木村愛二の生活と意見 2001年3月 から分離

小説や記事でもユートピア消滅を云々するが金融資本主義批判も強烈化時代

(マルクス批判5)2001.3.8.(木)(2019.8.6分離)

 2月初旬に、沖縄のwimp[拙訳:女々しい奴]暴言のE-mail、真珠湾沖の殺人原潜、相次いでアメリカと日本の関係を象徴する事件が起こり、それに集中している間に、1ヵ月が過ぎてしまった。まさに、アッという間の感がある。それでもなお、月初めを意識して、「マルクス批判」の(その5)を綴る。

「財界紙」連載小説で金融資本主義をハイエナ呼ばわり

 その間、いやはや、もう、苦笑するほかないのだが、この「日記風」で開始した「マルクス批判」の(その4)で取り上げた『日本経済新聞』「やさしい経済学」欄の新春企画、「『近代』再考…限界と可能性」「ユートピアの消滅」が、そっくりそのままの丸写しの姿で、同紙の朝刊連載小説に出てきた。

 まずは、その該当部分を紹介し、その上で、小説の粗筋と、その部分の独白をした主人公の略歴、最後に前後の文脈の順序で紹介する。該当部分はこうである。

「もはや、世界中どこをどう探し回っても、社会主義もユートピアも桃源郷も未開の地もなく、あるのは金融資本主義だけだ」

 小説の題は『発熱』、主人公の「龍」は、元暴走族、現・辣腕の国際的な相場師で、文中の「橘キャピタル・ホールディングズ」を準備中である。「産銀」のモデルは、長銀であることが、誰の目にもあきらかである。以下が、前後の文脈である。

「産銀の延命はこの国を倫理欠如の状態に突き落す。市場は必ずや暴力的に報復するでしう。どうせなら、われわれが市揚の力そのものを体現して、この手でそれをやろうじやないか。

 産銀株を徹底的に売りあびせる。取り付け騒ぎを起こさせる。破綻させ、政府の一時管理下において、公正な管財人の下で徹底的にディスクローズさせる。倒壊した巨木をゴロリと返してみると、とんでもない生きものがうじやうじや出てくるように、巨悪の蛆虫どもが日の光の下にあらわになる。それを検察が一網打尽にする。

 荒僚治を施された産銀の新しい受け皿には、橘キャピタル・ホールディングズがなる。再生させて、三、四年後にアングロサクソンに売りとばす。数千億は儲かる勘定だ。

 ハイエナだって?

 そのとおり。アングロサクソンもユダヤも華僑もふだんやっている手口です。金融資本主義とはそういうものです。もはや、世界中どこをどう探し回っても、社会主義もユートピアも桃源郷も未開の地もなく、あるのは金融資本主義だけだ。

 こいつは文明的、哲学的人間観からすれば、人間のカス、クズのやることだ。働かないやつらが絶大の権力を握って、働くやつの首を締める。この権力に較べれば、王や独裁者の権力のほうがまだはるかにましだ。王が奮える権力には目にみえる限界があった。金融資本主義の権力は、それを奮ってるやつにすらどれだけのものかわからない。最終的にだれが幸福になっているのかもみえやしない」

 こういう場合の「社会主義もユートピアも桃源郷も……」ないとする部分を、私は、世間向きの「前振り」と理解する。「社会主義」にも批判的だよという姿勢を先に示しておけば、「財界紙」とも言われる日経の読者も安心して読める。しかし、主人公、または作者は、「金融資本主義」を、「文明的、哲学的人間観からすれば、人間のカス、クズのやることだ」と言い切るのである。ここが面白い。実は、日経の連載小説には、今までにも、政財界、または権力構造の暗部を、これでもか、これでもかと、切り刻んでみせるのが多かったのである。東京の心臓部、特に大手町の財界主流の企業や官庁に通うサラリーマンには、必ずと言って差支えないほど通勤電車の中で日経を読む習慣がある。そういう立場の読者にとっては、現実性に溢れた被虐的な小説の方が慰めになるのである。

危険な国家アメリカの民主主義ユートピア思想は廃れないか

 上記の小説の一節を材料にしながら、ユートピア思想とカール・マルクスの自由の王国の夢を比較しようと考えていたら、もう一つ、別の角度からのユートピア思想論を含む雑誌記事が、わが目に止まった。やはり、これは、今年の流行らしい。

 その雑誌記事とは、朝日新聞社発行、『論座』(2001.4)の「アメリカの覇権という『問題』」で、筆者はウィリアム・パフ(william Pfaff)、インタ-ナショナル・ヘラルド・トリビュ-ン紙のシンジケート・コラムニストという長い長い肩書きである。論調には、「コソボ作戦にいたる意図は健全なものだった」とする点など、賛成できない部分が多いが、一応は、「アメリカの覇権」を批判する立場である。彼は、アメリカにおける「新ウィルソン主義」の潮流の結集状況とその覇権主義を指摘し、「アメリカは『自己正義に満ちた』国家であるとともに、危険な国家なのだ」と結論する。

 次の部分が、その歴史認識の中でのアメリカの位置付けである。

「1914年から1989年までの世界的危機はナチズムとマルキシズムの崩壊とともに終りを告げ、ナチズム、マルキシズムを支えたそれぞれのユートピア思想は死滅した。だが、民主主義を支えているユートピア思想は廃れておらず、これまで同様にアメリカの国家アイデンティティの一部を構成している」

 この雑誌記事の終りには、「この論文は1989年に出版された『バーバリアン・センチメント』(Barbarian Sentiments. New York: Hills & wang)の改訂版からの抜粋」とある。

「センチメント」に関しては、この雑誌記事の中にも、「アメリカが世界の模範となることを中軸に据えた、センチメンタルかつ誇大妄想的で歴史を無視したウィルソンの民主主義世界に関するビジョン」とか、「ウィルソン流の感傷主義」とか記されている。

 この雑誌記事の中には「野蛮人」(Barbarian)は出てこないが、どうやら、著者は、アメリカ人を野蛮人と位置付けているようである。さらに敷衍すれば、「それぞれのユートピア思想」を振りかざした「ナチズム、マルキシズム」をも、覇権を手にした野蛮人の思想として位置付けていることになる。これがまた実に面白い。

 私の解釈によれば、日本の小説の主人公「龍」と同じ商売のアメリカのユダヤ人、ジョージ・ソロスも、いわゆる金融資本主義批判を、公然と行っている。だから、アメリカの民主主義ユートピア思想にさえ、足元からの疑問が噴出しているのである。そういう状況だからこそ、小説『発熱』の作家、辻原登(私は知らない人)は、平気で、先のような相場師の強烈な金融資本主義批判の独白を綴るのである。

 しかし、誰も、その先を論じようとしない。むしろ、避けている。特に「既成左翼」は自信を喪失しているのだ。最早、本シリーズの前回で指摘した「希望」を抱くことができないのである。この状態に蔓延する思想がニヒリズムなのだとしたら、1世紀前のニーチェの予言が、再び、さらに巨大な影響力を帯びて、世界を揺るがすことになるのかもしれない。