木村愛二の生活と意見 2000年6月 から分離

「第十軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」の実物の所在と背景事情(?)

2000.6.2(金)(2019.6.7分離)

 本日午前11時、先日も記した『続・現代史資料6.軍事警察』(1982.2.26.高橋正衛・解説、みすず書房)所収「第十軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」の実物の所在について、やっと電話の確認ができた。

 なぜ私が、この確認を求めたかというと、上記の本のどこを見ても、同「陣中日誌」の実物の所在場所が判明しなかったからである。当然、私は、出版社に電話をしたが、この問題が分かる編集者が、たったのひとりで、しかも、外出中のことが多く、なかなか掴まらなかった。

 その間、「凡例」で「種々の資料の閲覧についての便宜をたまわった防衛研修所図書館」とある「防衛研修所図書館」にも問い合わせた。同図書館は恵比寿駅近くにあり、私は、一度だけ訪れたことがある。ところが、104で電話番号を探すと、まったく出てこない。仕方なしに防衛庁に問い合わせると、何と、「研究所」に変わっていた。研修よりも研究へとテーマが広がったからだという。やっと電話番号が分かって聞くと、蔵書目録には載っていない。ついでに確かめたら、防衛庁が保管している資料については、正式な目録作成、一般公開以前にも、研究者には見せていたという。「法務部」の記録だから、一応、最高裁の図書館にも問い合わせたが、やはり、持っていない。

入手の経過の背後に複雑な事情?

 そういう経過で、やっと本日、担当者が掴まえることができたのである。立場を名乗り、主旨を話すと、快く教えてくれた。まず、解説者の高橋正衛は、みすず書房の編集者だったが、昨年物故していた。代わりを引き受けた編集担当者によると、同「陣中日誌」の実物は「みすず書房が保管している」とのことである。

 上記の本の「凡例」などに実物の所在場所の記載がなかった理由は、ことの性質上、さらには解説者としての名前も出した編集者の物故という事情もあり、当然のことながら、確答を得たわけではないのだが、どうやら、実物の入手経過が複雑だったことにあるらしい。個人が戦後も密かに所蔵し続けていた公文書や「日記」類の入手の背後には、遺族などの複雑な事情が潜んでいる場合が多い。この「日記」が辿った運命も、そのようなことらしいのである。しかも、「殺人」「強姦」などの犯罪の判決文には、上記の本では伏せ字にしている氏名が明記されている。一般公開が難しい性質の記録でもある。

「極秘」資料を残した法務官は2.26.事件にも関与

 上記の本の冒頭には13点のモノクロ写真が収録されている。そのまた冒頭が、この「陣中日誌」の表紙であり、おそらく黒い筆字で、真中に「陣中日誌」、左下に「小川法務官」とある。右側に薄く写っているから朱色の筆字で書き加えられたと思われるのが、「第十軍法務部」と「中支那方面軍軍法会議」であり、左上の「極秘」である。

「小川法務官」について、上記の本の「資料解説」では、つぎのように記している。

「小川関治郎は、甘粕正彦憲兵大尉を裁いた軍法会議(第1回、大正12年10月8日)の判士、2.26.事件では、真崎甚三郎大将裁判(判決、昭和12年9月25日、無罪)の裁判官である」(p.xxxiv)

 本人が記した「第七号軍法務部要員」の一覧表では、小川自身の「戦時職」が「第七号軍法務部長」、「現職」が「陸軍高等軍法会議法務官」、「官等」が「陸軍法務官高等官二等」と記されている。

 別途、「資料解説」全体の総括として、単に「解説」とある部分の最後に、「手帖[中略]に鉛筆で書かれた個人日記」の一部が紹介されている。「吾々文官ハ差別待遇ヲ受クルコトナキニアラズ。[中略]実際邪魔アツカイセラルルハ事実ナリ」など、興味津々のメモなのだが、電話で話した編集担当者によると、この「個人日記」も、今年の夏には公刊の運びである。

 以上、この「第十軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」については、普通の軍の公式記録とは違って、1982.2.26.以前には、いかな研究者でも探索不可能だったことが判明したわけである。

南京攻略参加の少将の手記を紹介した『諸君!』記事

 しかし、早くから、日本の軍人自身による記録の存在が確認されていた。実に奇妙なことには、その記録の内のひとつの存在については、かの厚顔無知なる言論詐欺師、「南京大虐殺」なる「お得意」大袈裟キーワードの造語者、天下の朝日新聞記者(当時)、本多勝一ではなくて、まったく逆に、その本多勝一の「百人斬り」、また聞き、鵜飲み、裏付け調査なし報道を、痛烈に批判した鈴木明の「『南京大虐殺』のまぼろし」(『諸君!』1972.4)の方に、つぎのように紹介されていたのである。

「第十六師団の佐々木到一少将の残した手記があり、これは戦争中発表されることを予期しないで書かれたものだけに、数少ない資料として珍重されている。[中略]佐々木少将の(日本人によって書かれた、恐らく唯一の一級資料)よく使われる資料の一節に、『部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。その後浮虜ぞくぞく投降し、数千に達す。激昂せる兵は上官の制止もきかばこそ片っぱしより殺戮する。[後略]」(p.182,187)

 つまり、鈴木自身は南京事件を頭から否認していたわけではなくて、資料が少ないことを指摘していたのであった。記事の題名に「まぼろし」と付けたのは、おそらく編集者なのであろうが、その「まぼろし」の意味も、記事を克明に読めば、本多勝一の「百人斬り」報道が「まぼろし」という批判だったのである。

 上記のように、鈴木が「恐らく唯一の一級資料」とまで書いてしまったのは、勇み足ではあるが、1972年のことであって、その10年後の1982年になって、さらに「稀有」な法務官による公式記録が出現し、かつ28年後に当たる本年、2000年には、その法務官の「個人日記」が公表の運びとなるのである。

 この際、「歴史見直し研究会」代表を名乗る私としては、本多勝一流の裏付け調査なしの「また聞き」のヨタ話はもとより、その逆に、本多勝一らの揚げ足を取る「草野球の酔っ払い観客の場外乱闘」紛いの「売らんかな議論」をも含めて、ひとからげに退治し、正確な資料に基づく冷静な歴史見直しが行われることを、切に希望する。