『本多勝一徹底研究』本多勝一研究会への「自己紹介」

本多勝一研究会への「自己紹介」転載

1999.1.27.作成と同時に送付済み。

 木村愛二です。

 自己紹介は簡単にしましょう。

 1937年1月17日生まれで1999年現在62歳。東大文学部英文科卒は珍しくないが、その前に防衛大学校(3期)中退と言えば、珍しいだけではなくて、自衛隊関係者は下にも置かない。カンプチアPKO出兵取材では、この「特権」を使って、タケオ基地の汲み上げ「浄水」を無料でボトル一杯貰ってきたが、すぐに喉が乾いて、プノンペンに戻るオンボロ・タクシーの中で飲み干してしまった。

 大学4年で1960年安保闘争を経験。元日本テレビ放送網社員。労組役員各種経験。不当解雇撤回闘争16年半。裁判所の職権和解で円満退職後、フリーランス。「ガス室」問題では『マルコポーロ』廃刊事件の記事執筆者、『ガス室の真実』著者の西岡昌紀とともに、中東3部作、『湾岸報道に偽りあり』著者、『アウシュヴィッツの争点』著者、『偽イスラエル政治神話』訳・解説者として、歴史学者などの不在状況の中で日本の「にわか」権威を自認しています。他に現在、Web週刊誌『憎まれ愚痴』連載記事に自伝的要素。

 以下、本多勝一体験:

1. 「藤木決裂」

 最初に、皆さんが興味を示されている本多勝一初期作品(極限民族3 部作)の共著者、元写真部記者の藤木高嶺(たかね)さんとの「決裂」(以下、「藤木決裂」)の件を、簡単に述べます。

 情報源は秘匿しますが、私が『週刊金曜日』記事を名誉毀損で訴えたことを知る友人知人からは、様々な情報が寄せられました。

 佐佐木さんの広島読者会ホームページ投稿についても、そういう人か教えてくれたのですが、その内の一つが、「藤木決裂」を含む本多勝一批判の数々を抱いているA氏の存在でした。A氏は、元大手メディアのサイゴン支局長として、ヴェトナム戦争からカンプチア内戦まで、長期に現地取材を続け、特に、ポル・ポト派の幹部、イエン・サリらと直接会見の経験を持っています。

 A氏は、「藤木決裂」については、それほど詳しくは語りませんでしたが、この話は、「かなり多くの人が聞いている」と言い、記事のデッチ上げに呆れて藤木さんが「決裂」を宣言して、その後は「一緒にやってないでしょ」と言うのでした。

 私は、朝日新聞社人事部に電話をして、藤木さんが大阪女子国際大学の教授になっていると聞き、図書館で大学の電話を調べ、大学で藤木さんの自宅の電話を聞き、休日に電話をしました。事前に、藤木さんを直接知っている朝日新聞の写真部の後輩から、「気さくな人柄」と聞いていましたが、その通りのザックバランな話し方で、すぐに、記事のデッチ上げに呆れて、「もうこれ以上はついていけん」と「決裂した」と認めました。

 それだけではなくて、朝日新聞社には、「本多のことなら一冊の本が書けるというのが何人もいる」というのでした。しかし、「朝日新聞の身内だから」文字にはしていないというので、私は、「別に個人的な恨みはないが、マスメディアのことを書いている立場として、これは今後も多くの人に影響がある問題だから、ぜひ、どこかで文字にしておいてほしい」と要望しました。すると、藤木さんはさらに、「教祖みたいになっとるらしいね」と言うので、私もさらに「ああいう仕事のやり方の若い人への悪影響」を強調しました。

2. 学歴詐称:千葉大卒なのに「京都大学農林生物科を経て」から「卒業」まで

 上記の「デッチ上げ」「決裂」と呼応するのが同じく初期作品の「学歴詐称」です。

 私は、『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(鷹書房、1974)の巻末資料中「とくに参照した本」の一つに、『ニューギニア高地人』(本多勝一、講談社文庫、1971)を記しています。3部作が講談社文庫に揃って出ていたので、まとめて買った記憶があります。しかし、実際には「とくに参照」はしておらず、参考になる本とは思えなかったので、書庫を整理した時に、他の本と一緒に古本屋に持っていって貰いました。その時からの記憶では、本多勝一の学歴は「京都大学」の文化人類学関係を「卒業」でした。

 ところが、『週刊金曜日』の名誉毀損を訴える段になって、『週刊金曜日』記事の中に文藝春秋相手の通称「本多勝一反論権裁判」についての記事があるのに気付き、読んでみると、訴えた相手の個人名が、大学で演劇の仲間、その後も勤め先が近所の文藝春秋だったので何度も会っている堤堯なので、早速、電話をして、「そちらで始末を付けないから、俺が苦労させられる」と苦情を言うと、「経歴を調べてみろ。学歴詐称じゃないかと追及されて、法廷では2の句が継げなかった」と助言してくれました。

 調べてみると、その通りでした。つまり、初期作品で、中身はデッチ上げ、奥付の学歴は詐称だったのです。おそらく、強烈な出世欲のなせる業でしょう。

3. クメール・ルージュ 300万人の大虐殺

 再びA氏の話に戻りますが、A氏の本多勝一批判の中心は、自分がジャングルの中で危険を冒して直接会見などをした「クメール・ルージュ」(ポル・ポト派)問題で、本多勝一が「300万人の大虐殺(人口の半分!)」などと言い出し、カンプチアの特殊な歴史的事情などを述べると、徹底的に攻撃してきた事実でした。「どこからあんな数字が出てきたのか」とも言います。

4. ヴェトナム「戦場の村」シリーズ

 次には、本多勝一の「戦場の村」シリーズ批判があります。A氏は、「前からインドシナ取材を続けてきた現地の記者が皆」という表現で、「ヴェトナム語も知らない記者が、やってきたばかりで、あんな取材ができるわけがない」。昼は政府軍支配、夜は解放軍、政府軍に疑われれば「虎の門」に入れられて「爪を剥ぐ拷問」を受ける。「半端じゃない」状況だから、現地人はなかなか本当のことを言わない。本多勝一の記事は、皆がデッチ上げと言っていたが、「嘘だと言う立証も難しいから、そこが付け目」と言います。

 初期作品からの経過を考えると、このA氏が告発する「デッチ上げ」は、むしろ、必然的な帰結です。本多勝一は、いわば「デッチ上げ」中毒なのでしょう。

 これらの延長線上に、佐佐木さんが調べられたカンプチアの虐殺に関する自分の文章改竄があるのでしょう。

 自分の記事の改竄という件に関しては、以上のカンプチアの実例を知る以前に、下記の「南京事件の百人斬り」の「本多勝一集」への収録状況を朝日新聞出版局の友人に問い合わせた際、気軽に言われたことがあります。「気をつけないと書き直しているから」というのでした。朝日新聞社の中では、実は、良く知られた習慣だったのかもしれません。

 さらには、ヴェトナム統一後の問題として、宗教弾圧にかかわる記事への批判を訴えた上記「本多勝一反論権裁判」問題、その後の「南京事件の百人斬り」問題がありますが、それらへの批判は、わがホームページの裁判の頁にも入れてありますし、一般にも知られている問題ですから、特に私から紹介するまでのことはないでしょう。

 以上。


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