イラク爆撃報道批判 フランスのバトラー査察団長批判報道

イラク爆撃報道批判 空爆現地体験 UNSCOMスパイ疑惑 他

フランスのイラク査察団長バトラー批判記事(要約)

訳者:萩谷良 1999.2.5

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リベラション(1998.12.18付)

米英またもイラクを叩く

リチャード・バトラーはいかに空爆の火つけ役となったか

リュック・ランピエール記者(ニューヨーク発)

 リベラションの取材に対し、国連でリチャード・バトラーUNSCOM委員長の報告書を読んだ外交官達は、報告書は故意に危機を挑発する書き方だと指摘している。それは、具体的情報は現地の調査官の調査結果を専門家なるものを通じて得たバトラーが、米国高官と頻繁に会って相談しながら取捨選択してまとめ、結論は単独で書いたものだ。

 そこでは、イラク側と調査官の意見が対立したトラブル(少数)だけを取り上げ、支障なく行われた多数の調査(イラク側は300件と主張し、これはUNSCOMによっても確認されている)は取り上げていない。

 バトラーとサンディ・バーガー米大統領国家安全保障担当補佐官は、UNSCOMを役に立たない見かけ倒しの機関と見ている。アナン事務総長が提唱したUNSCOMの「全面的見直し」にバトラーが反対していたのは、よく知られたことであり、今回の彼の言動もこの立場から発している。

 すでに15日の午後遅く、バトラーは米国国連大使から電話を受けていた。そこでバグダッド爆撃のことが話し合われなかったはずはなく、UNSCOMの人員をイラクから退去させる決定はこのとき下されたはずである。事務総長と安保理は事後承諾であった。

 これまでUNSCOMから毎週、現地の状況を知らせられていた安保理理事国の高官たちは、同報告書に述べられている事実に驚いたのではない。彼らが驚いたのは、そこに述べられた結論の重大さである。英国でさえ、その調子の厳しさには衝撃を受けたという。

 バトラーは、報告書の内容に関しては、専門家の判断だと弁明するが、その内容については、UNSCOM内部でも、英米の立場よりもっと躊躇にみちた議論がなされていたのである。報告書にあげられている事件はどれも、リチャード・バトラーが述べているよりもさまざまな解釈の可能なものだった。イラクがイラン・イスラム解放軍の支配下にある施設の調査を許さないと非難しているが、じつは、最終的には、それを認める協定が結ばれた。また、バース党本部への立ち入りについても、イラク側が現行の手続き通り4人の立ち入りを認めていたのに、バトラーは12人にすることを主張し、それが容れられないと、立ち入りが阻止されたと非難している。この程度の意見の不一致を重大な危機と見做したことには国連関係者の間にも疑問の声がある。

 ある外交官は言った。「要するに、あの報告の結論は、イラクは隠し事をしている、なぜならUNSCOMが何も発見できなかったからだ、ということに尽きる。こんな主張をされては、議論ができない」

 空爆は、じつは既に決められていたのだった。


AFP(1998.12.18)

UNSCOMとバトラー俎上に

 18日に始まった安保理では、「ポストUNSCOM」が語られている。イラク空爆を唆したと批判を浴びているバトラー委員長は、米国政府の支持に力を得て、高まる批判もものとせず、その地位にとどまる意向を繰り返し表明。

 バーガー米大統領国家安全保障担当補佐官は、米国政府がアナン事務総長より2日前にバトラー委員長から報告書の結論を知らされていたことを認めている。そのとき中東歴訪中だったクリントン大統領は、これを受けて、空爆を決めたと18日のニューヨーク・タイムズは報じている。

 UNSCOMの職員140名をイラクから退去させるとの決定については、事務総長は、たった1回、それも調査官たちがすでにバーレーンに向かいつつあったときに、知らされたのみであった。


AFP(1998.12.18)

リチャード・バトラー、非外交官的外交官

 シドニー発

 リチャード・バトラー(56)は、古参の外交官だが、一徹者と評判である。

 彼のイラクでの仕事ぶりについて、アナン事務総長は「しばしば外交的配慮を欠く」と非難した。1997年7月1日に委員長に就任した直後、イラクと米国の軍事対決が起こると、イラクの新聞はバトラーを「嘘つき」「狂犬」と書いた。イラクとの対立ぶりは、国連内部でも多くの批判を呼び、国連では人気がない

 人柄は高慢とも、とげとげしいとも評され、原則主義者と見做されており、前任者であるスウェーデン人のロルフ・エケウスとは対照的に、妥協はほとんどしない。彼がイラクを理解しようとしたことなど全くないだろうとも言われている。一緒に仕事をした人の間でも、口の汚さは評判である。

 オーストラリアでは労働党に所属。保守政権の時代には国連大使を務めて、80年代から90年代にかけては、カンボジア和平で重要な役割を果たした。大量破壊兵器には昔から一貫して情熱的な反対の姿勢をとってきた人物で、包括的核実験禁止条約(CTBT)の作成に功績をあげた。熱心な仕事ぶりは米国政府には覚えめでたいが、任務範囲を逸脱しているとの批判も招く。経済学博士。


ル・モンド(1998.12.18)

バトラー氏は去るべきだ

 バトラーはイラク政府の要請でUNSCOM委員長の任務を引き継いだ。前任者エケウスは、大過なく6年間任務を務め、軍縮の点で賞賛すべき成果をあげた。そのためにイラク側の徹底的な妨害に対しては断固たる姿勢で臨んだが、同時に敗戦国イラクの面目を潰さない配慮も欠けてはいなかった。これは、欧州の人間ならナチスドイツの例によって学んでいることである。

 バトラーにはそれがない。フランスが南大平洋で核実験を再開したとき、それを非難した人々の先頭に彼がいたことは非難するまい。だが、UNSCOMの調査官達にカウボーイまがいのふるまいを奨励したのは、無残な失敗である。彼はたえず、勝者としての傲慢な態度で振舞った。イラク人の心を理解したことはなかったし、理解しようともしなかった。例えば、つい最近、イラク側がUNSCOMに調査官のバース党本部立ち入りを承諾したとき、人数を10人と指定すると、バトラーは、30人以下は認めないと回答した。

 今回の報告書でも、あげられている事件はどれも、予期されたことであり、それがイラク側の強硬な反対として述べられている。そこでは一貫して、否定的な側面のみが取り上げられている。彼に協力した専門家は、報告の作成にあたって、まったく相談を受けていない。報告のうち、いくつかの部分は、予め米国に伝えられていたと見られる。こうして、バトラーは、安保理理事国大使の多数の信頼を失った。彼の任務は、別の作法を必要とする。彼は去るべきである。


ル・モンド(1998.12.19)

リチャード・バトラー 軍縮のカウボーイ

 シドニー発

 彼は、外交官としての豊富な経歴を経て、今の地位に就いたのだが、外交官としての機知には乏しい人物である。率直な物言いはしばしば失言につながった。インタビューの中で、イラクはテルアビブを破壊するのに十分な兵器を持っている、などと発言するのは、どうみても、中東に平穏を取り戻す、うまいやり方ではない。ニューヨークタイムズは彼を「きわどい」口の聞き方をすると表現し、オーストラリアのマスコミも彼を「人の神経を逆撫でする人物」と評している。

 オーストラリア外務省の元同僚は、彼のやり方を「カウボーイ外交」と呼び、彼の軍縮への熱意を疑いこそしないものの、「平和の大家」(prince de la paix)という皮肉な渾名をつけている。

 1965年に外交官としてのスタートを切った彼は、ウィーンのIAEAにいたことがあり、ついで70年代から国連大使となった。1983~88年にはジュネーヴで軍縮委員会所属の大使であった。労働党政府の後押しによる昇進であった。1988年には、国際平和・軍縮への貢献により、オーストラリア・メリット勲章を授与されている。

 前任者ロルフ・エケウスに不満をもっていたイラク人は、バトラーの就任を歓迎した。それも3カ月の間だった。イラク政府、特にタラク・アジズ外相とUNSCOMのやりとりは日増しにとげとげしいものになっていった。


リベラション(1998.12.20)

バトラーの反撃

 1991年に設置されて以来初めて、国連本部32階のUNSCOMは、イラクとの連絡を一切絶った。イラク国内数百箇所に配置されたカメラは、映像の発信を止めた。これがUNSCOMの脳死ではないとしても、少なくとも、米国のバグダッド空襲は、この機関を深い昏睡状態に落とし込んだのである。

 自分の報告書が引き起こした戦争で事態がここまで来ても、バトラーは自分の未来を信じている「私はやめない。やめる理由がわからない。することはまだたくさんあるのに」。それどころか、あらゆる事実にもかかわらず、今行われている空爆はUNSCOMがバグダッドに戻るための準備だと信じて疑わないのだ。米軍の爆撃の対象がUNSCOMの施設のある場所に集中しているだけに、これは驚くほかない。

「私の報告は八方まるく収めるために書いたものではない、特に米国に味方しない者は満足しないだろう」と彼は17日に言明した。


以上。