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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウの長征(3)


キトでホルヘたちと別れるとき、私たちがやがてボリビアへ行くことを知っていながら、彼らは誰かへの伝言を託したり、誰それに会ってほしいと望んだりすることはなかった。軍政下の政治・社会状況は苛烈で、ウカマウのフィルムを持っていただけで逮捕されたり家宅捜索を受けたりする人もいた時代だった。外国人の私たちに「不用意な」ことを依頼して、相手にも私たちにも「迷惑」がかかることを避けたのだろう。

だから、ウカマウ集団の本拠地である肝心のボリビアで、私たちの滞在中にこれといって直接的に関わり合いのあることができたわけではない。だが、広い意味で考えるなら、結果的には、間接的にではあるがさまざまに「繋がる」エピソードがなかったわけでもない。ここでは、そのうちのいくつかのことを書き留めておきたい。

とある講演会でファウスト・レイナガという文筆家に出会った。ラパスの知識人たちが集まっているその講演会が終わりかけたころ、「君たちは、ケチュアやアイマラなどの先住民族の現実を少しも知ることなく、太平楽なおしゃべりをしている」と激しい口調で糾弾したのだ。関心をもって、声をかけた。ケチュア人であった。この人物については、私の新刊『【極私的】60年代追憶――精神のリレーのために』(インパクト出版会、2014年)の第8章「近代への懐疑、先住民族集団の理想化」で詳しく触れた。ご関心の向きは、それをお読みくだされば幸いである。ここでは最小限のみ言及しておきたい。

ファウストには『インディオ革命』など十数冊の著作があるが、いずれも、インカ時代のインディオ文明に対する全面的な賛歌と、翻ってそれを「征服」し植民地化したヨーロッパ(白人)文明 に対する批判と呪詛に満ちた文章で埋め尽くされている。植民地主義の犠牲にされた人びとが、過去から現在にかけての植民地主義を批判するときに、ときどき見られる立場である。植民地主義の論理と心理が染みついている植民者とその末裔たちの在り方を思えば、まずは、この問いかけに向き合わなければならないというのは、私の基本的な態度としてある(ありたい、と思い続けている)。だが、当時ファウストと話していても思ったのだが、対立・敵対している(かに見える)二つの立場を、一方を〈絶対善〉、他方を〈絶対悪〉と捉える立場は、討議・論争を不自由にする。この不自由さは、両者の関係性に負の影響を及ぼす。多くの場合、そのような立ち位置は、植民者の側に加害者としての自覚が欠けているときに現れる、被植民者側の怒りと苛立ちと絶望の表現である、ことは弁えるとしても。

誰にしても、この世に生を享けたときの諸条件が絶対化され、生きていく中で、活動していく中で、思考していく中で――「変わる」ことの可能性が否定されるなら、それはすなわち、人間の〈可変性〉を否定されることを意味する。私は、若いころからの、アイヌや琉球の人びとや在日朝鮮人とのつき合いのなかで、そのことを実感した。

のちにホルヘたちと再会したとき、ファウスト・レイナガのことは話題に上った。ホルヘたちも、当然にも、ファウストのことは知っていて、その立場は往々にして「逆差別」に行き着くしかないのだ、と結論した。私もその意見には同感だった。ウカマウの2005年の作品『鳥の歌』には、スペイン人による5世紀前の「征服」の事業を批判的に捉えようとする白人たちの映画撮影グループに属する一青年に対して、「ここは多数派の俺たちの土地だ。ここに白人は要らない。マイアミにでも行ったら、どうだ」と叫ぶ先住民の青年が登場する。ふたりは激しく言い争いをするのだが、ホルヘたちはここで、「可変的」である人間の価値を、生まれ・育ってきた存在形態の枠組みに永遠に封じ込めて、静的に判断することの間違い、あるいは虚しさを語っているのだと言える。逆に言えば、「矛盾」があるからこそ、その解決に向けて、ひとは行動する。その行動のなかで、ひとは変わり得る。そのことへの確信とでも言えようか。民族・植民地問題が人びとのこころに刻みつける課題は、重い。どの立場を選ぼうと、〈錯誤〉を伴う〈試行〉でしかあり得ない。現在の時点から俯瞰してみると、ウカマウ集団は、この課題と真っ向から取り組んで〈長征〉を続けてきたのだと言える。

あとになっての、もう一つの間接的な「繋がり」――それは、ボリビアと言えば忘れるわけにはいかない鉱山地帯への旅から生まれた。ポトシ、オルロ、シグロ・ベインテ、ヤヤグアなどの鉱山町へ、である。征服者フランシスコ・ピサロの一隊がインカ帝国を征服したのは1533年だが、1545年には海抜4000メートル以上の高地に位置するポトシ鉱山に行き着き、これを「発見」している。銀を求めて人びとが殺到し、ポトシはたちまちのうちに当時の世界でも有数の人口を抱える都市となった。そして採掘された銀はヨーロッパへ持ち出され、それが「価格革命」をもたらしたことは有名な史実である。これまたよく引用されることだが、スペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたのは1605年だが、その中では「ポトシほどの価値」と表現を使って、巨きな富を言い表わしている。もちろん、この繁栄を可能にしたのは、危険かつ過酷な鉱山労働に従事した(強制労働として従事させられた、という方が正確だろう)先住民の犠牲によって、である。ポトシには、博物館となっているカサ・デ・モネダ(造幣局)があって、経済的な繁栄の様子にも厳しい労働のありようにも想像力を及ぼすことができる装置は残っていた。だが、次いで訪れたヤヤグアやシグロ・ベインテの炭住街区の現実には胸を衝かれた。そこは、のちに知ったところによれば、鉱山で働く労働者の宿舎を建てることで成立した集落であり、いわば「野営地」にひとしいようなところを、鉱山労働者とその家族は住まいとしていたのであった。ボリビアの一作家は次のように表現したという。「人間がいかに我慢強いものであるかを知るには、ボリビアの鉱夫の居住区を知るにこしたことはない! ああ! 鉱夫と赤子はなんというさまで、生活にしがみついていることか!」。

私たちがここを訪ねた時点では未見だが、ウカマウは1971年にシグロ・ベインテを主要な舞台に『人民の勇気』というセミ・ドキュメンタリー作品を制作している。1967年6月、鉱山労働者と都市から来た学生たちは、当時ボリビア東部の密林地帯で戦っていたチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する坑内集会を開こうとしていた。これを事前に察知した政府は、夜陰に乗じて軍隊を派遣し、炭住街区を襲撃して大勢の労働者を殺した。この史実に基づいて、鉱山労働者と家族がおかれてきた状況を再構成した作品である。この作品には、シグロ・ベインテの実在の住民で、鉱山主婦会のリーダーのひとりであったドミティーラが出演している。彼女はその後1975年メキシコ市で開かれた国連主催の国際婦人年世界会議に招かれ、政府代表の官僚女性や「先進国」フェミニストの発言に対して、火を吹くような批判の言葉を投げつけた。

帰国後しばらくして、唐澤秀子は、このドミティーラの聞き書き『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人々の物語』を翻訳した(現代企画室、1984年)。炭住街区の様子やドミティーラの思いを日本語に置き換えていく過程で、この時の鉱山町訪問の経験が生きたと思う。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8403-6

(3月14日記)

ウカマウ集団の長征(2)


エクアドルの次にはペルーへ行った。ウカマウとの関係でのみいうなら、ホルヘ・サンヒネスとベアトリス・パラシオスは前年の1974年にはペルーに滞在していて、クスコ地方のティンクイ村を舞台に『第一の敵』(1974年)を撮っていた。結果的には、私たちはこの映画の16ミリフィルムをホルヘたちに託されて、日本での公開の可能性を探るべくその後帰国することになるのだが、75年に二人にキトで会ったときには観る機会を持つことはできなかった。だから、ペルーに滞在している間は、この映画が基となる史実を借用したという、ペルーのゲリラ・民族解放軍(ELN)指導者、エクトル・ベハール(Hector Bejar)が獄中で書いた証言記録( ”Las Guerrillas de 1965 : balance y perspectiva“ 『1965年のゲリラ――その結果と展望』)を読むに努めた。この本の英語訳は、当時ラテンアメリカ解放闘争の記録を積極的に出版していた米国のマンスリー・レヴュー社から刊行されていたので、日本を出る前に読んではいた。だから、まだ映画それ自体は観ないまでも、ホルヘたちが、1960年代のラテンアメリカにおけるゲリラ闘争をふりかえる物語構成を考えた時に、この本の記述に一定依拠したことを本人たちから聞いて、浅からぬ縁は感じた。一年後メキシコでホルヘたちに再会し、『第一の敵』も見せてもらい、さらに話を続けたとき、この映画が参照して描いたのは、ベハールの書の「アヤクチョ戦線」の章からであることがわかった。「アヤクチョ」については、後に触れる。

ところで、著者エクトル・ベハールのその後を知るためにインターネットで検索してみた。リマのサンマルコス大学で社会学を研究する学者になっていた。ペルー国内はもとより国際問題の論評も精力的に書き続けているようだ。現在書いていることの中身を読むのはこれからだが、半世紀前の武装ゲリラ指導者の人生がこんな風に続いているのを知ることはわるいことではない、と思った。→http://www.hectorbejar.com/ ウルグアイの大統領ホセ・ムヒカも、元は都市ゲリラ・トゥパマロスの活動家で脱獄経験もあるし、ブラジルの大統領ジルマ・ルセフも軍事政権下では非合法の左翼組織に属して武装闘争にも関わっていた、という。このような経歴の人物が、初志の延長上で(おそらくは、緩やかな変化を遂げながら)政治や研究の世界の前線にいるのだから、ラテンアメリカの社会は、変わることなく、おおらかで、懐が深い。もちろん、元ゲリラたちの資質と生き方にも、社会が受け入れる何かが備わっていたのだろう。

リマで読もうとした(十分に理解できたとは言えない)もう一冊の本は、詩人、ハビエル・エラウド(Javier Heraud)の詩集だった。1942年生まれの彼は、早熟な才能を示した詩人だった。キューバに留学していたが、密かに帰国した時にはベハールと同じELNに属していて、すぐにゲリラ根拠地に入り63年政府軍との戦闘に斃れた。21歳だった。日本にいる時から彼の名は聞いていて、作品を読みたいと思っていたのだ。詩の真髄を理解するには、私のスペイン語読解力は不足していた。後智慧だが、作家、バルガス・リョサはハビエルの親友で、その死に際して心に染み入る追悼文を書いた。当時のリョサは、キューバ革命を熱烈に支持し、一般論としても社会主義的な未来に希望を託している段階だったのだ。その後の彼の思想的変貌の過程には、上に触れた人びととは異なる次元だが、私は興味をそそられていろいろと参考文献を読み、「憂愁のバルガス・リョサ」という文章を『ユリイカ』1990年4月号に書いた(太田著『鏡のなかの帝国』所収、現代企画室、1991)。こうして書いていると、〈過去〉と〈現在〉が自由気ままに往還していくが、そこに何かしらの「繋がり」が見えてこないこともない点がおもしろい。

40年前に話を戻す。首都リマにしばらく滞在した私たちは、世界最高の高度を通る列車に乗ってアンデスを越え、以後ワンカーヨという町からクスコへ着くまで、地元の住民が利用する乗り合いトラックに乗って、途中のいくつかの町に泊まっては旅した。初めて目にするアンデス高原を幌もなくひた走るトラックの上は、風は冷たく、寒かった。ごく稀に停留所があって、町の市(いち)に物売りに行ったのだろう先住民の農民がひとり降りて歩き始めたりするのだが、見渡すところ人家も人影もまったく目にすることができず、いったいあの人はどれほどの距離を歩いて目的の家にたどり着くのだろうと、訝しく思ったりもした。トラックの上に残って旅を続ける者(都会から来た人間だったろう)からは、「おーい、こんなところで降りて、家はあるのかい?」などという声が投げかけられたりした。のちに『第一の敵』を観ると、先住民はまさにあの高原を、途方もない長い時間をかけて、勁い脚力で歩いているのだった。

途中にアヤクチョという町があった。スペイン植民地からの独立をめざすシモン・ボリーバル指揮下の軍隊がペルー副王軍と戦って勝利した会戦の場所だから、歴史書にも出てくる地名で、記憶にはある。夜更けに着いた町のホテルは、なにかの会議開催中とかで旅人が多く、空きはなかった。宿にあぶれたペルー人と外国人旅行客の数は数十人のかたまりになった。夜中に空いている公共機関は警察しかないな、と誰かが言い、みんなで警察署を訪れた。当直の警官と押し問答を繰り返した挙句、それなら仕方がない、ここに泊まっていいといって、彼は留置場を解放してくれた。

翌日、アヤクチョの町を歩いた。さまざまな意味合いで、「アンデス最深部」という言葉が浮かんでくるような町だった。「先住民性」を色濃く感じたせいだろう。ちっぽけな書店に入ると、『アメリカニスモ』辞典があった(”Diccionario de Americanismos “, Alfred N. Neves, Editorial Sopena Argentina, 1973)。「正統派」のスペイン語だけではない、ラテンアメリカ各地で使われる先住民の母語に派生する語句、いくつかの言語の混淆語などの特有の単語が収められている。何の役に立つかも知らぬまま、辞書好きの私は買い求めた。それには、アンデス先住民の母語であるケチュア語やマイマラ語の単語もけっこう収められていて、結果的には、その後ウカマウ集団の映画を次々と輸入して、字幕の翻訳作業を行なう時に少なからぬ働きをしてくれることになるのである。すでに述べたように、ウカマウの映画には、ケチュアとアイマラの民が常に登場し、その言語がスクリーン上に炸裂するからである。

こうして、アヤクチョの町も、ウカマウとの関係で何かにつけて思い出される町となった。この訪問から5年後の1980年、アヤクチョ地域を根拠地とした反体制武装運動「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」の活動は開始される。これは、ベハールの時代のそれとはまったく異なる性格を持つ運動で、その性格に深い衝撃を受けた私は、カルロス・I・デグレゴリ他著『センデロ・ルミノソ――ペルーの〈輝ける道〉』と題する翻訳書を出版して、長文の解説を付した(現代企画室、1993年)。それはまた、別な物語となるので、ここで止めておきたい。

(3月13日記)

ウカマウ集団の長征(1)――出会い


私たちが、ボリビアの映画制作集団ウカマウの作品の自主上映を始めたのは1980年のことだった。早や34年が経っている。上映に加えて、その作品のシナリオ集や映画理論書も刊行してきたし、幾人もの論者によってウカマウ論もずいぶんと書かれてきた。だが、34年と言えば、その間には幾世代もの移り変わりがある。2014年5月、全作品回顧上映を企画している機会に、主としてウカマウを知らない若い世代に向けて、ウカマウの映画のことや私たちの活動のことをあらためて書いておこうと思う。

いまから40年近く前の1975年、私たち(私と唐澤秀子)はエクアドルの首都キトにいた。メキシコを皮切りにラテンアメリカの歴史と文化、現在の状況を知るための現地での生活はすでに3年目に入っていた。人びととの交流こそがいちばん大事とはいえ、新聞や本を読み、ラジオを聞き、映画・芝居・音楽・講演などの催し物に足を運ぶことも、重要なことだ。キトに着いて間もなく、その魅力的な街を散歩していた。とある街角で壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。映画上映の告知のようだ。銃を握りしめたインディオの一青年の切羽詰った表情がポスター全体を覆っている。Yawar Mallku という、私たちにとっては未知の言語でタイトルが書かれている。近寄ってみると、Sangre de Condor というスペイン語でのタイトルも付されている。『コンドルの血』という意味だ。ボリビア映画であること、エクアドルではすでに何十万もの人びとが観たことなども書かれてある。見るからに先住民の顔立ちの人が映画の前面に出ているようだ。そんなことなど、あり得ない時代だった。加えて、アンデス先住民にとってコンドルが象徴する世界は深くて、広い。これこそ、メキシコで名のみ聞いていた、あのグループの映画ではないのか。どうしても観なければ、と思った。たまたま、その日が上映日だ。

会場はキト中央大学講堂だった。70分間、私はスクリーンに釘づけになった。話されている言語はスペイン語、ケチュア語、英語。ケチュア語はまったく理解できないが、演技者の表情を伴って話されるし、物語の展開を追うのにそれほど障害にはならない。物語はこうだ――とあるアンデスの先住民村。若いカップルの結婚が続いたのに、なぜか、子どもが生まれない。そのことに不審を抱いた村長(むらおさ)は、数年前から「低開発国援助」の名目で村に来て、診療所を開設している米国人グループがいることを思い出す。ある日、診療所の壁の隙間から内部を覗くと、村の若い女性に対する手術が行われているのだが……。それは、本人の同意を得ないで行なわれている強制的な不妊手術であることを知った先住民たちは米国の青年たちの住まいに押しかけて告発する――。他にもいくつもの伏線が張られている物語は、内容的に豊かに展開するが、説明はこれくらいに留めておこう。

それにしても、「強制的な不妊手術」とは穏やかではないが、この主題には既視感があった。1970年前後の日本において、ボリビアやペルーなどのアンデス諸国から、米国が派遣している「平和部隊」が追放されたというニュースが報道されていたからである。「産児制限をしないことによる人口爆発→来るべき食糧危機」という図式を唱える学者が「先進国」にはいて、その考えを信じた平和部隊員が『コンドルの血』に描かれたような行為に及んだのである。また、この「平和部隊」は、1959年のキューバ革命の勝利に驚いた当時の米国大統領ケネディが、それまでは等閑視してきた「後進国」の貧困問題などを解決するための援助政策として立案したものであった。ラテンアメリカでは、それは「進歩のための同盟政策」と呼ばれた。それが、一面ではこんな実態をもつのが現実だったのだ。

描かれている事実もさることながら、欧米と日本の映画文法に慣れ親しんできた者としては、カメラワークをはじめとする映画技法が新鮮だった。スクリーン上にケチュア語がとびかうことも刺激的だった。厳然と存在する差別ゆえに、インディオは公の場では自らの母語を話すことさえ憚られるという証言を、この時代のそれとしていくつも読んできたからである。

上映会場には、チラシ一枚すらなかった。単に上映が行なわれ、観客はそのまま帰って行った。制作者や監督のことを知りたいと思った私たちは、大学の事務局によって、この映画のチラシを一枚でも欲しいと言った。監督はいまキトにいるよ、あなたたちのことを伝えておくよ。

翌日、監督のホルヘ・サンヒネスとプロデューサーのベアトリス・パラシオスが私たちの宿泊しているホテルへ訪ねてきた。ふたりは、ボリビアに軍事政権が成立した1971年以来国外へ亡命し、チリ、ペルーなどを経て、エクアドルに来ているということだった。ロビーで長いこと話し合った。この映画に詰め込まれているたくさんのことどもから派生して、いつしか世界観や歴史観をめぐる話となったが、物の見方や考え方において共通なものを随分と感じた。ホルヘたちもそうだったであろう。「先進国」から先住民を見る視線にも、ほかならぬボリビア内部で多数派住民である先住民を見る視線にも、拭いがたい構造的な差別がある。左翼ですら、この弊を免れている者は少ないんだということを、いくつかの実例を挙げながらホルヘは説明してくれた。

彼らの作品は初期から、カンヌ映画祭などで夙に注目されていたようだが(ゴダールが『コンドルの血』を評して「人びとを行動に動員する要因になり得るもの」と言ったことは、ずっと後になって知った)、とある映画祭で出会ったフランス映画社の柴田駿氏からは、この種の映画は日本では商業公開は無理ですと断られたとも言っていた。映画の内容から配給事情まで、初対面での話題は広範に広がった。

亡命の身であるが、エクアドルでは新作制作の企画もあり、彼らのエクアドル滞在はしばらく続く、という。私たちは、このあとさらに南へ向かい、アルゼンチンとチリまで行き着いてから再度陸路で北へ戻る。連絡を取り合っていれば、ふたたび落ち合うことはできよう。その時には、いままで作ってきたウカマウの作品をすべて観る機会をつくろう、とホルヘたちは言った(1975年のその段階では、『ウカマウ』『コンドルの血』『人民の勇気』『第一の敵』の4作品があった)。

そんな約束を交わして、私たちはキトでいったん別れた。最少限の記録は残っているが、それにしてももはや40年近くも前のこと――おぼろげになった記憶も少なくないなかで、いまも消え去ることなく鮮明な「出会い」の一つが、これである。

(3月10日記)

第3回死刑映画週間「国家は人を殺す」開催に当たって


「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」主催「第3回死刑映画週間」のためのパンフレット(2014年2月15日発行)掲載

いまからもう17年も前のことになるか、「この国は危ない/何度でも同じあやまちを繰り返すのだろう/平和を望むと言いながらも/日本と名のついていないものにならば/いくらだって冷たくなれるのだろう」とうたった歌手がいた。1997年4月23日、在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件が、当時のフジモリ大統領の武力発動によって「決着」をみたのだが、その軍事作戦で人質1名、攻撃した兵士2名、ゲリラ14名が死んだ後のことである。救出された人質が乗ったバスの出入り口に立ったフジモリ大統領が、満面の笑みを浮かべながらペルー国旗をうちふる姿を覚えている方もおられよう。それを、日本のメディアは「日本人(人質)が助けられた」と嬉しそうに絶叫するばかりで、他国の死者(この歌では、「救出作戦に当たった兵士2名の死」のことを言っている)には何の関心も示さない形で報道した。歌は、そのことへの危機感の表明であった。この軍事作戦が実施された日付に因んで「4.2.3」と題されているこの曲の作り手も歌い手も、中島みゆきである(曲は『私の子供になりなさい』、ポニーキャニオンPCCA-01191、に入っている)。

言葉を変えるなら、人間の生死に関わることがらを、「日本国民」という内部と「非日本人」という外部に〈ごく自然に〉分け隔てて喜怒哀楽を表現してしまうという、この社会に根深く沁みついている心性の在り方に、歌手は深い危惧を抱いたのである。

私は最近、この歌を幾度となく思い起こす。それは、おそらく、次の二つの理由からきている。ひとつには、現首相や政権与党指導部によって煽動され、草の根の一定の「民意」にまで根を下ろしている偏狭なナショナリズムが、上に触れた17年前のあり方とぴたりと重なり合う傾向を示しているからである。否、ぴたりと重なり合うという表現に留めるのは、正確ではない。「外部」にあるものをひたすら憎み侮蔑し、国の「内部」に凝り固まるこの現象は、いわゆる「ヘイト・スピーチ」に見られるように、醜悪なまでに増長しているのが現実なのである。

ふたつ目は、この国家のあり方と切っても切れない関係にある「死刑」問題の現況からくる。与党幹事長は、上の趨勢を推し進める過程で、「(国防軍)が成立した暁には、戦場への出動命令を拒否すれば軍法会議で死刑もしくは懲役300年」と語った。また、現法相は昨年4回にわたって死刑執行を命じて、計8人の人びとの命を奪った。凶悪犯罪を犯して「死刑囚」になった者と犯罪とは無縁な「一般人」の間に高い垣根をつくって、これを暗黙の裡に認める「民意」がこれを後押ししている。

「国」の内部に固まって、恐るべき言葉を「外部」に投げつける人びと。「死刑囚」や「犯罪者」を遠巻きにして、悪罵の石を投げつける人びと――自らは決して傷つくことのない安全地帯をおいて行なわれているこの行為は、国家が安んじて「人を殺す」基盤を形成する。戦争を通して、そして死刑制度を通して。この社会は、ほんとうに、きわどい地点にまできた。今回上映される8本の映画を通して、この状況を客観視する縁にしたい。

「もうひとつの9・11」――チリの経験はどこへ?


DVD BOOK ナオミ・クライン=原作 マイケル・ウィンターボトム/マット・ハワイトクロス=監督作品

『ショック・ドクトリン』解説(旬報社、2013年12月)

2001年9月11日米国で、ハイジャック機による自爆攻撃が同時多発的に起こった。この事件を論じることがここでの目的ではない。少なからずの人びと(とりわけラテンアメリカの)が、この事件によって喚起された「もうひとつの9・11」について語りたい。それは、2001年から数えるなら28年前の1973年9月11日、南米チリで起こった軍事クーデタである。その3年前に選挙によって成立した世界史上初めての社会主義政権(サルバドール・アジェンデ大統領)が、米国による執拗な内政干渉を受けた挙句、米国が支援した軍部によって打倒された事件である。

2001年9月11日以降、米国大統領も、米国市民も、なぜ米国はこんな仕打ちを受けるのかと叫んで、「反テロ戦争」という名の報復軍事作戦を開始した。「もうひとつの9・11」は、実は、1973年のチリだけで起きたのではない。世界の近現代史を繙けば、日付は異なるにしても、米国が自国の利害を賭けて主導し、引き起こした事件で、数千人はおろか数万人、十数万人の死者を生んだ事態も、決して少なくはない。そのことを身をもって知る人びとは、2001年の「9・11」で世界に唯一の〈悲劇の主人公〉のようにふるまう米国に、底知れぬ偽善と傲慢さを感じていたのである。

同時に、ラテンアメリカの民衆は、1973年の「9・11」以降、世界に先駆けて、チリを皮切りにこの地域全体を席捲した新自由主義経済政策のことも思い出していた。アジェンデ政権時代には、従来の社会的・経済的な不平等にあふれた社会で〈公正さ〉を確立するための諸政策が模索されていた。外国資本の手にあった鉱山や電信電話事業の公共化が図られたのも、その一環だった。軍事クーデタは、これを逆転させた。すなわち、新自由主義政策が採用されたからだが、日本の私たちも、遠くは1980年代初頭の中曽根政権時代に始まり、近くは2000年代の小泉政権時代に推進されたこの政策に、遅ればせながら晒されていることで、その本質がどこにあるかを日々体験しているのだから、政策内容の説明はさして必要ないだろう。

1980年代初頭に制作されたボリビアのドキュメンタリー映画に、印象的なシーンがある。軍事政権時代に莫大に流入していた外国資本からの借款が、どこへいったのかと人びとが話し合う。高台にいる人びとは、下に見える瀟洒な中心街を指さし、「あそこだ!」と叫ぶ。そこには、シェラトン、証券会社、銀行などが入った高層ビルが立ち並んでいる。周辺道路もきれいに整備され、さながら最貧国には似つかわしくない光景が、そこだけには現われている。「あそこで使われた金が、いま、われわれの背に債務として圧し掛かっているのだ」と人びとは語り合うのである。これは、新自由主義経済政策下において導入された外資が、その「恩恵」には何ら浴すことのない後代の人びとに債務として引き継がれる構造を、端的に表現している。

だが、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けただけに、ラテンアメリカの人びとは、その本質を見抜き、それを克服するための社会的・政治的な動きをいち早く始めた、と言えるだろう。国によって時間差はあるが、20世紀も終わりに近づいた1980年代以降、次第に軍事政権を脱して民主化の道をたどり始めた彼の地の人びとは、新自由主義によってズタズタにされた生活の再建に取り組み始めた。旧来の左翼政党や大労働組合は、この経済政策の下で、また世界的な左翼退潮の風潮の中で解体あるいは崩壊し、この活動の中軸にはなり得なかった。民衆運動は、地域の、生活に根差した多様な課題に取り組む中で、地力をつけていた。新自由主義政策が踏み固めた路線に沿って、さらに介入を続ける外国資本を相手にしてさえ人びとは果敢に抵抗し、ボリビア・コチャバンバの住民のように、水道事業民営化を阻止するたたかいを展開した。

政治家にあっても、社会改良的な立場から自国の政治・経済・社会の状況に立ち向かおうとすると、既成秩序の改革が必要だと考える者が輩出し始めた。彼(女)らの関心は、差し当たっては、新自由主義が根底から破壊した社会的基盤を作り直すことであった。20世紀末以降、ラテンアメリカ地域には、世界の他の地域には見られない、「反グローバリズム」「反新自由主義」の顕著な動きが、政府レベルでも民衆運動レベルでも存在しているのは、このような背景があるからである。

「もうひとつの9・11」――チリの悲劇的な経験は、それを引き継ぎ、克服しようとする人びとの手に渡っているというべきだろう。

司馬遼太郎の「日本明治国家」論の呪縛――アニメ『風立ちぬ』が孕む問題


『映画芸術』第445号(2013年10月末刊行予定)掲載

子ども向けのアニメーション映画では、夢を追い、理想を語り、現存する価値観や秩序の外へ出て、新しいものをつくりあげていいんだよ、と呼びかけてきた宮崎駿監督が、大人のアニメーション映画をつくったときに、どんな作品が出来あがったか。『風立ちぬ』が問いかけるのは、この問題だと思う。

この映画の原作・脚本・監督のすべてに関わった宮崎は、戦争を糾弾したり、ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞したり、主人公は実は戦闘機ではなく民間機を作りたかったのだと庇ったり――それらを描くことは意図しない、と語る(「企画書・飛行機は美しい夢」、映画パンフレット『風立ちぬ』所収)。続けて、言う。「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間を描きたいのである。夢は狂気をはらむ。その毒もかくしてならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない」。

「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人間」とは、この映画の主人公で、実在の人物であった堀越二郎である。戦闘機・ゼロ戦の設計者として知られる。1941年生まれの宮崎は、自他共に認める兵器愛好者であり、会議中でも雑談中でも、白い紙に思わず兵器や戦闘機をスケッチしているという挿話の持ち主である。設計物としてのゼロ戦の「美しさ」を思い、同時に、日本は愚かな戦争で「負けただけじゃなかった」と言える数少ない存在が優秀な機能をもったゼロ戦であると確信している(『朝日新聞』2013年7月20日「零戦設計者の夢」)。戦争を嫌い、武器を愛するのは「矛盾の塊」だが、「兵器が好きというのは、幼児性の発露」と自己分析する。

脚本では堀越二郎の人物像には、具体的な接点はまったくなかった同時代の作家・堀辰雄の像がフィクションとして重ね合されていることだけを付け加えておくなら、この作品にかけた宮崎の意図の説明としては、これで十分だろう。大急ぎで言っておくなら、「狂気や毒をすらはらむ夢」が描かれることになるなら、芸術作品の企図としては十全だ、とも。

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『風立ちぬ』において、宮崎の意図はどのように実現しているだろうか?

1910年代、北関東の片田舎に生を受けた二郎は、近代化以前の時代を生きていた美しい日本の風土の中で育ち、いつしか大空を風のように飛ぶ飛行機への憧れを抱く。手本として夢の中で出会うのは、同時代のイタリア航空機業の創業者、ジャンニ・カプローニ伯爵である。ユニークな型の航空機を次々と開発していたカプローニへの傾倒は、少年時代の二郎の夢の大きさを物語る。彼はその夢を実現し、大学では航空学科に学び、就職も三菱内燃機(現・三菱重工)に決まり、航空宇宙システムの分野で働く。視察・研修のためにドイツへも長期間にわたって赴く――二郎の前半生をこのように設定することには、もちろん、実在した堀越二郎の経歴が反映されていよう。同時に観客は、明治維新以降の50~60年の日本国家の歩みをそこに重ね合せることになる。二郎の人生は、欧米諸国をモデルに、富国強兵・殖産興業に邁進した歳月の国家的なあり方の縮図でしかないからである。

映画は、「自分の夢に忠実にまっすぐに生きた」二郎が開発した戦闘機・ゼロ戦が、どのように使われたかを明示しない。終盤に登場するカプリーニとの間で、「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」「はい、終わりはズタズタでした」「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは」という会話が――それは、ゼロ戦の残骸の山を前に交わされる――すべてを暗示するだけである。

冒頭で紹介した宮崎の意図からすれば、ここまで描けば十分となるのだろう。だが、映画では夢の中で出てくる爆撃シーンの先には、現実には異邦の人びとの生死があったのだという事実を無視することは、宮崎においてどのように可能になったのだろうか? この映画が主題としているのは別なことだという説明は可能だろうか? 二郎の夢にはらまれていた「狂気や毒」は、この描き方で十分だったのだろうか?

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現実の宮崎駿は、日本がアジア諸地域に対して行なった植民地支配や侵略戦争の問題について、また従軍「慰安婦」問題について、的確な批判的発言を行なってきた。その彼が『風立ちぬ』で行なった、アジア無視という歴史把握の方法には、次の問題がはらまれているのだと思える。

宮崎には、堀田善衛および司馬遼太郎と語り合った『時代の風音』という著書がある(朝日文庫、1997年。初版はユー・ピー・ユー、1992年)。若いころからの堀田の影響は大きかった、とは宮崎の言である。司馬に関しても、『明治という国家』やテレビ番組『太郎の国の物語』に非常に感動した、と述べている。『歴史の風音』の座談会自体は、堀田と司馬のふたりを軸に行なわれていくので、宮崎の発言は目立たない。私自身も、堀田独自の、歴史の重層的な把握方法には多くを学んできた。他方、司馬の『明治という国家』や『坂の上の雲』などに見られる「明るい明治」と「暗い昭和」を対比させ、両者の間に断絶をもうけて前者を称揚する方法には、あまりにご都合主義的で、歴史の見方としては成立し得ないとの批判をいだいてきた。

任意に、いくつかの司馬の発言を引いてみる。「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることはまちがいはない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追い詰められた者が生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったことはまぎれもない」(『坂の上の雲』)。

「私は軍国主義者でも何でもありません。(中略)日本海海戦をよくやったといって褒めたからといって軍国主義者だということは非常に小児病的なことです。私は彼らはほんとうによくやったと思うのです。彼らがそのようにやらなかったら私の名前はナントカスキーになっているでしょう」(『「明治」という国家』)

『この国のかたち』と題された、司馬の文明批評的な評論集の随所に見られるのは、「昭和はだめだが、明治の国家はよかった。そこまではよかった」という独特の史観である。明治国家はすでに述べたように、欧米に追随し富国強兵の道を歩み、そのことで近隣のアジア諸地域を植民地支配と侵略戦争で踏みつけにした。その延長上に、堀越二郎が生きた「大正」「昭和」の時代はくるのだから、それは連続性によって捉えるべき歴史事象であり、個人の恣意で断絶をもうけることはできない。また、歴史事象には「オモテ」と「ウラ」があり、この場合は「オモテ」だけを主題としているから、「ウラ」からの批判を免れることができるということもない。司馬の不透明な文章と物言いは、その点を曖昧模糊とさせて、ひとを幻惑する。司馬の近代日本国家論に親しむという宮崎は、『風立ちぬ』において、その轍を踏んでしまったように思える。

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最後に、次のことに触れておきたい。20年ほど前、歴史教科書において、植民地支配・侵略戦争・「慰安婦」問題などをめぐる従来の記述方法に異議を唱える「新しい歴史教科書をつくる会」の活動が活発化した時期があった。漫画家・小林よしのりもその流れに参与し、独自にたくさんの漫画作品を描き始めた。それが、若者を中心としたおおぜいの読者を獲得していることを知った私は、どんな漫画なのかと思い、いくつかを眺めてみた。絵柄は好みではなく、物語の展開にも呆れる個所が多かったが、目を逸らすようにして、吹き出しの文句だけを読み急いだ。時代はすでに、左翼をはじめとする反体制の思想と運動の退潮期に入っていた。小林は、戦後進歩派や左翼が従来展開してきた戦争論や「慰安婦」問題に関わる論議のうちから、「弱点」を衝きやすい論点を誇大かつ一面的に描いては、それに反駁するという方法を駆使する場合が多かった。当時は、今なら実現しているようなネット社会ではなかった。だが、小林漫画の扇情的で独断に満ちた情報の切り出し方といい、受け手の多くがそれを唯一の解釈として受け入れ、他の情報との照合を行なって真偽を確かめるという作業を行なわない流儀といい、現在のネット空間の貧相なあり方を先取りしたような世界であった。私は、小林漫画が展開している非歴史的な「論理」(「非論理」と言うべきか)は批判したが、どこか痒いところに手が届いていない欠落感を抱えていた。

ちょうどその頃、美術史家の故・若桑みどりが行なった小林漫画についての講演を聴く機会に恵まれた。彼女もまた、あの漫画は嫌だけれども読まなければならぬといい、図像学的な分析から言えば、彼の漫画はうまく、読み手がどこに反応するかのツボを心得て描いている、と語った。物語の要所に登場しては問題を提起し、叫び、怒り、悲しむ人物には漫画家自身が投影されているが、クライマックスにおけるこの人物とその周辺の描き方は際立っており、読み手が主人公に一体化する仕掛けが施されている、というように。

アニメーション映画としての『風立ちぬ』論においても、また、このような図像的な視点からの分析・批判が必要なのだろう。現在の私にその任は担いきれないが、しかるべき方がその作業を担ってほしいと希望して、この稿を終えたい。小林と宮崎の同一性を主張したいのではない。ジブリ・グループの画の魅力を十分に弁えたうえで、物語の展開への批判を深めたいのだ。

第2回死刑映画週間を終えて


死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90機関誌『FORUM90』128号

(2013年3月30日発行)掲載

昨年初めて「死刑映画週間」の開催を試みたが、それに手応えを感じた私たちは、去る2月2日から8日までの7日間、昨年と同じ東京渋谷・ユーロスペースで、第2回目を開催した。存在する死刑制度の実際に即して考え、問題提起を行ない、討論を深めることは、もちろん大事だ。同時に、ひとに備わっている想像力を駆使した映画・文学などの芸術表現は、ひとの心に意外なまでの作用を及ぼすことがあるから、その力を借りて、問題の領域を広げたり深めたりすることができる。昨年は、犯罪と死刑をテーマにした10本の映画を上映してみて、この思いをさらに深めることができた。だから、第2回目を開催することは当然の選択だった。

「死刑映画」と一口にいっても、上映可能な作品が次から次へと湧き出てくるわけではない。10本前後の作品を上映するとなると、借出し料金も相当な額に上る。加えて、旧い作品の場合、配給会社が消えていることもあるし、もはや上映権が切れている場合も多い。新作でも、制作側はロードショーを終えてしまうとDVDソフトの販売に力を入れるから、劇場でのスクリーン上映にはあまり拘らないケースが昨今は出てきているようだ。昨年来、この映画をぜひ、という推薦をくださった方もいる。「この作品をこそ」と多くの人が思う作品で、昨年と今年のリストに上がっていない作品があれば、そんなケースに該当するだろう。したがって、「犯罪」は扱われているが「死刑」そのものが必ずしも主題とはいえない作品も(もちろん、それが「犯罪映画」として、また「時代と人間」の描き方としてすぐれた作品であることを前提として)上映リストに入れることになる。今年の場合、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』がそれである。

今年は、9本の作品を27回上映した(『ヘヴンズストーリー』が長尺なので、2回枠を使った)。観客総数は1308人だった。昨年より数十人少なかった。当日券の観客が6割を占めて、前売り券を持った人より多いのは昨年と同じ傾向だった。私たちがふだんは接していない人がけっこう多く来場していることの証左だろう。

総じていえば、『少年死刑囚』や『真昼の暗黒』のように、観る機会が少ない、旧い日本映画への関心が深いことがうかがわれた。実際にあったことを素材にしている作品の場合は、それを通して、自分が知らない過去の出来事、時代背景、警察・検察・裁判所のあり方、人びとの暮らしの様子、さらには名のみ知る過去の名優たち(その多くは、いわゆるバイプレイヤーである)の姿などを知るという魅力がある。『略称・連続射殺魔』は、永山則夫が生まれ育ち生活した場所や、彼が見たであろう風景をひたすら写し撮るだけで、登場人物も物語もあるわけではない。こんな喩えは監督の足立正生氏には申し訳ないが、私は、グーグルの「ストリート・ビュー」の先駆けのように思える瞬間があった。ともかく、そこにはまぎれもなく「1969年」の日本各地の風景があって、知る者には懐かしく、知らない者には新鮮だ。戸惑いを感じた人もいたようだが、制作当時「風景論」なる熱心な論議を巻き起こしたこの作品から、ある出来事(犯罪)の背後に広がる「風景」を知ることが、どれほど大事なことかを実感できた人が多かったという印象を受けた。

『ヘヴンズストーリー』は、本来なら、この作品だけを論じる機会を得たいほどの長編力作で、4時間38分のあいだ立ちっぱなしの人が10人以上も出るほどの盛況だった(椅子席は92席)。実際に起きた事件をモデルにして描かれてはいるが、それに土俗性も重層的な物語性も注ぎ込まれているので、豊かな膨らみを持つ作品となった。犯罪と被害、被害者遺族が辿らなければならない後半生の生き方、報復、暴力の「連鎖」――などの諸問題をめぐって深いところで考えるよう、観客を誘う作品だった。テレビ・新聞の事件報道では、複数の視線が絡み合うことなく〈単一の〉同調主義的な視点が作り出されてしまうが、この映画は違った。その違いが際立ってもいた。その意味でも「罪と罰と赦しと」という今年の副題にもっともよく見合った内容だった。

観客数という意味で苦戦したのは、韓国の『ハーモニー』と中国の『再生の朝に』だった。収支はトントンにしたいし、上映する以上はできるだけ多くの人に観てもらいたいから、「数」はこだわりの対象である。なぜだったのか、作品論(これが大事だ、ということを私たちは自覚している)を含めて、今後の私たちの検討課題としたい。韓国は、死刑が連発された軍事政権時代とうって変って、この15年間死刑が執行されず、実質的な死刑廃止国となっている。中国は、日本・北朝鮮と並び、国内統治の重要な手段として死刑制度を利用し続けている東アジアの一国である。どちらの国の経験も、いまだに死刑制度を廃絶できていない日本の私たちに示唆を与えよう。東アジアには、なぜか、世界的には20数年前に消滅したはずの「東西冷戦構造」が継続しており、国内矛盾を隠蔽しながら対外的に強硬路線を取る支配層が存在する。ここに生きる私たちは、他のどこよりもまず日本社会のあり方の問題として、このことを分析しなければならない。自らを省みることのない排外的なナショナリズムの煽動において、国内の厳格な刑罰制度としての「死刑」はどんな役割を果たしているのか。両者の間には関係があるのか、無関係なのか。死刑制度廃止が加盟条件になっているEU諸国の場合には、あり得ない課題の設定である。「死刑映画週間」もまた、この社会に強まる「見ず知らずして、隣国に対する理由なき嫌悪感」が現われる一例にならないこと――そのことを私たちは心がけたい。

今年は来場者にアンケートへの記入をお願いした。予想以上に多くの方が寄せてくれた。希望上映作品も、幾人かの方が挙げてくれた。前述のような理由で、すべての希望を叶えることはできないが、今後も示唆と助言はいただきたい。上映期間の延長を希望される方もいるが、現状の私たちの力量では一週間がギリギリの限度である。資金面とスタッフの仕事量の双方の意味から考えて。さらに作品の内容に関して、また死刑制度に関して、ご自分の見解を披歴するいくつもの意見をいただいた。糧としたい。

さて、スタッフは、来春の第3回の実現に向けて準備に入っている。今回来場された方が下さったDVDで候補作品を観たり、各劇場を回ってめぼしい作品を観たりしている。どんなプログラムができるかはまったくの未知数だが、どうか、今後とも批判的なご支援をいただきたい。

ウカマウ集団と日本からの協働――歴史観と世界観を共有して


眞鍋周三編『ボリビアを知るための73章』【第2版】(明石書店、2013年2月刊)所収

ボリビアの映画作家、ホルヘ・サンヒネスらが形成する「ウカマウ集団」の作品は、1980年以降、そのすべてが日本で公開されている。基本的には、非商業レベルの自主上映形式である。国際的には一定の知名度をもつ映画集団であり監督ではあるが、小さな国の映画集団であることを思えば、あまり例を見ないことである。ここでは、そこへ至る過程を述べるものとする。

ラテンアメリカの歴史と文化、実際に行なわれているさまざまな文化表現に関心を持つ唐澤秀子と私・太田昌国が、ラテンアメリカ遍歴の道程でエクアドルに滞在していたのは1975年のことである。ある日、キトの街を散策していると、街頭の壁に貼られた一枚のポスターに気づいた。切羽詰った表情をしたひとりの先住民青年が銃を手に構えている。エクアドルではすでに何万人が観たとか、いくつかの惹句が添えられた『コンドルの血』というボリビア映画の宣伝ポスターであった。この地域を理解する鍵のひとつは、先住民に関わる諸問題だと痛感していた私たちは、その足で会場へ向かった。

衝撃的な作品であった。アンデス先住民の農民がスクリーンで話しているのはケチュア語で、まったく理解はできない。都会の人間が話すスペイン語や米国人の英語の一部が聞き取れるだけだ。だが、物語の筋は十分に見える。とあるアンデスの寒村が舞台だ。結婚したカップルが幾組もあるのに、村ではここ数年子どもの誕生がない。なぜだろう、と訝しく思った首長は、数年前から米国の医療チームが低開発国援助の名の下で診療活動をしている診療所をのぞく。そこでは、地元の若い女性に対して、本人の同意を得ない不妊手術がなされていた。真相を突き止めた村人たちは怒り、医療チームの住み家を襲うが……と物語は展開する。

米国の平和部隊が何らかの理由でボリビアやペルーから追放された1970年前後の出来事は、日本にいた頃に知っていた。明かされた事実の衝撃性もさることながら、見慣れた日本や欧米の映画とは異なるカメラワークなどの映画作法も新鮮だった。会場にはチラシも何もない。係に乞うと、それはないが、映画の監督がいま亡命者としてキトにいるという。私たちの連絡先をおいて、その日は去ったが、翌日逗留先のホテルに現れたのが監督のホルヘ・サンヒネスとプロデューサーのベアトリス・パラシオスだった。私たちは映画の感想を語り、広くさまざまなテーマについて語り合った。歴史観や世界観に著しい近さを感じる人たちであった。

その後、亡命先を転々とする彼らと、旅を続ける私たちは、幾度となく会う機会をつくった。コロンビアで、メキシコで。その間に、今までの作品をすべて見せてもらった。ウカマウの作品群は、単にアンデス地域に限定されることのない、広く帝国―第三世界の諸問題を、歴史的・芸術的に提起している優れたものであるとの確信を得た。帰国する私たちに、彼らは一本の16ミリ・フィルムを託した――『第一の敵』。日本での上映の可能性を探ること。それが双方の約束事であった。

1970年代後半、その頃、小国の無名作家の映画を商業公開する可能性はまったくないことが、すぐわかった。自主上映する方針を決め、字幕用の翻訳をはじめとする多くの作業を自力でやることにした。不足する資金は、友人たちから借りた。1980年6月、2週連続の週末4日間、定員400名ほどの会場で6回の上映を行なった。入場者総数2000人。驚くべき数であった。ボリビアにおけるチェ・ゲバラの死から十数年、まだその記憶が鮮明な時代であった。初公開されるボリビア映画は、ゲリラと先住民貧農の共同闘争をテーマとしているとの情宣を行なったので、それが効いたのかもしれぬ。

東京上映成功の報を聞いて、全国各地から上映計画が寄せられた。名古屋・京都・大阪・那覇・広島・札幌・神戸・仙台・博多・水俣・佐世保――わずか一本の16ミリ・フィルムが全国を旅し始めた。生業を別にもつ私たちは、上映収入から最小限の必要経費(フィルム代・字幕入れ代・チラシ印刷費・会場代など)を落とした残りはすべてウカマウに還元するという方法を原則とした。当時ボリビアは民主化の過程を迎えており、長い間亡命していたサンヒネスらはそのたたかいの過程を記録している時だった。日本からなされる送金が次回作の制作資金の一部となるという、当初からの構想が具体化し始めた。その後数年のうちに、既存の作品はすべて輸入して、次々と上映会を行なった。送金額も順調に増え続けた。5年後の1985一年、次回作を共同制作しないかという提案がウカマウからきて、あらすじも送られてきた。力不足を自覚しつつも同意し、シナリオの検討、資金の調達などに力を尽くした。上映時には入場券となる前売り券を多くの人びとが買って、支えてくれた。数人のスタッフが撮影現場に参加する計画も立てたが、現地の政情不安定ゆえにロケ日程が確定できず、これは不可能だった。

その作品は四年後『地下の民』となって完成をみた。サン・セバスティアン映画祭でグランプリを獲得するほどの優れた作品だった。東京・渋谷の仮設小屋でのお披露目公開では、連日長い行列ができた。その次の作品『鳥の歌』でも一定の共同作業を行なった。シナリオ段階で意見を出し、ほぼ完成状態で送られてきた作品の、一部のストーリー展開や音楽の用いられ方に異見を出した。それらは採用され、手直しされたものが最終的には送られてきた。

サンヒネスは、2000年、私たちの招待で来日した。東京・木曽・名古屋・大阪で「上映と討論」の夕べを開いた。20年間、ウカマウ映画を見続けてきたフアン層の厚みを実感できる集まりとなった。

ウカマウと私たちとの協働作業は、30数年を経た今も続いている。激動の現代史の展開の中にあって、出会いの当初感じた歴史観と世界観の共通性を双方がぶれることなく持続してきたからこその関係性であった、と私たちは考えている。

◎参考文献

太田昌国=編『アンデスで先住民の映画を撮る――ウカマウの実践40年と日本からの協働20年』(現代企画室、2000年)

ドミティーラ『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人びとの物語』(現代企画室、唐澤秀子訳、1994年)

ベアトリス・パラシオス『「悪なき大地」への途上にて』(編集室インディアス、唐澤秀子訳、2009年)

ウカマウ映画集団の軌跡―-先住民族の復権に向けて


眞鍋周三編『ボリビアを知るための73章』【第2版】(明石書店、2013年2月刊)所収

一時期の世界有数の映画史家ジョルジュ・サドゥールは、映画が製作さえされているならどんな小さな国の映画事情にも触れながら、『世界映画史』を著した(みすず書房)。だが、彼は1967年に亡くなっているから、記述は1964~5年段階までで終わる。ボリビアに関してはわずか7行で、一つの作品も観る機会を持たないままに映画館事情などに触れただけだ。ちょうどその頃、ボリビア映画界の先駆的作家となるホルヘ・サンヒネス(1936~)は、短篇2作をもって登場していた。キューバ革命(1959年)の熱気が、ラテンアメリカ全域を覆い尽くしている時期であった。チリの大学で映画技術を学んだ彼は故国へ戻り、ありのままの映像・音楽・音を用いて、搾取と貧窮に喘ぐ民衆の現実を第1作目の短篇『革命』(1962年)で描いた。続けて、ボリビアに多い、企業が掘り尽くしたと考えて見捨てた鉱山で採掘仕事を単独で行なう労働者の現実を『落盤』(1964年)で描いた。

ボリビアの人口の圧倒的多数を占める底辺の民衆によってこそ受け止められてほしいと作家が願った2作品は、中産階級の一部の良心派の心は衝撃と共に捉えた。だが、貧窮の現実を日々生きている人びとの反応は違った。自分たちのありのままの現実を今さらスクリーンで眺めたところで、どうなるわけでもない。そんな結果をではなく、なぜこうなるのかという原因をこそ知りたい――この反応を知ったサンヒネスは、初の長篇『ウカマウ』(1966年)に新たな気持ちで取り組んだ。妻の暴行・殺害犯であるメスティソの仲買人に対する復讐を長い時間をかけて実現する若い先住民農民の物語である。ティティカカ湖上にある太陽の島を舞台にした物語は、先住民とメスティソのそれぞれの日常生活のあり方を丹念に描くことで、両者の人間関係・自然との関わり方・価値観などを対照的に際立たせた。この社会を分断している人種ごとの「文化」の違いを的確に浮かび上がらせたのである。

ボリビア史上初の長編映画は大評判となり、多くの観客に恵まれた。人びとは、街なかでサンヒネスを見かけると、映画のタイトルそのままに「ウカマウ」と声をかけるようになった。ウカマウとはアイマラ語で、映画の中で何度か使われる台詞だが、「そんなものよ」をといった感じの意味である。監督がひとり際立つ映画作りではなく集団制作を企図していたサンヒネスらは、「ウカマウ」を集団名とすることにした。

長篇第2作『コンドルの血』(1969年)と第3作『人民の勇気』(1971年)は、当時の社会・政治状況を分析したウカマウが、第三世界が強いられている従属構造は国内支配階級とその背後にいる帝国主義によってつくり出されていると考え、それをテーマにした作品である。前者は、米国が後進国援助の名の下で行なっている医療活動において、人口爆発・食糧不足を危惧する医療チームがアンデスの先住民女性に対して本人の同意もなしに強制的な不妊手術を行なっている事実を告発した。後者は、1967年ボリビアでたたかっていたゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する行動を計画していた鉱山労働者や都市の活動家の動きが、それを察知した政府軍によって未然のうちに鎮圧される過程を、生存者の証言に基づいて、セミ・ドキュメンタリー風に描いた。演じるのは常に、素人の農民や鉱山労働者だ。こう書くと、単なるプロパガンダ映画のように響くかもしれないが、物語の構成やカメラワークその他の映画的要素がそれに堕すことを防いだ。現実の社会では最下層に位置づけられている先住民族が、スクリーン上で自らの母語で語り、物語の主役として登場する姿も、先住民族差別が制度されているにひとしい社会の中にあって画期的なことだった。ウカマウ映画は、国の内外でその存在感を高めるようになった。

1971年クーデタで軍事政権が成立し、従来のような表現は許されない時代に入った。今までの作品の上映は不可能になり、ウカマウのフィルムを所持していること自体が罪とされた。サンヒネスは活動の場を、アジェンデ社会主義政権が成立したチリに移した。70年代を通して続く亡命時代の始まりである。1973年、チリでも軍事クーデタが起こり、逮捕を免れたサンヒネスは辛うじてペルーへ逃れた。ペルーでは『第一の敵』(1974年)を、次に亡命地エクアドルでは『ここから出ていけ!』(1997年)を制作した。アンデス諸国に共通の先住民族の母語、ケチュア語による作品である。前者では、ゲリラとアンデス農民の反地主共同闘争の行方が描かれた。60年代のペルーで実際にたたかわれたゲリラ闘争の指導者が獄中で書いた総括の書に基づいた脚本であったが、それはボリビアで1967年に敗北したチェ・ゲバラたちの闘争を彷彿させる内容だった。後者では、資源開発を狙う多国籍企業の尖兵となった宗教集団がアンデスの先住民農民社会に食い込み内部崩壊を導く過程と、それへの抵抗運動の芽生えを描いた。いずれも、現地の農民・映画関係者・大学などから、国境を超えた協力が得られてこそ可能になった作品だった。ウカマウが企図する「先住民族の復権」という思想が「集団的創造」を通して実現した、最も典型的な例として、サンヒネス自身が回顧する二作品である。

1980年代初頭、ボリビアでは民主化を求める民衆運動が高揚する一方、軍部も繰り返しクーデタを試み、混沌たる情勢となった。サンヒネスらは出入国を繰り返して、この過程をドキュメンタリーとして描いた。『ただひとつの拳のごとく』(1983年)はこうして生まれた。十数年ぶりにボリビアに落ち着いて、制作・上映活動ができる時代となった。内外の「敵」を真正面から捉えて行なってきた60~70年代の制作活動をふり返り、新たな時代に向き合う方法を探る過程で生まれたのが『地下の民』(1989年)である。都市で働く一アイマラ青年の半生をたどりながら、先住民としてのアイデンティティの危機という問題を、現実の重層的な社会構造とアンデス先住民の神話的な世界もまじえて描いた、広がりのある作品である。それまでの作品も、各種国際映画祭で高い評価を得てきたが、『地下の民』は89年度サン・セバスティアン国際映画祭でグランプリを受賞した。

文字通り、ウカマウ集団=ホルヘ・サンヒネスの代表作というべき作品となった。

その後も、『鳥の歌』(1995年)、『最後の庭の息子たち』(2003年)などの作品を通じて、過去を内省的にふり返り、あるいは新たに生まれてくる情勢をいかに捉えるかという必然的なテーマをめぐっての模索が続いている。この間、ボリビアには先住民大統領が誕生した。デジタル機材の浸透によって、映画を取り巻く技術的な環境も激変している。ウカマウ集団は今後どこへ向かうか。興味は尽きない。

◎参考文献

ホルヘ・サンヒネス+ウカマウ集団=著『革命映画の創造――ラテンアメリカ人民と共に』(三一書房、太田昌国訳、1981年)

『第一の敵』上映員会=編訳『第一の敵――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』(インパクト出版会、1981年)

『第一の敵』上映員会=編訳『ただひとつの拳のごとく――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』(インパクト出版会、1985年)

第2回死刑映画週間「罪と罰と赦しと」開催に当たって


『死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90』機関誌第127号

(2013年1月25日発行)掲載

昨年開催した死刑映画週間『「死刑の映画」は「命の映画」だ』から、私たちは確かな手応えを感じた。一見したところ「暗さ」と「重さ」を感じさせる催し物だが、にもかかわらず大勢の人びとが詰めかけてくれたから、ということも理由の一つだ。映画を観たり、ゲストの話を聞いたりした人から、死刑制度についての自分の誤解や無知をめぐって、また犯された罪と死刑囚をめぐる思い込みをめぐって、冷静にふり返る声をいくつも聞いた、ということもある。その後、私たちが開く集会や会議に新たに参加している若い世代の人びととは、この映画週間を通して出会った、というのも大きな理由だ。もとより、私たちとは逆に、死刑制度は維持されなければならないと考えている人びとも、この催し物に参加していたに違いない。それも、私たちが望んだことだ。情報公開が極端に制限され、秘められている部分があまりにも大きい社会制度については、賛否いずれの立場に立つ誰であっても、まず、その制度のことを「もっと知る」ことが必要だと思うからだ。

制度のことは、法律や歴史の中でそれが果たしてきた役割を通して、外形的には理解が届く。分からないのは、この制度の下に生きざるを得ないひとの心だ。あるいは、この制度を何らかの理由で廃止した社会に生きるひとの心に、どんな変化が起こるのか、ということだ。その意味では、開催した私たち自身が、10本の作品をあらためて(あるいは初めて)観て、それぞれ深く思うところがあった。生きた時代も場所も異にする多くの人びと――フィクションとドキュメンタリーでは、犯罪が想像上のものか実際に起こったものかの違いはあるが、いずれも、罪を犯した者あるいは冤罪者・被害者・遺族・周辺の人びと、そして脚本家・監督・俳優など映画に関わるすべての人びと――が、「死刑」という、人類が生み出した制度をめぐって、肯定しあるいは否定し、怒り、悲しみ、あれこれ戸惑い、迷い、断言し、苦悩する姿が、そこにはあった。この重層的な複数の思いを、ひとつの固定的な線の上に手際よく整理することはできない。そうしようと焦るのではなく、そこで揺らぐひとの(自分の)心のありようを、じっくりと見つめることが必要だ、と私たちは考える。

今回選んだ9作品から、大まかに言って「罪と罰と赦しと」という共通のテーマを私たちは取り出した。そこから微妙に外れ、別な課題を取り出すべき作品もある。いずれにせよ、ひとを殺めた「罪」を犯した者がいて、それに対する「罰」として国家あるいは或る権力の下で処刑する行為が行なわれるという、明快な因果の関係だけで、事が済むわけでない。済ませてはならない。罪ある者の「償い」と、長い苦悩を経たうえでの当事者の「赦し」の可能性を排除することなく、制度としての死刑の問題を捉えたい、それはひとが持つ人間観と価値観に関わることだ、と私たちは主張したいのである。(2013年1月10日記)

【追記】詳しい上映情報については、会場となるユーロスペースのHPをご覧ください。