル監督、1967年、10分)を思い起こしてみても、とりわけ自家発電機を備えた上映グループが辺鄙な村に訪れて映画を上映したときの、子どもたちや大人の驚きや喜びの深さには、想像がつくというものだろう。

「週刊ニュース」の作品リストを眺めると、監督サンティアゴ・アルバレスの名が圧倒的に目立つ。この記録の、文字通りの創始者であるが、彼は医学・哲学・文学・心理学などを大学で修めた知的人物ではあったが、映像表現の訓練はまったく積んでいなかった。にもかかわらず、40歳のときに「週刊ニュース」の監督を引き受けた。周囲のスタッフにも、経験者はひとりもいなかった。だが、映画批評家ドレック・マルコムによれば、サンティアゴ・アルバレスの仕事ぶりは「迅速で、機材も、ふつうの映画人なら時代遅れだといって拒否するような代物だった。にもかかわらず彼は、ニュース映画としても、宣伝媒体としても、輝かしい即興的な映像表現としても、いまだに乗り越えられることのない一連のフィルムを60年代から70年代にかけて制作したのである」。

すでに触れたように、「週刊ニュース」はキューバ革命初期の記録映像として、きわめて重要であり、優れてもいた。米国系企業の国有化、銀行国有化、反革命軍のヒロン湾侵攻とこれの撃退戦、米国によるキューバ産砂糖買い付け量の削減と、これに対する米国市民の抗議デモ、ミサイル危機――リストからは、このようなテーマが取り上げられたことを知ることができる。もちろん、国内ニュースだけに特化していたわけではない。サンティアゴ・アルバレスらのチームは30年間に90ヵ国以上の国々を歴訪し、68年パリ五月革命、68年プラハの春、米軍のグレナダ侵攻などの歴史的な記録も撮影した。とりわけ、ベトナム報道には並々ならぬ力を入れたから、米国の侵略に抵抗したベトナム民衆が勝利した決定的な瞬間を撮影するなど、世界的にみても貴重な映像もある。また、コンゴ解放闘争への参与を企図してコンゴに滞在していた時期のチェ・ゲバラ(1965・4~11)の映像もあるようだが、現代史の価値ある証言記録であろう。加えて、ラオスやイエーメンのような知られざる小国の取材も重視した。これは、小国キューバの映画人であるという自覚なしには生まれ得なかったような視点であったのかもしれない。

私が視聴できた「週刊ニュース」のなかには、キューバの庶民の生活事情に関わるテーマもある。食料品などの物不足、住宅不足、ゴミ処理問題など、庶民にとっては切実で、身近な問題である。従来の社会主義社会では、指導部批判に繋がる表現が厳しい制約を受けるのが常であった。生活にまつわる諸問題は、直接的には「政治」や「イデオロギー」に関わる地点までは射程が届かない場合がある。仕事を迅速に進めないとか、たらい回しにするなどの官僚制の問題が見えてくる程度である。したがって、観た限りでは率直な取材や問題提起がなされているように思える。だが、キューバ革命の内実をいくらか詳しく知る者にとっては、革命当初から、ソ連型社会主義の諸方式をキューバへ持ちこもうとする内外の勢力と、ある段階以降のチェ・ゲバラのようにそれに疑問と批判を持つ人びともいて、両者の間では激しい論争も展開されていたわけだし、1967~68年の大転換期(ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死、カストロがソ連軍のチェコ侵攻を支持する演説を行なったことに象徴される)以降はソ連一辺倒の路線が定着してもいた。文学者の、革命から「逸脱」した表現が弾圧されることもあった。カストロは当初から、「革命の中ならすべてOK、外ならだめだ」と語ってきた。それを判断するのは誰なのか、についての説明はなかった。直接的に「政治」や「イデオロギー」の領域に関わるこれらの問題に関して、「週刊ニュース」の制作者たちは、体制に無批判的に寄り添うことなくどこまで切り込むことができたのかということは、今後の解明を待つ課題として残ることになる。

「週刊ニュース」が1990年で断ち切られたのは、キューバの経済事情によるものであった。あらゆる物資不足が目立つようになり、電力事情も悪化した。停電が繰り返された。人びとの生活を維持するための優先課題とは言えない映画制作は、ニュース映画も含めて、予算を切られた。ICAICにしてみれば、新作制作どころか、貴重なフィルムを良好な状態で保存すること自体が危機にさらされた。電力不足は、フィルム保存に重要な貯蔵庫の温度管理・湿度管理を不可能にし、複製・修理・修復などの作業をも麻痺させたからである。

この時期を見計らうかのように、「週刊ニュース」は、2009年、ユネスコの世界記憶遺産に認定された。記憶遺産といえば、今年、日本からも初めての認定を受けたものがあったが、それは、筑豊に生きた炭鉱夫画家・山本作兵衛(1892~1984)が描き遺した千点以上にも上る作品群であった。鉱夫たちが従事する鉱山労働の様子や日常生活のあり方をつぶさに描いた、無名と言っていい画家を取り上げたことを知って、私はユネスコもなかなかやるものだ、と思った。その後、この原稿を準備する過程で、キューバの「週刊ニュース」もすでに世界記憶遺産に認定していたことを知って、その見識のほどをいっそう再認識したのである。

キューバは革命後の半世紀有余の間、その人口数と国土面積の小ささからすれば信じがたいほどの存在感を世界に示してきた。K・S・カロルの言葉を引けば、キューバは「世界を引き裂いている危機や矛盾を集中的に体現」しており、「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかなる小さな動揺に対しても、まだどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」(K・S・カロル『カストロの道』、読売新聞社、1972年)。映画「週刊ニュース」は、まぎれもなく、20世紀後半の、キューバと世界の鼓動を、このような位置から伝える映像メディアであった。それは、「低開発」を強いられる小国が担う事業としては、奇跡的なまでの達成度を示したことを、中立的機関=ユネスコも認めざるを得なかったのである。

【参考文献】

Jorge Fraga, “Cuba’s Latin American Weekly Newsreel :Cinematic Language and Political Effectiveness”, in The SOCIAL DOCUMENTARY in LATIN AMERICA, ed. Julianne Burton, University of Pittsburgh Press, 1990.

Memory of the World Register: Original Negatives of the Noticiero ICAIC Latinoamericano ( Cuba), Ref No 2008-41, UNESCO

【追記】キューバ映画については、「NFC(東京国立近代美術館フィルムセンター)ニュースレター」2004年4~5月号にも、「ラテンアメリカ現代史の中のキューバ映画」を寄稿している。→http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2004/lcuba.html

映画『光、ノスタルジア』を観るために――チリ近現代史素描


『光、ノスタルジア』プレス資料+山形映画祭カタログなどに掲載

チリは、他のラテンアメリカ諸国と同様に19世紀初頭にスペインから独立した。小麦などの農産物に加えて銅と硝石の鉱山物資源が豊富で、いずれも19世紀末にかけての主力の輸出品となった。したがって、地主、大鉱山主、大商人などが力を蓄えた。ただし、銅と硝石の主要な産地は、映画『光、ノスタルジア』の舞台でもあるアタカマ砂漠地域なのだが、そこは、スペインからの独立の過程にあってはタラパカ地域がペルー領、アントファガスタ地域はボリビア領となっていたこと、チリがそのいずれに対しても領有権を主張し、そのために太平洋戦争(1879~83)を引き起こしたこと、それに勝利することでチリが新たに獲得したのがアタカマ砂漠一帯であることは、頭に入れておきたい。その後の19世紀末に世界的な硝石ブームが起こり、多くは英国資本の手にあったとはいえ、チリも莫大な収入を得たのである。

輸出によって経済力を蓄えた階級に加えて、支配階級に加わった社会層がふたつあった。ひとつは、国境紛争戦争を戦い抜き、植民地時代から支配層への執拗な抵抗を止めない先住民族=マプーチェ人への掃討作戦にも従事した軍部である。もうひとつは、国教としてのカトリック教会である。これらが一体となって、強力な少数支配階級を形成した。表面的には物質的繁栄を謳歌しながらも、貧農や都市貧民、鉱山労働者、先住民族は打ち捨てられていたから、貧富の差は激しかった。

主要産業が鉱業であるということは、鉱山労働者による労働運動が強力に展開されることをも意味した。前世紀末以来の硝石ブームに沸く1907年、劣悪な労働条件に苦しみ続けてきた北部の鉱山労働者たちは大規模なストライキに訴え、イキーケのサンタ・マリーア学校に寝泊まりしていた。これを鎮圧するために軍隊が派遣され、発砲によって3600人の労働者が虐殺された。これは「イキーケのサンタ・マリーアの虐殺」事件と呼ばれ、チリ社会の癒しがたい記憶となって、後世にまで語り継がれるものとなった。

その後、1917年ロシア革命の刺激などもあって、労働立法の制定をめぐっては、歴代政府と労働組合の間で、熾烈な攻防があった。20年代から30年代にかけては、他の諸国と同様に、共産党、社会党なども結成され、30年代後半には両党も参加して人民戦線政権が成立したことすらあった。

第二次世界大戦を経て1950年代も末になると、チリ社会には三大政治勢力が成立した。地主と大資本グループから成る旧来からの保守的支配層を基盤とする保守党・自由党。中小資本の経営者や公務員などの中間層に支えられ、修正資本主義を主張するキリスト教民主党。社会主義を志向する労働者や農民を支持基盤とする共産党・社会党――それぞれ、保守・中道・左翼を代表する3大勢力である。左翼の台頭を警戒して、保守・中道は連携する機会が多かったが、60年代にはキリスト教民主党政権が成立した。しかし、農地改革に手を付けて保守党の反発を買い、経済政策の失敗で左翼から厳しい批判を受けた。

1970年の大統領選挙は、チリ史上で見ても、世界的な意味からいっても、画期的な結果となった。50年代から何度も左翼統一候補として大統領選に立候補してきた社会党のサルバドール・アジェンデが当選した。世界史上はじめて、選挙によって社会主義政権が成立したのである。それはまた、1959年革命以来米国による一貫した孤立化策動にさらされてきたキューバが、ラテンアメリカという同一域内に友邦国を得たことを意味した。米国から見れば、米国の支配に抵抗する「第2のキューバ」の登場を阻止し得なかったのである。

アジェンデ政権は、銅産業の完全国有化、農地改革、銀行の国家管理、大企業への国家の介入などの改革政策を実施した。保守層と中間層は激しく反発した。銅企業を無償接収された米国もこれに報復し、援助を停止した。反対勢力に膨大な資金を与え、「不安定化」工作を煽った。1973年9月11日、陸海空三軍が軍事クーデタを起した。アジェンデ社会主義政権は、3年間で終わった。新たに成立したピノチェト政権はアジェンデ派を徹底的に弾圧した。映画『光、ノスタルジア』が描くアタカマ砂漠の強制収容所はその象徴である。他方、米国のテコ入れで新自由主義経済政策を全面的に採用した。それは貧富の格差を放置したまま、外国資本と国内特権層の利益を尊重する道であった。ピノチェトによる治世は1990年まで続いた。いま「ピノチェト以後」の時代を生きるチリの人びとは、「恐怖」が支配した軍事政権時代が遺した負の遺産を克服し、新自由主義路線によって混乱の極致におかれていた経済社会のあり方を変革する途上にあると言えよう。

(9月9日記)

アンデス史の広がりと深みに迫る作品 ――ペルー映画『悲しみのミルク』について


あいち国際女性映画祭2011パンフレットに掲載

主人公の女性ファウスタの母親は、住まいのある山岳農村部が、政府と反政府ゲリラが激しい暴力で応酬し合う中心地になったとき、何者かに凌辱された。殺された夫のペニスを口に突っ込まれるほどの辱めも受けた。これは、5世紀前ヨーロッパ人がやってきて、集団的な強姦を含めた暴力によってこの地が征服されたという、先住民族にとっての癒しがたい記憶に繋がるものでもある。苦しみと哀しみを歌にして、母は死んだ。娘は、母が体験した苦しみが母乳を通して娘に伝わると信じるアンデス山岳民である。男たちからわが身を守るために、膣にジャガイモを埋め込んでいる。ジャガイモは生きていて、花が咲き、葉が茂る。ときどき、それを切り落とさなければならない。それは、下劣な男からわが身を守る盾であり、社会に対してわが身を閉ざす蓋でもある。

ファウスタはいま、叔父一家を頼りに首都郊外のスラムに住む。農村を離れざるを得なかった人びとが、首都の片隅でひっそりと、だが楽しげに送る日常生活の描写には見どころが多い。物語の背後には、いくつもの大事な要素がちりばめられている――母と娘が話す先住民族の母語=ケチュア語。その母語を話す庭師にはおずおずながら心を半ば開くがスペイン語の発語が容易にはできないファウスタの心のわだかまり。山岳民の土着的な信念。原産地であることからジャガイモが彼女たちの食と生活の中で果たしている重要で象徴的な役割。エリート的な都市住民を象徴する白人ピアニストの利用主義と裏切り。

これらの背景を読み取ることができれば、この映画の広がりと深みが並々ならぬものであることが理解できよう。可憐な花をつけたジャガイモの苗が、庭師から贈り届けられる最後のシーンからは、これから主人公が歩みだすであろう方向への想像も及ぼう。

『悲しみのミルク』とは意訳で、原題に忠実に訳すと『怯えた乳房』とでもなるだろう。

追記:映画祭は、2011年9月7日~11日 会場ウィルあいち

『悲しみのミルク』上映は、9月8日(木)午前10時から、大会議室。

問い合わせは専用電話 052-962-2512

太田昌国の夢は夜ひらく[16]人知を超えた地点で暴れる超現代科学「核」と「遺伝子組み換え」


反天皇制運動機関誌『モンスター』18号(2011年7月5日発行)掲載

3月11日夜に観ようと思っていた映画があった。地震が起こり、東京都内の交通網が遮断されたので、上映会は中止となった。その後、東北地方の農業や漁業の壊滅状態と、制御不能に陥っているとしか思えない原発事故の状況を見ながら、あの夜に観るはずであった映画のことがいっそう気になっていた。先日、その望みがようやく叶った。

いずれも、ドイツ・デンクマルフィルム製作の『Life Running out of Control(暴走する生命)』(2004年) と『パーシー・シュマイザー、モンサントとたたかう』(2009年) である。前者は、動植物や人間を遺伝子的に操作する動きがどこまで進んでいるかを(とはいっても、制作年度からいえばもはや7年前のことだ)描き出した作品だ。遺伝子操作が本格化したのは1980年代半ばからだから、この研究分野はまだ4半世紀の歴史しか刻んでいないが、遺伝子操作を加えること(GM)によって、通常の半分の生育期間で6倍の大きさに成長する鮭が出てきたり、GM菜種のタネが隣の農家の畑に飛ばされ有機農業を不可能にしたり――などの実例が生まれている。米国では、この鮭が食用としての承認手続きの最終局面にあり、開発した米社は、鮭の最大消費地=日本への進出に意欲をもっているというから、このままでは作物以外の動物・魚類では初の遺伝子組み換え品が、遠からず私たちの前にも登場することになるかもしれない。

映画に登場するノルウェイの分子生物学者の言葉が忘れられない。「遺伝子組み換え技術のことを知ったとき、これは人類に大きな恩恵をもたらすものと思い、熱狂して研究に打ち込んだ。実験をしていて気づいた、確かに科学者にはおもしろい。だが、これが現実の生態系・有機体で行なわれたら、大変なことになる」と。彼はいま、遺伝子組み換えによる「生命支配」を批判し、これに抵抗する活動を行なっている。彼の言い方は、チェルノブイリ事故以後「原発批判」の立場からの発言を積極的に続けてきた京大原子炉実験所・小出裕章の述懐に酷似している。小出もまた、学生時代に原子力の「輝かしい未来」に憧れこの専門分野を選んだが、その本質を知るにつれ「反原発」の立場に移ったことを繰り返し語っている。

核にせよ生命操作にせよ、人知の範囲で開発にまで行き着くことはできる。だがそれは、やがて、人間には制御不可能な未知の領域に入り込んでしまうのだ。それは、管理し得る人間の手を離れて市場に放り出された金融(カネ)と同じように、人間の知恵を超えた地点で、破壊的なまでに暴れまわることになる。

後者の映画は、世界最大のバイオテクノロジー企業・モンサント社を相手に果敢にたたかうカナダの農民夫婦を描いている。夫婦の菜種畑はGM種子によって汚染される。この種子を開発したモンサント社は、あろうことか特許権侵害で夫婦を訴える。裁判所も大企業に加担する。だが、夫婦は巨大企業を相手に粘り強くたたかい続けている。

モンサント社が農民と交わす(農民に強制するというべきだろう)協定の中身がすごい。「種子はモンサントからしか購入できない。農薬もモンサントからのみ。自家採種をしてはならない。モンサント社の私設警察は、農民の土地・貯蔵所・農場に入り、納税・農事記録を見ることができる」。しかも、ラウンドアップという名のその農薬は、あらゆる種類の植物を枯らす除草剤で、米環境保護局ですら「吐き気、肺浮腫、肺炎、精神錯乱、脳細胞破壊が起こる」と警告しているような代物である。

この2本の映画の監督はベルトラム・フェアハークだが、日本で自主公開された最初の作品は『核分裂過程』(1987年、クラウス・シュトリーゲルとの共同監督作品)だった。核燃料再処理工場の建設に反対するドイツ・ヴァッカースドルフの人びとの戦いを描いたドキュメンタリーである。超現代を象徴する「核」と「遺伝子組み換え」が孕む問題性に迫り続けているその先見性が、三陸・福島の事態を見るにつけ、胸に迫ってくる。

【追記:ここで触れた映画はすべて、小林大木企画 Tel&Fax042-973-5502 によって自主公開されている。http://www.bekkoame.ne.jp/ha/kook】

太田昌国の夢は夜ひらく[2]脱北者を描く映画のリアリティが暗示していること


『反天皇制運動モンスター』第4号(2010年5月11日発行)掲載

韓国映画『クロッシング』を観た(キム・テギュン監督、二〇〇八年、カラー、35ミリ、 一〇七分)。

いわゆる脱北者の物語だ。北朝鮮のとある炭鉱町に住む一一歳の男の子ジュニは、父母との三人暮らしだ。つましい生活だが、日々のどんなことにも楽しみは見出せる。

父は元サッカー選手で、よくサッカーボールで遊んでくれる。巧みにボールを捌く父の足は、ジュニの憧れだ。母が肺結核で倒れた。薬は簡単に手に入らない。父は薬を求めて、危険を冒して中国へ密入国する。

働いて少しの金は得られても、脱北者であることがわかれば強制送還だ。北の実情を話せば大金が入るという話を信じてついていくと、行く先は韓国だった。

手を尽くして、北朝鮮に残した家族の安否を知る。妻は死んでいた。父と息子は何とかして連絡をつけ、危険な中国ではなくモンゴルで再会する手はずを整えた。

だが、翌日には父と再会できるはずだったジュニは、人っ子ひとりにも会えない広大なモンゴルの砂漠で、満天の星降る夜に死んでいった……。

「クロッシング crossing 」とは「横断、交差(点)、踏切り、十字路、十字を切ること、妨害」の意味だ、と同映画のパンフレットにはある。

さまざまな含意が込められていて、観客は任意にどれかを選べばよい、ということか。

私は、山のようにある脱北者の証言をよく読んできているので(図入りの本が、けっこう多いこともあって)、北朝鮮社会について、ある程度のイメージを描くことができると思っていた。

当然にも、そんな程度のイメージは破砕された。北朝鮮に住んでいた人に言わせると、庶民の住まいと食事の内容、市場・闇市の様子などがとりわけよく「現実に近く」描かれているという。

国境警備隊員のふるまいも、捕まった人びとが入れられる「鍛錬隊」なる強制労働キャンプの様子も、経験者の証言に基づいてセット造りや演技指導がなされている以上、相当な「現実性」をもっているのだろう。

私は、一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて、韓国文化院にときどき通っては、まだ一般映画館では上映される機会のなかった韓国映画を観ていた。

日本文化の「浸透」を禁じていた軍事政権時代のナショナリズムに依拠して、当時の韓国映画における「日帝本国人」の描き方は徹底して一面的だった。

敵対している北朝鮮の描き方も、画一的だった。止むを得ないなと思いつつも、心打たれるところは少なかった。

多くの場合は権力者による圧力で、また場合によっては表現者の自己規制や怠惰で、どんな国でも、「表現」がそうなってしまう、あるいはそうしかできない時代状況というものは、あるだろう。

韓国映画が、総体として、特に「民主化」以降の過程で、そんな制約を乗り越えてきたことは、この間公開されてきたいくつもの秀作を通して知ることができる。

脱北者家族の軌跡を描いて、『クロッシング』は単純な「反北」映画に堕すことはなかった。むしろ、つましく暮らす北朝鮮庶民の姿を、淡々と、切なく描いて、深い印象を与えるものとなった。子役を含めた演技者の功績も大きいだろう。

感情過多の、安易な演技に流れていないことが、貴重に[思えた。それだけに、腹をすかせた労働者や子どもたちのそばを、赤旗を掲げながら「首領さま」に忠誠を誓うスローガンを唱和しながら行軍していく者たちの姿の意味が、かえって、浮かび上がってきたりもする。

キム・テギュン監督は一〇年前、道端に落ちているウドンを拾って汚いどぶ水ですすいで食べる北朝鮮の子の実写映像を観て衝撃をうけ、その時の自分の「恥ずかしさ」を原動力としてこの優れた映画を完成させた。

私がこの映画を観終わって数日後、北の社会の絶対的な権力者が、さまざまな支援を求めて中国へ向かった。人と時間と金をふんだんに使っての、相変わらずの秘密行動だった。

公開性のない、このような隠密行動が、国内・国際基準の双方でいまなお許されると考えているところが、この独裁者の度し難い点だ。映画『クロッシング』は、北朝鮮国内と(たとえば韓国のような)外国とのあいだでの携帯電話での交通が現実化している様子を、実話に基づいて伝えている。

権力者が企図する情報の封鎖、それでも流れ出る情報――北朝鮮の状況の帰趨は、ここに焦点が絞られてきたように思える。 (2010年5月7日執筆)

映画『パチャママの贈り物』を観て


『新潟日報』2010年3月4日掲載

南米ボリビアの南部、チリ国境に近いあたりにウユニ塩湖が広がる。四国の半分程度の面積をもち、世界最大の塩湖だ。最近は、リチウムを産出することがわかり、世界的な注目を集めている。

塩湖が生まれるに至ったアンデス山脈独特の自然造形も興味深いが、周辺に住む人びとは塩原から切り出したブロック状の塩をリャマの背に乗せて売り歩く。

3ヵ月におよぶキャラバンである。異境の地の人びとの生活を知る文化人類学的な観点からも、大いに関心がかき立てられる。

映画『パチャママの贈り物』は、この塩湖を舞台にして展開する。パチャママとは、この地域に住む先住民族の言語で「母なる大地」を意味する。

自分たちが日々足で踏みしめている大地、しかも自然の恵みをもたらしてくれる大地は、おのずから、人びとの深い信仰の対象である。

13歳の少年コンドリは、父を手伝い、塩湖から塩の塊を切り出すのが日常だ。

いよいよキャラバンに参加できる年齢にもなった。映画は、3ヵ月のキャラバンを通して成長する少年の姿を、最後に訪れた村で出会った美しい少女との初恋物語を含めて描きだす。

アンデスの空はあくまでも青く、景色も雄大だ。あどけない表情をもつリャマの群が、たびたび登場するのも、楽しい。

それらを背景に、この地に生きる人びとの日々の生活の喜びと悲しみが浮かび上がるのは、映像の力だ。

加えて、ヨーロッパがこの地を征服して後に持ち出された鉱物資源でヨーロッパ近代の繁栄を可能にしたポトシ鉱山の様子や、ティンクのケンカ祭りの迫力ある映像などが見られて、うれしい。

私たちにとっては遥かに遠ざかってしまった、懐かしくも人間的な物語が、殺伐たる現代のなかに突然に投げ込まれたような印象を受ける。

監督は兵庫県出身で、30年近くニューヨークに在住してCMやドキュメンタリー番組を作り続けてきた松下俊文氏だ。「9・11」事件で倒壊ビルを目撃し、心身ともに揺さぶられ、出直そうと考えたそうだ。

そのとき一冊の本に出会った。私が編纂した『アンデスで先住民の映画を撮る』(現代企画室)という本だ。

先住民を歴史創造の主人公として描き出すボリビアの映画集団の試行錯誤や苦闘を、松下氏はそこに読み取り、深く思うところがあったようだ。

東京の私の事務所にいきなり電話してきたり、ボリビアに住む私の盟友、ホルヘ・サンヒネス監督を訪ねたり、行動は迅速だった。

台本準備から始まって構想以来6年の歳月をかけて、映画『パチャママの贈り物』は完成した。

人と本、人と人、人と映画、人と異境の地――これらすべての出会いは、こんなにも劇的で、楽しいものか、とつくづく思う。

追記:ホルヘ・サンヒネス監督の映画は、去る二〇〇六年、新潟シネ・ウインドで全作品が上映されたことがある。