木村愛二の生活と意見 2000年9月 から分離

ロフトプラスワン9.2.「希代の国際怪物」康芳夫主役の司会・企画は大成功

2000.9.4(月)(2019.6.10分離)

 2000.9.2.(土)、新宿歌舞伎町「情報発信基地」ロフトプラスワン、Night timeのTalk開始定刻、19:30、正面客席は満杯。スタッフ専用にした別室も、入れ替わり立ち替わり、立ち飲み状態の賑やかさ。店長の加藤梅造が舞台に上がり、いつものように、飲み代が入場料、その一部が出演料、だからジャンジャン飲んでくれという決まりの台詞に続いて、「本日は怪しい人物が客席にも沢山いる」などと述べた後、「怪しい」司会者として私を呼び出す。

 私は、店長の質問に答えつつ、舞台の背景の映写幕に、わがiMacのソフト、iMovieで編集した音声無しの映像、後ほど紹介のテレヴィ番組から康芳夫の映像部分だけを抜き出した[ヴィデオ=1]、題して『康芳夫の百面相』を流しながら、主役の康芳夫との関係、企画のきっかけを要約して物語った。

 最初に知り合ったのは40年前、極悪人を輩出する「怪しい」大学の東京大学である。康芳夫と同じ学部の同期生には、リクルート・スキャンダルの主、江副もいた。康芳夫の初印象は、現在の用語で言うと、「存在感」の強さで一番だった。具体的には、「何か、とんでもないことを、しでかしそうな危険人物」だった。

 私の役割は、この「とんでもない危険人物」、しかし、「同世代の英雄」というと堅苦しくなるが、「ヒーロー」「半神人」「神話の主人公」「伝説の人物」、具体的には「すさのおの命」、または「石川五右衞門」を、同世代として理解し、翻訳し、その「フリー」の先達としての意義を、特に若い世代に伝えることであろう。部分だけだと矛盾だらけで、ますます分からなくなるので、まずは康芳夫の「全体像」を確認するために、「化けの皮を剥ぐ」基礎作業をする必要がある、などと語った。

 多少の手違いはあったが、結果は、おおむね大成功と言って良いだろう。詳しくは別途記すが、ロフトプラスワン店長、加藤梅造も、主役の康芳夫も、大変に喜んでいた。その勢いで、打ち上げは、康芳夫一家の溜まり場と思しき「骨歌」(こっか)、歌舞伎町ゴールデン街こと裏町の目下改装中のバー(元「さつき」の看板の灯が消えたままだが、10月6日には「手古奈」に改名披露予定)に及び、朝6時過ぎまで続いた。

 次回のテーマ別では、「文芸評論家」の肩書きで登場した元「一水会」代表、鈴木邦男が特に食いついて展開され、途中で打ち切らざるを得なかった「家畜人ヤプー」の評価から「三島由紀夫」「大江健三郎」論に至る部分に、店長の加藤梅造も興味を示していたので、いずれ企画したいと願っている。

 ロフトプラスワンの当面のわが企画としては、別途、「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」で記した国鉄闘争のヴィデオを中心に、取材者、争議団OB、宮崎学らも加わる勝手連的国労闘争団プラスアルファなどの激論が、日程調整に入っている。

 明日は、武蔵野市議会の秋の定例会が始まるので、朝9時から市役所前で、2万円の「メガフォン」(商品名)を、5千円の特売三脚の上に乗せ、廃物利用の映写幕を「立て看板」に使い、「ガイセン」(街頭宣伝)する。ああ、物好きが高じて休む暇がない。